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ウーヴェらが暮らす街から2時間近く南下した村からやって来ていた祖父母のような老夫婦が自宅に帰る日の朝、ウーヴェは朝食の用意を一人でしようとするハンナの言葉を笑顔とキスで封じ、リオンの心身を一瞬で目覚めさせられる朝食を二人で作ろうと笑っていた。
二人がキッチンに並ぶ姿を彼女の夫であるヘクターはもちろん見たことがなく、ウーヴェ様が料理をされるのですかと当初は驚いたが、リオンに料理が出来ると思うかと問われて考え込むように上空を見た彼は、出来ないでしょうなと笑った為、ウーヴェもにやりと笑みを浮かべる。
「あいつは食べる専門だ」
ただ、その食べっぷりは横で見ていて気持ちの良いものだからついついこちらも作りすぎてしまうと笑うと、仲の良さに安堵した二人が笑顔で頷く。
「ウーヴェ様、これからもギュンター様やアリーセ様と仲良くなさって下さいね」
レタスをちぎりながらハンナがぽつりと呟く言葉にウーヴェの目が瞠られるが、安心させる言葉の代わりにこれから定期的にギュンター・ノルベルトと食事をする事にしたと告げると、また二人の顔に笑みが浮かぶ。
「ノル、の……仕事の関係もあるけど、月に2回か3回は食事をすることにした」
「お好きなものをを沢山食べて下さいね」
「……あまり好きなものばかり食べたら太ってしまいそうだな」
太る気配など微塵もないウーヴェの言葉にハンナが楽しそうな笑い声を上げてもっと太っても問題ないと前掛けで手を拭くが、その時、リオンの帰宅時以外では滅多にならないドアベルの音が響き三人が顔を見合わせる。
「誰だ?」
来客の予定などなかったはずだしそもそもこんな早朝に人が訪ねてくる事自体この家では経験できないことだったため、訝りつつ壁のモニターを見てそのまま固まってしまう。
「ウーヴェ様?」
「……父さん……?」
「え!?」
ウーヴェの呟きにハンナが目を丸くしヘクターが慌てつつも嬉しそうな顔で廊下に飛び出して行くと、程なくしてレオポルドとイングリッドと一緒に戻って来る。
「おはよう、ウーヴェ」
「あ、おは、よう……どうか、したのか?」
「いや、ヘクターらが帰る前に顔を見ておこうと思っただけだ」
連絡も入れずに突然やって来て悪かったと口ひげを撫でる父に苦笑したウーヴェは、今朝食の用意をしているがもう食べたのかと問いかけつつイングリッドの頬にキスをし、少しだけ考え込んだ後、朝食は少しだけ食べたと笑う父の頬にも掠めるようなキスをする。
「……旦那様、奥様、今までお世話になりました」
この二週間近くお屋敷にいる間楽しかったと笑うハンナにイングリッドが無言で頷くが、帰るまでの間少しお話をしましょうと彼女の手を取り、朝食の用意をウーヴェに任せると告げるとヘクターも誘ってリビングに行ってしまう。
ウーヴェら兄姉がヘクターとハンナを祖父母と思う以上に父や母にしてみれば育児や人生における先輩である二人とゆっくりと話しもしたいだろうと思いを巡らせたウーヴェは、リオンを起こす時間までまだ少し余裕があったがせっかくなので生成りのエプロンをしたままリオンが眠る部屋に向かう。
「リオンはまだ寝ているのか?」
「ああ、うん。美味しいコーヒーを飲みたいから起こそうと思ってる」
「そうか、俺が起こしてやろう」
「え?」
眠りこけているリオンを起こすのはさぞかし楽しいだろうとほくそ笑む父に何も言えなかったウーヴェだったが、父が起こすとどのような反応が起きるのかを見てみたいという気持ちも多少はあったため、父にお願いすると笑いかける。
リオンの部屋のドアを開けて中に入った父と子だったが、ベッドの中でウーヴェの代わりになるコンフォーターをかかえて眠っているリオンを見ると、ゆっくりと息を吸い込んだレオポルドが一声を放つ。
「いつまで寝ている、起きろ、リオン!」
「!?」
その声にウーヴェが遠い昔に同じように起こされたことを思い出して懐かしさに目を細めているが、ベッドの中では文字通りリオンがコンフォーターを抱えたまま飛び上がってしまい、それについて少しだけ気の毒な気持ちが芽生えてくる。
「は? え? 親父?」
枕を抱えて座り込み、事態を飲み込めていない顔でウーヴェとレオポルドの顔を交互に見つめるリオンだったが、レオポルドが何かに気付いて盛大な溜息を吐いた後、足下に落ちていた布を拾い上げてリオン目がけて放り投げる。
「……パンツぐらい穿け」
「あ、昨日オーヴェと仲良くしてそのまま寝ちまったんだった」
「……」
素っ裸で恋人の父に下着ぐらい穿けと諭されてもにやりとやり返すリオンにウーヴェが何も言えずにただ溜息をつくが、仲良くしてとの言葉の真意に気付いて目尻を赤くする。
「今日親父来るって言ってたっけ?」
「いや、二人が帰る前に顔を見に来たそうだ」
「そっか……んー。おはよ、オーヴェ」
「ああ、おはよう」
パンツをいそいそと穿いて同じく床に脱ぎ散らかしたままのジーンズに足を突っ込んだリオンは、ボタンを留めつつ呆れ顔の恋人の父の前でその頬にキスをし、今日の朝飯は何だと問いかけるが、親父にもおはようのキスをした方が良いのかと悩みを口に出してしまい、遠慮するとにべもなく断られてにやりと笑い返す。
「親父一人?」
「いや、母さんもいる」
「そっか」
いつもに比べれば遙かに良い寝起きで伸びをしたリオンは、ハンナとオーヴェの朝飯が食えると鼻歌を歌いながら廊下に出、キッチンに突撃するものの誰もいないことに気付いて首を傾げる。
「みんなは?」
「リビングだ。リオン、皆にコーヒーを淹れてやってくれないか?」
「へ? ああ、そういうことか?」
「ああ」
リオンは基本的に食べるだけの人だと広言しているが、実はコーヒーを淹れることに関しては下手なカフェの店員よりも遙かに腕前は良かった。
その腕前がどこでどのように鍛えられたのかについては過去にどれほど悪事を-特に母親や姉たちに対して-働いて来たかの証左だったためにウーヴェも深く問わないことにしているが、二人が帰ってしまうといつその腕前を発揮できるか分からないことと、リオンという奇跡の存在の一端を理解して貰う為にとウーヴェがその場を設けたのだが、それに気付いたリオンが柔らかな顔で目を細めたかと思うとウーヴェの腰に腕を回して抱き寄せると同時にこめかみに口付ける。
「優しいオーヴェ、機会をくれてありがとうな」
「……何の事だ」
「またまたー。ホントーに素直じゃねぇよなぁ」
「うるさいっ」
キッチンで二人にとっては恒例の言葉のキャッチボールを楽しんだ後、リオンが人数分のコーヒーの準備に掛かり、ウーヴェはそんなリオンに食べさせる為の朝食の仕上げに掛かる。
それを、二人がいつも食事の時に座る椅子に腰を下ろしたレオポルドが頬杖をつきながら見守っているのだった。
リオンが淹れたコーヒーを飲みながらイングリッドがハンナと楽しそうに笑い、それを横目にヘクターとレオポルドが何やら盛り上がっているのをリビングのドア越しにキッチンから見ていたウーヴェは、俺はもうすぐ食い終わるからあっちに行ってこいとリオンに促されるが、それについては何も言わずに今日の朝食はお前待望のハンナが作ってくれたものだと笑うと、親父の家でも食べていたがやっぱり美味しいとリオンの顔に感謝の笑みが浮かび上がる。
「今日は二人を送っていってハシムの改葬に立ち会うんだろ? その後はどうする?」
リオンが再確認というように今日の予定を口にするとウーヴェが少しだけ考え込みつつリオンの口の端に付いているトマトソースを指先で拭き取った後に無意識にその指を舐めるが、明日ヴィーズンに行かないかと問いかける。
ウーヴェの言葉に対する返事はしばらくの間はなかったが、言葉の意味を理解したリオンが握り拳を作ってグッと腕を引いた後、短く行とだけ返す。
「明日は事件が起きても絶対に帰ってくる、だからヴィーズンに行こう」
「ああ。……メスィフも楽しみにしているようだったしな」
「いやっほぅ。これで今日と明日頑張る気力が出てきた」
ウーヴェのお誘いがよほど嬉しかったのか一気に朝食を平らげたリオンは、出勤の準備に取りかかることを笑顔で伝えてベッドルームに突進した後、暫く経ってからいつものようにネクタイを肩に引っかけた姿で出てくる。
ネクタイを結ぶことはあまりないが、時々こうして何らかの思いから気合いを入れる時にリオンは着用することが増えていた。
ただ、その回数はまだまだ少ない為にあまり上達せず、今から練習するのも面倒だったリオンが出した結論は、ウーヴェにネクタイを結んで貰うということだった。
「オーヴェ、お願い」
「はいはい」
すでに恒例になってしまったそれを苦笑一つで受け入れたウーヴェはリオンの選んだシャツとネクタイとの組み合わせが自分では考えられないもので面白いと思いつつ、ニットのタイを巻きノットを少しだけ崩したように結ぶと肩の埃を叩いて胸に誇りを植え付ける。
「今日も一日、お前の持つ力で周りを明るくしてこい」
俺の太陽は他の人にとっても太陽になり得るが戻って来た時は俺だけのものだと小さく笑ってリオンの自信に満ちた唇にキスをすると、お返しのキスがウーヴェのものよりも少し長くされる。
「ハシムの改葬が終わったらすぐに帰って来いよ」
昨日も言ったが早く帰ってきて明日に備えてゆっくりしようと明日のデートに浮かれるティーンエイジャーのような顔で告げ、明日は新たな友となったメスィフと一緒にヴィーズンに行こうと笑うリオンの胸に拳を宛がい、その為に自分も頑張ってくるがお前も仕事に精一杯励んでこいと同じ笑みを浮かべると、もう一度ノットを掴んで締まり具合を確認する。
「よし。行ってこい」
「ダンケ」
毎朝の恒例行事を久しぶりに終えリオンの顔が刑事のものへと変貌するのを見守ったウーヴェは、リビングから出てきたハンナに気付き、仕事に行ってくるとリオンが笑顔でハンナを抱きしめる。
「あんまりヘクターとハンナともゆっくり話が出来なかったけどさ、ハンナのメシ、すげー美味かった」
何の変哲もないと言うかも知れないがそれが最高に美味かったと笑い、頷くハンナの頬にキスをすると肩に手を置いて最高の笑みを浮かべる。
「オーヴェにも教えてくれたよな?」
「今日のものは教えたよ」
「そっか。じゃあハンナのメシはオーヴェに受け継がれたってことだよな」
あんたの作った料理が食えなくなるのは残念だが、それを受け継ぐ人がいて食べさせてくれることは幸せな事だと笑ってハンナの頬にもう一度キスをすると、遅刻するーと叫びながら廊下を突進していく。
「あ、親父とムッティによろしく言っててくれよな、オーヴェ。明日絶対にヴィーズンだからなー!」
「分かった分かった」
玄関前で叫ぶリオンに同じく声を大きくしたウーヴェは出て行く背中を見送った後、ハンナと顔を見合わせて肩を竦める。
「ハンナ、何時頃に出かける?」
「ウーヴェ様の都合の良い時間で大丈夫ですよ」
ハシムの改葬に間に合うように行かなければならないからあまりゆっくり出来ないことに気付いた二人は、リビングでコーヒーを飲みながら談笑する両親にリオンが皆によろしくと伝言を残していったたこと、今日ではなく明日ヴィーズンに行くことにしたこと、そろそろ出かけなければならないことを告げ、リオンのコーヒーが殊の外美味しかったと手放しで褒めるイングリッドに同意の笑みを浮かべるが、これを飲めるときはリオンが俺を盛大に怒らせたときだけだとも告げるところころと鈴を転がしたような笑い声を立てる。
「良いことだか悪いことだか」
「本当に」
「……仕事に関しては相変わらず真面目なようで安心したな」
イングリッドの笑い声にレオポルドが溜息交じりの言葉を重ねるとウーヴェがそれに対しては頷くだけで同意をするが、和解前を思えば小さくても大きな一歩を踏み出せたことを改めて感じるとともに、父や兄の顔を見るたびに家族を守る為にハシムを助けることが出来なかった罪の意識を感じなくても良くなったことが何よりも嬉しくて目を細める。
「……旦那様、奥様、そろそろお暇いたします」
室内に暖かな沈黙が降り注いだ頃、ハンナとヘクターが家に帰ることを告げ、イングリッドとレオポルドが小さく息を零した後に名残惜しげな顔で二人をそれぞれ抱きしめ、これが永遠の別れになりませんようにと胸の中で強く願う。
ハンナの病状を思えばこうして顔を合わせて話が出来る時間も少ないことは簡単に想像出来、別れが少しでも先になればと願ってしまうが、人として生まれてきた以上別れは必ず訪れるものだった。
今まで生きてきた中で幾度も別れを経験してきたレオポルドとイングリッドだったが、だからといってそれに慣れて感情が動かされないほど心がない訳ではない為じわりと目尻に涙が浮かぶが、それを少し離れた場所でみていたウーヴェもそんな両親と祖父母のような二人の別れを見つめているのが辛くなってしまう。
ただ、それから目を背けることは絶対に出来ないとの強い思いから拳を握って見つめ続け、どちらも満足した頃を見計らってハンナとヘクターに優しく声をかける。
「ああ、そうだ。昨日撮った写真はできあがり次第家に送る」
ウーヴェに肩を抱かれてリビングから出て行こうとするハンナにレオポルドが呼びかけ、昨日屋敷で写した集合写真だがアルバムにした後家に送り届けると告げると、ハンナが嬉しそうに頷き、自宅に飾ることにするとヘクターが妻の気持ちを代弁する。
ヘクターとハンナが自宅に帰ることを告げた後、リオンがいないのは残念だが今ここにいる者達で写真を撮っておこうとギュンター・ノルベルトが提案し、地元の写真屋に急遽頼んで集合写真を撮って貰ったのだ。
その写真の出来上がりが楽しみだと笑ったヘクターは帰り支度を整えてレオポルドとイングリッドの前に再度立つと、今回、ハンナの病気のことでお世話になるだけではなく屋敷でのんびりとさせて貰い懐かしい人たちとも会えたことは本当に良かったと感謝の思いを口にするが、ハンナが辛いと思えばすぐに連絡をすることを再度念押しされてしっかりと頷く。
「お前達二人がいてくれたから俺たちの家族は家族でいられたんだ」
会社が軌道に乗って経営が楽しく家族を顧みなかった自分たちに下された罰のような二人の子ども達の家出や反抗、そしてその結果としてのウーヴェの誕生と帰宅があったが、大小様々な問題に直面したときにも傍にいて支えてくれたことに対し本当に感謝していると、人生と夫婦としての先輩であるヘクターとハンナに感謝の思いを告げたレオポルドは、イングリッドの肩を抱き、最後まで見送るのは辛いからとだけ残して彼らよりも先に息子の家を出る。
一足先に家を出たレオポルドとイングリッドを見送った三人だったが、今度こそ帰ろうと笑って荷物を持つとハンナが玄関前で深呼吸をする。
「ウーヴェ様、本当にありがとうございました」
「俺は何もしていない。ノルに言われていたのにどこにも連れて行けなかった」
二人が屋敷に逗留している間面倒をみろと言われたはずなのに自分たちの問題にかかり切りになり二人の世話をみることが出来なかったと後悔の念を口にすると、ハンナとヘクターが同時に首を左右に振ってそれを否定する。
「昨日も言いましたが、皆様が前のようになったのが何よりも嬉しいのです、ウーヴェ様」
これでもう思い残すことはありませんと笑う彼女に唇を噛んだウーヴェは、これから皆様と仲良くして下さい、リオンとももちろん仲良くと笑う彼女の肩を抱き、さあ家に帰ろうと二人の間に立って両腕を回すと二人が嬉しそうに頷き、たった一晩だけだったがそれでも穏やかな時間をこの家で持てたことは良かったと述懐しながらウーヴェは二人を自宅がある南の村まで送っていくのだった。
二人を山の麓の自宅に送り届け、ゆっくりすれば良いと誘う二人に山の中腹にある教会でやり残したことをするために向かわなければならないことを伝えたあと、今日はもう立ち寄る時間が無いかも知れないがと断りを入れると気が済むまでハンナとヘクターを抱きしめる。
涙を浮かべて見送る二人に悲しい顔を思い出として残したくないために笑みを浮かべて二人に手を振ったウーヴェは、事件と向き合えるようになってからは毎年通った山道を一歩ずつ登っていく。
この道をリオンに背負われて下ってきたこともあったと思いだしつつの登山は過去に比べれば遙かに足取りも軽いもので、心が軽くなると足取りまで違ってくる己の単純さに呆れそうになるが、取り壊しの工事が進んでいる教会の敷地に足を踏み入れた時、ホッとしたようななんとも言えない感覚を覚えてしまう。
罪悪感なしにこの教会-すでに上半分は解体されていた-を見る事が出来るようになるとは昨年までは考えもしないことだったが、慰霊という形を取った懺悔の旅も今年で終わりを迎えることに感慨深げに溜息をついた時、小さく名を呼ばれて顔を振り向ける。
「こんにちは、ウーヴェ」
「こんにちは。少し遅くなったかな」
ウーヴェの前には一足先に待っていたメスィフとこの教会に最近まで来ていた神父とシスターがいて、彼らには黙礼をしメスィフには握手で挨拶をすると、二人揃って中がむき出しになっている教会の窓から中を見つめる。
教会の建物は大型の重機での作業が出来ない為に時間が掛かっているようでまだ下半分の原形はとどめていた。
この場所でウーヴェと彼を取り巻く家族の関係が大きく変化をしたこと、そしてメスィフにとっては写真や父や母が己の中に面影を見出すことでしか接点を持てない兄が最期を迎えたこと、犯人が起こした事件がどれほどの人々の生活を、関係を変化させたのだろうと感慨に目を細めるが、作業の開始を知らせる言葉に頷くと教会の横手にある墓地へと向かう。
名前が刻まれただけの墓標はすでに敷地内の隅に立てかけられていていつものようにそれを撫でることは出来ず、代わりに紐がかけられて運び出される準備が整っている棺のうち最も小さなそれをそっと撫で、二十数年もの間異国で一人眠らせていたことへの謝罪と事件の最中口に出すことも行動することも出来なかったが、横にいてくれたことは本当に良かったと感謝の思いを告げてご両親の横でゆっくりと眠りに就いてくれと祈ると、高く澄んだ空を見上げて目を細める。
「ウーヴェ」
「……ありがとう、メスィフ」
事件当時傍にいてくれた巻き毛のくるくると良く表情を変えた少年は己の中で決して抜けはしない棘のような存在になっていたが、今はその痛みも無くなったと晴れ渡る空の下で満足そうに笑みを浮かべたウーヴェは、兄の存在が助けになっていたのなら良かったと今日の青空のような笑顔でメスィフが頷いたため、ウーヴェの心の中でまた一つ重く感じていたものが昇華されたような気持ちになる。
「……兄はトルコに帰るが、他は?」
作業を見守りながらメスィフが問いかけウーヴェが逡巡した後神父とシスターの前に歩いて行くと、ハシム以外の棺は村の好意で教会に引き取られることを教えられて顎に手を宛がうが、分かりましたと頷いて後の事はお任せしますとも告げるとメスィフにも説明をする。
「……そうか」
「ああ」
澄んだ空の下で行われる改葬という行為を見守りながら短く言葉を交わす二人だったが、レジーナと名前が彫られた棺が運び出されるのを無言で見守り、脳裏に不安を少しだけ浮かべた母と兄の顔を思い出し、今ここで決められないと胸中で詫びる。
ハシムの小さな棺が運び出されたときには午後も遅くになっていて、この後、空港で待機しているチャーター便に載せて帰国することになるとメスィフが総ての懸念が払拭された顔で頷き、これでやっとトルコに帰れると安堵の笑みを浮かべる。
それに対し、長い間待たせて悪かったとウーヴェが小さな謝罪をすると一昨日も言ったが何事にも時間が必要でそれは神が定めたものだから人には如何ともしがたいと老成した笑みを浮かべるが、この後の予定はと問いかけてきた為に連絡が遅れて申し訳ないともう一度謝罪をする。
「……ヴィーズンに行かないか?」
「え?」
「リオンが行きたいと叫んでいたビール祭りだ」
先日の話し合いの際のリオンの叫びを肩を竦めつつ伝えると、メスィフの顔に明らかに嬉しそうな色が浮かび、是非とも行きたいとウーヴェの手を取ったため三人ではなく自分の家族も一緒に行くことになるが良いかと不安を押し殺しつつ問いかけると、メスィフの目が大きく見開かれる。
「ご家族の方と一緒に行っても……?」
「ああ。メスィフが嫌でなければ、だが」
いきなり初対面の人たちの中に入るのは気が引けるだろうかと己であれば躊躇してしまうような場面だと思いつつもメスィフを見れば、初対面の人に関してはまったく問題は無いと笑った為、もしかするとこの青年もリオンのように誰とでもすぐに仲良くなれるのかもと気付くと、小さな笑みを浮かべて明日の待ち合わせについて軽く打ち合わせをする。
「……初対面云々よりも、本当に俺がお邪魔しても良いのか?」
待ち合わせについて話し終えた後にメスィフが遠い空を見上げつつ悲しい事件を思い出させてしまう自分が行っても良いのだろうかと独り言のように呟いたため、ウーヴェも空を見上げ、遙か上空から見守ってくれているであろう自分たちの間に存在する少年に語りかける。
「……行っても良いよな、ハシム」
ハシムがトルコに帰ることで事件は本当の意味での終わりを迎えるが、メスィフとは友達になったばかりだしまた遠方から来てくれた友を両親や家族に紹介することは何ら不都合は無いと己の言葉が嘘ではない事を証明するように目を細めたウーヴェは、口元に穏やかな笑みを浮かべてメスィフの横顔を見つめると、事件が知り合う切っ掛けではあるがそれとは関係なくきみのことが知りたいと告げて手を差し出す。
「ハーリカ、サイグ バル、ウーヴェ」
「そうだ。トルコ語も教えてくれないか」
ウーヴェの手をしっかりと握りながら母国語で感謝の思いを伝えたメスィフだが、さすがに英語やフランス語の日常会話が出来てもトルコ語にまでは精通していないウーヴェが微苦笑すると、喜んでと満面の笑みで握った手を上下に振る。
「ウーヴェが良ければだが、トルコにいる俺の友人も紹介したい」
その友は生まれて間もなくの頃から傍にいる男で、学校でも卒業して父の会社で働き出してからもずっと傍にいて自分を支えてくれていると、その友人を誇りに思っている顔で告げるメスィフに、ああ、彼にも自分にとってのベルトランのような存在がいるのだなと気付いて微笑ましさを覚え、もちろん会ってみたいと頷き、神父とシスターが下山のために呼びに来るまでただ二人肩を並べて暮色が徐々に強くなり始めた空を見上げているのだった。