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篠原愛紀
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「来てから料理しっぱなしだし今日はもういいよ」
「作るのは明日でいいから」
(——え?!)
(ちょっと待って……)
(……明日?)
今日
もう少しだけリュカと居る事にした
リュカに作り置きの料理を作る事にした
私が選んだ
私が下した
私の決断
(明日でいいよ……って言った?……よね)
その意味は
リュカの真意は
「泊まっていきなよ、ゆっくり話聞くから」
(——泊まる)
これが私の運命
そう信じた自身の殻を破り
もう少しだけ留まる事を選んだ
でも……泊まる?
溶解しかけた運命の殻が
まるでDNAに施された鍵の様に
再び前に進む事を拒む
ここは自宅じゃない
私は既婚者
自宅には帰りを待つ夫が居る
……いや
そんな崇高で
そんな当たり前で
そんな普通の夫はいない——
でも……
ネガティブな思考が
既婚者の常識が
婚姻の契約が
私の心に鍵を掛ける
「——奈、瑠奈!」
「……え?」
思考が負のループに陥り
気付くとまた私は自分の殻に籠っていた
「大丈夫だよ、俺を信じて」
「何があっても俺が守るから」
「わかるだろ、今なら——」
不安に顔を歪ませる私を
真っ直ぐに見つめる真剣な眼差し
リュカの言葉はきっと
嘘じゃない
軽くない
口先だけの言葉じゃない
そう確信できる
彼を知った今の私は
彼の真摯な行動と
彼の私への執着は
そう確信できた
リュカの言葉と
リュカの眼差しが
固まりかけた私の運命の殻を
再び溶かし
その先へと導く
「……うん、わかった」
再び閉ざされかけた
強固な運命の殻を破り
私は
再び決断し
再び前進する
オフィスで共に一夜を過ごして以来
再びリュカと一夜を共にする——
(夫に連絡しないと……)
忘れていた昨夜の事
私は夫に無理矢理抱かれた——
泥酔していたとはいえ
浴びせられた罵声
伴侶に対するものとは思えぬ扱い
それに耐えきれなくなり
夫を避けるように飛び出した今朝
(そうだった……)
目まぐるしく記憶がフラッシュバックする
(何て言えば……)
(気まずいな……)
(連絡したくないな……)
何があっても俺が守るから——
「……」
私の家庭の醜態を
私と夫との問題を
リュカに頼るわけにはいかない
これは私の
これは私達の問題だ
でも
リュカの言葉が
私に一抹の安心をもたらし
私を後押しする
私は夫に連絡しなかった
***
「あまり上手く行ってないの……夫婦関係」
リュカと居る時
語る事の無かった夫との事
話したくなかった夫婦の事
陰鬱な私自身の事
それを
今日
私は
遂に口にした
よりによってリュカに
今まで誰にも話した事がなかった
緊張に言葉が詰まり
緊張に唇が震える
リュカは
否定も肯定もせず
ただ黙って聞いていた
私の出生の事
私の生い立ち
私の半生
障害の事
母親との関係
夫との事
自宅での実態
会社での境遇
今までの事から
今に至るまで
ありったけの事を
思いの丈を
素直に
実直に
正直に話した
いざ話し始めると
閊えていた物が取れたかのように
とめどなく言葉が溢れた
と同時に
とめどなく涙が溢れた
私は自分の感情に蓋をして
自分自身を見て見ぬふりをして
それが受け入れるべき自分の運命だと
自分自身に言い聞かせ
自分を虐げていたのかもしれない
閊えていた物が取れたかのように
感情が解き放たれ
自分を囲っていた殻が溶解していく
それをリュカは
ただ黙って聞いていた
陰鬱な私の現実を
リュカはどう思うだろう
リュカは何を考えたのだろう
私の現実を知って尚
こんな私でも受け入れてくれるのかな
リュカは勘が鋭い
内面を見透かしたような目で
予知したかのような行動をする
具体的な事案は分からずとも
私の心情から
私の表情から
ある程度の事態は予想できていたのだろう
私は今日
夫を裏切った
夫よりも自分を優先し
リュカと居る事を選んだ
私は悪い嫁——
夫からどんな扱いを受けようとも
夫からどんなに虐げられようとも
妻の勤めは別物
実直に守り続けて来た
だって
自分で決断して
自分が選んだ事だから
自分で決断して
婚姻の契約を交わしたのだから
にもかかわらず
私は
今日——
自己否定を繰り返し
自分で自分に足枷を付ける
ああ……またここに戻ってきてしまった
リュカの面前でまで
いつも自宅で
夫といると感じる
私の精神的な定位置
リュカと出会う以前の私の世界
——色彩なきモノトーンの世界
——とその時だった
ドンッ!
「——!?」
身体に圧し掛かる強い衝撃が走る