テラーノベル
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レオンの胸の鼓動が、まるで鼓笛隊の太鼓みたいに私の体に響いてくる。厚くて熱い胸板にぎゅっと身を預けてしまえば、もう完全に恋する乙女だった。こんな胸キュンは生まれて初めて……。学校の男子なんて、足元にも及ばない。私はここぞとばかりに、彼の首に回した腕にぎゅうっと力を込めた。レオンは少し驚いたように瞬きをして、ブロンドの髪の隙間から金色の瞳を覗かせ、小さく笑った。
「なに? 怖い?」
その声は低くて甘くて、耳の奥で溶けそうだった。咄嗟に私はそっぽを向き、「怖くなんかない!」と突っぱねた。レオンは真っ赤に染まった私の顔を覗き込み、「やっぱり君は面白いな」と目を細める。幾つの屋根を駆け抜けただろう……彼は背後を振り返り、足を止めた。
「もう、いいかな……オランジェ、自分で歩けるかい?」
「……え、うん」
追っ手の衛兵の鎧がガチャガチャ鳴る音は、もう遠くに消えていた。レオンが急に指先に力を込めた。「オランジェ! しっかり掴まって!」低い声が耳元で響くのと同時に、彼の腕が私の体をさらに強く抱きしめる。次の瞬間、まるで猫が舞うように、屋根の端から音もなく飛び降りた。風が一気に頬を打つ。視界がゆっくりと傾き、朝の光が金色に滲んで、まるでスローモーションの夢の中みたいだった。地面が近づいてくる。でも怖くない。レオンの腕の中だけが確かな重さと熱さで、私を包んでいた。砂煙がふわりと舞い上がり、静かに地上に降り立つ。衝撃なんてほとんど感じない。ただ、レオンの胸が大きく波打つだけだった。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
「う……うん!」
レオンはブロンドの髪を掻き上げ、肩で息をしながら左手を差し出した。額にはうっすらと汗が滲んでいる。「やっぱり……重かった?」彼は私の手を握りながら「ちょっとね!」と戯けて笑った。冗談だと分かっていても胸がチクリとした。「ごめん」ダイエットをしておけばよかった……でも待って、この体はオランジェット・ドナーのもので、私じゃない……いや、私でもあるのよね!?どっちが私なの!?思考がぐるぐるして、もうこの状況についていけない。レオンの手は温かくて、でも私は頭の中が大混乱だった。
「さぁ行くよ!」
「……えっ!」
レオンは手をしっかりと握り、石畳の道を真っ直ぐ走った。それは吹き抜ける風のように速かったが、私が転ばないか、何度も笑顔で振り返った。「転ばない?」「大丈夫?」なので私は邪魔なドレスの裾をたくし上げ、その逞しい背中を追いかける。レンガ作りの街並みが流れては消える。こんなに走ったのはいつだったか、中学校のマラソン以来かもしれない。息が上がり呼吸が短くなる、汗が滲む……けれどレオンの手は羽根が生えたように私を違う景色へと連れて行ってくれる。
どれくらい走っただろう、教会の尖塔が遥か彼方に見える。彼は噴水のある広場で急に立ち止まった。私は思わずつんのめり、レオンの背中にぶつかってしまった。
「……なに?どうしたの?」
「……しっ!」
レオンは急に人差し指を私の唇に当て、言葉を封じた。次の瞬間、私の手を強く引いて、細く暗い路地へと滑り込む。陽の光が届かない石畳はびっしょりと濡れ、緑黒い苔が這っている。鼻を突くカビと腐った水の臭い。牢獄の奥を思い出させる、湿った重い空気だった。
足元をドブネズミがチョロチョロと横切り、思わず「ひっ」と声が漏れそうになる。でもここで叫んだら終わりだ。ぎゅっと握り拳を作り、歯を食いしばって堪えた。ポタ、ポタ……どこからか水が滴る音だけが響く。背筋に冷たいものが這い上がる。さっきまで朝日の中で煌めいていた時間が、急に色褪せて見えた。こんな場所に連れ込まれて……これからどうなるのだろうか?
レオンの手はまだ熱いのに、私の心は凍りつきそうだった。
「……あ」
路地の奥、腐った木の匂いが漂う先に、ほのかな灯りが漏れていた。苔むした壁にへばりつくように、一軒の朽ち果てた小屋が佇んでいる。静寂なのに、どこか大勢の息遣いがざわめくような気配がした。レオンが振り返り、金色の瞳を細めて小さく笑う。
「ようこそ。僕らの秘密の要塞へ」
「よ……要塞?」
こんなボロ小屋が?私が目を白黒させていると、彼は地面から小石を二つ拾い上げ、二階の板戸に向かって軽く投げた。コツン、コツン。乾いた音が路地に響き、石はすぐに落ちる。するとすぐに、ガチャリと重い鉄のかんぬきが外れる音。続いて、錆びた蝶番が軋むような音を立てて、玄関の扉がゆっくりと開いた。奥から、暖かな灯りと、誰かのざわめきが漏れてきた。
「おう!レオン、お姫様はどこだい?」
扉から顔を出したのは、頭に角付きの毛皮帽子を被った、まるで熊みたいな大男だった。肩幅が扉いっぱいに広がって、腰を屈めても頭が枠にぶつかりそう。
……あれ、この帽子、どこかで見た。バイキング? 魔法世界って本当に何でもアリなんだ……。呆然と立ち尽くしている私の姿を見て、大男は目を丸くして、ぽっかりと口を開けた。
「こりゃあ、大したお姫様じゃねえか」
そりゃそうなる。ドレスの裾は自分で大胆に引き裂いたせいでボロボロだし、プラチナブロンドの髪はリボンで無理やり束ねただけで乱れ放題。顔も手足も泥と埃。さっきまで断頭台に立ってた女が、急にこんなボロ屋敷に現れたんだから、驚くのも無理はない。
「こん……こんにちは」
「おう、まぁそんな堅っ苦しいことは無しだ、さぁ入った。入った」
「お邪魔します」
レオンが優しく「大丈夫だよ」と目を細めて微笑み、ゆっくり頷く。私はその笑顔に背中を押されて、恐る恐る扉をくぐった。中は意外に暖かかった。ランタンの柔らかな灯りが揺れ、木の丸テーブルを囲んで男たちがカードに興じている。暖炉の前ではエプロンの女性が大きな鉄鍋をヘラでかき回していて、野菜とハーブの甘い匂いが部屋中に満ちていた。
昨日から何も口にしていない胃袋が、グゥゥゥッと盛大に鳴った。恥ずかしい……。
「さぁさぁ、お客人がお食事だ。どいたどいた!」
バイキングが豪快にテーブルを叩くと、カードがバサバサと飛び、男たちはぶつぶつ言いながら床に散らばった札を拾い、席を空けてくれた。エプロンの女性が笑顔で木のトレーに、湯気の立つ野菜スープと焼きたてのパンを載せて運んでくる。
「どうぞ、ゆっくり召し上がれ」
「いただきます!」
待っていられなかった。もう両手でパンを掴んでガブリ。その豪快な食べっぷりに、男たちは腹を抱えて笑った。
「こりゃとんでもねぇ、伯爵令嬢様だ」
「……う、美味しい」
牢獄で出された石みたいなライ麦パンとは全然違う。ふかふかで、バターとミルクの香りが口いっぱいに広がって、涙が出そうになった。
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