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第三十六話 言えなかった言葉
「伝えたい気持ちほど、言葉にするのは難しい。」
夏祭りの翌日。
昨日までの賑わいが嘘のように、
街は静かな朝を迎えていた。
湊は机の上に置いたカメラを眺める。
昨日撮った写真。
浴衣姿の紬。
花火を見上げる横顔。
四人で笑い合った一枚。
どの写真にも、夏の匂いが残っているようだった。
「……いい写真だな。」
思わず、小さくつぶやく。
でも。
写真を見ていると、
昨夜のことが何度も頭に浮かんだ。
『また来年も、一緒に見よう。』
あの約束。
そして、最後に触れた指先。
あの瞬間、自分は何を言いたかったのだろう。
*
午後。
紬からメッセージが届く。
《今日、少しだけ散歩しない?》
待ち合わせは、いつもの川沿い。
湊が着くと、紬はベンチに座って川を眺めていた。
「待った?」
「ううん。」
「私も今来たところ。」
二人は顔を見合わせて笑う。
*
川沿いをゆっくり歩く。
昨日とは違って、人通りは少ない。
蝉の声だけが響いていた。
「昨日、楽しかったね。」
紬が言う。
「うん。」
「去年より、もっと。」
その言葉に、湊は少し照れながら頷く。
「俺も。」
しばらく沈黙が続く。
気まずいわけじゃない。
むしろ、心地よい静けさだった。
*
「神崎くん。」
紬が足を止める。
「私ね。」
「向こうに行ってから、一つ気づいたことがあるの。」
湊は静かに耳を傾ける。
「景色って。」
「誰と見るかで、全然違うんだね。」
その言葉は、湊の胸にまっすぐ届いた。
去年の桜。
夏祭り。
夕焼け。
どの景色も、紬がいたから特別だった。
「俺も……そう思う。」
それだけ言うのが精一杯だった。
*
その時、一匹の猫が二人の前を横切る。
「あっ、かわいい。」
紬はしゃがみ込み、猫にそっと手を伸ばす。
猫は警戒することなく近づき、小さく鳴いた。
その無邪気な笑顔を見て、
湊は自然とカメラを構える。
カシャッ。
「また撮った?」
「うん。」
「今の笑顔、すごくよかった。」
紬は少し恥ずかしそうに笑う。
「神崎くんって、本当にそういう瞬間を見つけるの上手だね。」
その言葉が、何より嬉しかった。
*
夕方。
別れの時間が近づく。
「明後日には、また向こうに戻るんだ。」
紬がぽつりと言う。
湊は驚いた。
「そんなに早いの?」
「うん。」
一週間なんて、本当にあっという間だった。
言いたいことがある。
でも、言葉が出ない。
「じゃあ……また。」
結局、それしか言えなかった。
紬は少し寂しそうに笑う。
「またね。」
二人は反対方向へ歩き出す。
数歩進んだところで、湊は振り返った。
紬も同じタイミングで振り返っていた。
目が合う。
二人とも笑って、小さく手を振る。
その笑顔だけで十分だった。
そう、自分に言い聞かせた。
📷 Photo.036『振り返る夏』
撮影日:7月28日
言えなかった言葉は、
夏風がそっと運んでいった。
いつか伝えられる日まで、
この想いは心の中で育っていく。
コメント
1件
読了したよ!第36話「言えなかった言葉」、めっちゃ青春の甘酸っぱさが詰まっててキュンときたわ…。特に猫の前で無邪気に笑う紬を湊がカメラに収めるシーン、「今の笑顔、すごくよかった」って言葉が自然すぎてグッときた。別れ際に二人同時に振り返って目が合うとこ、もう最高すぎるでしょ。言えなかった言葉を夏風が運んでいくラストも切なくて綺麗だった。M.Sさんの描く距離感の絶妙な関係性、めっちゃ刺さります🔥