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『ああ、希咲が言ってるのは空岡さんだよ』
『ソラオカさん?』
会社名と同じ名前だ。その時点である程度の予想はつき、胸の中に苛立ちが生まれる。
『そう。社長のお嬢さんなんだけど、経理部の社員として働いているんだ』
『へえ……お嬢様なのに働いてるんだ』
つい嫌味な声を出してしまったが、相手の男は気付かない様子で笑顔で続ける。
『お嬢様と言っても、全然偉ぶってないよ。むしろ気を遣って面倒な仕事を引き受けてくれるって評判だし。優しくて明るい人だよ』
やけに評価が高いのが、更に希咲を苛つかせた。
『ふーん。でもみんな気を遣ってるように見えたよ?』
指摘すると、男は困ったように眉を下げた。
『まあ、それはね。すごくいい人だけど社長の娘さんなのは変らないから。もしかしたら将来会社を継ぐかもしれないし、どうしても気は使うよ』
『なーんだ。結局忖度してるんじゃない』
希咲が嫌味を込めて笑うと、男は気まずそうな顔になってしまった。
(ああ、むかつく)
第一印象から嫌いだった園香へのいら立ちが、一層大きくなった瞬間だった。
社長令嬢として生まれ育った彼女は、おそらく何の苦労もしないでここまで来たのだろう。
(優しくて明るくて気を遣ってるか……笑える)
他者に気遣いが出来るのは恵まれている証だ。別に園香が優れた人格と言う訳ではない。
恨みや妬みという感情をただ知らないだけなのだ。
それなのに彼女は、素敵な女性だと褒めたたえられているなんて、おかしいと思う。
希咲だって苦労を知らず育っていたら、きっと園香のような女性になっていたはずだ。
気付けば、自分とは一切かかわりがない園香を敵視するようになっていた。
それでも、何かしようなんて一度も考えたことはなかった。
非常に鼻に付く相手だが、瑕疵がない社長令嬢を攻撃したら希咲が悪者になってしまう。
名木沢と結婚して何不自由なく暮らし、趣味の延長の仕事もある。
今の環境をわざわざ壊す必要はないだろう。
しかし、その後も園香の存在は希咲をどうしようもなく苛つかせた。
自分でもなぜここまで彼女が気に障るのか不思議なくらいだった。
不快感からくるストレスを発散したくて、不倫相手と会う機会が増えていた。
何も考えずに遊ぶことで、気分が紛れていたからだ。
けれど、調子に乗り過ぎたのか、相手の妻に不倫がばれた。
不倫相手の妻は正論と綺麗事で希咲を攻撃してくる嫌な女だったため、つい過剰に反撃したら、相手が病んでしまいトラブルになった。
結局、名木沢が慰謝料を払うことで解決したが、希咲は気に入って働いていた美倉空間をクビになってしまった。
なによりも自分が排除された事実が許せず、名木沢の影響力で美倉空間とソラオカ家具に復讐したかったが、どちらも上手くいかずに終わった。
不満を燻らせていたところ、同僚として親しくしていた冨貴川瑞貴が起業し独立すると噂を聞いた。
以前から瑞記が自分に気があることに気づいていた希咲は、絶好のチャンスとばかりに彼に近付き、起業メンバーとなったのだ。
まさか、その後彼が、空岡園香の夫になるなんて思いもせずに。
『社名を決めるのって結構難しいな』
開業に向けて動き始めていたある日。瑞記がそんなことを言い出した。
彼は優しい性格だが、優柔不断で頼りないところがある。
(社名くらいぱぱっと決めちゃえばいいのに)
希咲は内心呆れながらも、にこりと微笑んで返事をする。
『全然思い浮かばないの?』
『冨貴川ワークにしようかと思ってたんだけど、字面がいまいちな気がしてるんだ』
たしかにぱっとしないし、安直だ。
『う~ん……もう少しひねりがあった方がいいかも。私も考えておくよ』
本音は隠してに、適当に調子を合わせる。
『ありがとう! 希咲は本当に頼りになるね』
希咲としては雇い主になる瑞記を持ち上げているだけだ。けれど彼は希咲の本音にまったく気が付かない。
その後、希咲の提案で社名は【TKワーク】に決定した。
初めはなんでもいいと思っていたが、ふと自分の名前を入れるのもいいかもしれないと思い立ったのだ。
冨貴川のTと希咲の旧姓である小金井のKを合わせた社名だ。
冨貴川ワークよりもずっといい。
会社は瑞記の人脈と希咲の神楽グループのコネにより、かなり順調にスタートした。
元々デザインの仕事を希望していた希咲は結構真面目に働き、瑞記との関係も、ビジネスパートナーとして理想的なものだった。
ところが起業して一年後に、瑞記が親の紹介で見合いをしたと言い出した。
相手は空岡園香。希咲が大嫌いだったあの女だ。
不快感が押し寄せて来たが、瑞記の前ではなんとか平静を装った。
『瑞記がお見合いか~それでどうだったの?』
『素敵な人だったよ。ソラオカ家具の社長令嬢だから、上から目線で何か言われるかもしれないって警戒していたけど、穏やかな人だった。それに正直な人だった。見合いは親に頼まれたからで、まだ結婚は考えてないって言われたよ』
『ええ? それは瑞記に対して失礼じゃない?』
『いや、変に気を遣われるよりはよかったよ。僕も同じ気持ちだったし。でも園香さんと話してたら、もう少し彼女のことを知りたくなったんだ』
瑞記は照れくさそうに、頭を掻く。希咲の気分は下降し続ける。
『……ふーん。瑞記は園香さんのことが気に入ったんだね』
つい低い声を出してしまったが、瑞記は気付かない。
『ああ……うん、そうだね。園香さんもまんざらじゃなかったみたいで、デートに誘ったらOKしてくれたんだ』
『なんだ。幸せそうじゃない』
『そうかな? どうなるかまだ分からないけど、見合いって思っていたよりいいものだと思ったよ』
『へえ?』
瑞記は仕事の電話が入るまで、ご機嫌で惚気話を続けた。最後まで希咲の心情に僅かも気付きもせずに。
(最悪。瑞記があの女と結婚?……まさか仕事にまで口出ししてこないよね?)
社長夫人だからと言って、希咲のテリトリーに踏み込んで来るなんてことが有ったら我慢出来ない。
それだけではない。
そもそも瑞記の妻が園香というのが納得できないのだ。
今、瑞記が一番優先しているのは希咲だ。客観的に見てそれは間違いない。
けれど彼が結婚したらその序列が変わるかもしれない。
いくら大事にされているとは言っても、希咲はビジネスパートナー。妻と比べたら立場が弱い。
(……破談になればいいのに)
希咲は瑞記の背中をじっと見つめながら、心の中で呟いた。
そうすれば今のまま。希咲が煩わしい思いをせずにすむ。
しかし希咲の願いは届かず、瑞記と園香の関係は極めて順調なようだった。
瑞記が積極的にアプローチし、園香が段々絆されている様子が、瑞記の世間話の合間に伝わってきて希咲を苛立たせた。
ときどき状況をはっきり聞き確認した。
『瑞記、園香さんと結婚が決まりそうなの?』
『いや。僕は早く結婚したいんだけど、彼女がまだ結婚は早いと思ってるみたいで。残念だけど結婚は当分先になると思う』
『そうなんだ』
少しだけ安心した。ところが夏過ぎから状況が変化した。
『園香がプロポーズを受けてくれそうなんだ』
仕事後に食事をしているとき、瑞記が秘密を打ち明けるように、でも嬉しそうに言った。
『え……彼女は結婚に乗り気じゃなかったんじゃないの?』
『仕事を優先したがってたんだけど、広報部に異動して考えが変わったみたいなんだ。僕と結婚して家庭に入ってもいいって言ってる』
瑞記は嬉しそうだった。
共働き夫婦を望む男性が多い中、瑞記は専業主婦を希望している珍しいタイプだ。
園香がなぜ考えを変えたのかは分からないけれど、彼の理想としている暮らしを手に入れようとしているのはたしか。
『……異動先で上手くいかないから結婚するってこと? つまり逃げ出すんじゃない。それはどうなのかな?』
イライラしていたせいか、思っていた以上に嫌味っぽい声が出てた。
しまったと思ったときはもう遅く、瑞記が希咲を見る目には、明らかに嫌悪が浮かんでいる。
『園香にもいろいろ事情があるんだ。それにもし逃げるんだとしても、僕はそれでいいと思うよ』
『そ、そうなんだ。余計なこと言っちゃったね』
希咲は感じた衝撃を隠すように俯いた。
(瑞記が私をあんな冷たい目で見るなんて)
園香を悪く言われたから、怒っているのだろうが、ここまではっきり態度に出すとは。