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「Ciao,Yuki」
もうすっかりと耳に馴染んでしまったはずの言葉だというのに、いつまで経っても色褪せることを知らず、心臓に小さくも深い傷を刻んでいる。
イタリア人とは違う日本人独特の発音が、抜け切れていない。
たった一言、されど一言。
彼はいったいどんな顔をしていただろうか。どんな目で俺を見ていただろうか。
思い出そうとすればするほどに得体の知れない靄が思考を蝕んでいく。
ザーッと古いテレビのノイズのように彼の顔を覆ってしまう。
そこでふと、違和感が俺を捕まえた。
彼、とは一体誰だ。
ドクン、と全身の血液が沸騰したかのように身体が高揚している。
は、は、と呼吸が小さく細切れになる。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
「っ、たすけて、………らん、」
ぽとりと無意識のうちに口から紡がれた名前に、急速な安堵がもたらされた。
そうだ、彼は、高橋藍。
俺の、__。
・
・
・
「え、祐希さん。もう帰るんすか?」
タオルと水筒を手に取り、シューズの紐を緩めた彼の姿を見止めて、ひくりと目尻が強ばった。
「…そうだけど、」
どうかした?と、気遣うように言葉を投げかけられるが、これは他人行儀故のヤサシサであることに気づいてしまった。
周りにいたメンバーは心配そうに俺たちを見つめる者もいれば、またか、と鬱陶しそうな顔を隠しもしない者もいる。
ぐ、と拳を握り力を込めて笑みを浮かべた。
彼が好きだと言ってくれた、人懐っこそうな笑顔を惜しみなく向ける。
「祐希さんが一緒にサーブ練しようって誘ってくれたんやないですか。忘れてしもたん?」
「…?そんなこと言ったっけ。」
「言ってましたよ。せやからまだ帰らんといてください」
「ん、…わかったよ。でも、いつもより疲れてるから早めに切り上げよう」
いいね?と念を押してくる姿はまるで出会ってすぐの頃のようで、はい、と素直に頷いても良い子だと撫でてくれる手はない。
そのことに確かな空虚感を感じつつも頬を叩いて上を向いた。
泣いていいのは俺じゃない。
だって、迷子なのは祐希さんのほうだから。
最初にあらわれたのは、ほんのわずかな違和感。
事後もう就寝するだけだというときに、ふと彼の頬に手を伸ばそうとした。
しかしその手は届くことなく、パシン、と乾いた音が響いた。
訳がわからないという顔をしていたのは、手を払われた俺ではなく、払った彼の方で。
「ぁ、なんで、…」
「…ゆうき、さん?どうしたんですか、」
「いや…痛くなかった?ごめん、払うつもりなんか微塵もなかったんだけど。」
「…大丈夫ですよ。疲れとるんかも、早く休みましょ」
無意識の、拒絶。
払われた右手がヒリヒリと痛んだが、それ以上に心臓が締め付けられるような苦しさを訴えた。
同じベッドに潜り込めば、先程とは打って変わって慈愛に満ちた手つきで髪を撫でつけられ、抱きしめられる。
そのことに安堵しながらも、右手を包む左手を彼に伸ばすことはできなかった。
この日を境に、祐希さんはだんだんと忘れっぽくなっていった。
忘れっぽい、と言っても彼が忘れることは決まって俺が関わっていることばかり。
些細な約束、会話の内容。祐希さんの記憶から俺が消えていく。
怖い。そう思った。
彼自身にも、何か思うところがあったようでいよいよ病院にかかるべきだと判断し受信した時には、手遅れだったのだ。
「忘愛症候群」と呼ばれる、奇病を発症していることが判明した。
「…非常に申し上げにくいのですが、石川さんは恐らく、ひと月のうちに大切な方の記憶を完全に無くしてしまわれます。」
「…は?」
「忘愛症候群、というのはそういう病気です。」
遠慮がちに、初老で白髪混じりの医師が答えた。
「回復することは、ないんでしょうか?」
「…現代の医療では、できません。ですが一つ、方法があります。」
「なんですか?」
「…お答えできません。」
「は、…どうして?」
「倫理的な面で申し上げることが許されていないのです。ご理解ください。」
そう言われてしまえば、患者である俺たちは引き下がらざるを得なかった。
しかし自分たちで調べれば、情報社会と呼ばれる時代なだけあって、すぐに見当がついてしまった。
「…愛する人の、死?」
忘愛症候群。その名の通り、忘れていくのは愛するものに関する記憶だけという奇病。祐希さんにとってそれは紛れもなく、俺のことだった。現代の医療では治す術はなく、唯一の回復方法は愛する人の死である。それが意味するところは___。
「なんで、…なんで、俺が藍のことを忘れなくちゃいけないのかな」
「ゆ、きさ、」
「…忘れたくないよ。ぜんぶ大切で、ひとつも忘れたくない」
通常、この病を患った人は自認することなく症状が進行していく。しかし、祐希さんの病気の進行速度は緩やかな方であったため、猶予がある反面記憶の喪失に対する強い恐怖、不安が心を占めていた。
「藍、お前が俺の代わりに記憶しててよ。俺が藍のことを愛してるって。」
「俺諦め悪いから、ずっとずっと藍のそばにいて好きだって言い続ける予定だったのに。」
「なぁ、思いついたんだけど。毎日ビデオレター撮ろう。未来の俺と藍に向けてさ、そしたら、未来の俺もずっと藍のこと好きでいるだろうから。」
無理やり貼り付けた笑みしかできなくなっていく彼を、ずっと隣で見続けた。
何も出来ない自分が悔しくて憎かった。
涙を流すことさえできない自分が惨めだった。
心が、痛かった。
・
・
・
さーっと、朝の清々しい風が寝ていた俺の頬を撫でていく。
アラームが鳴ったわけでもないのに、その風ひとつで意識が覚醒した。
くぁ、と欠伸をひとつ零し、身体を伸ばしてから立ち上がった。
そのまま洗面台に向かい、バシャバシャと顔を洗った。タオルで無造作に濡れた顔を拭い、顔を上げた。
すると、小さな違和感が俺を捕まえた。
「…?」
なんだろう、と思案しながら鏡の中の自分と目が合った。
「……あ、これ、」
違和感の正体は、2本の歯ブラシ。片方は俺ので、もう片方は?
「なんで、2本も…」
ひとりで暮らす家なのに。予備のものかと思ったが、そもそもこの歯ブラシに見覚えがないのだ。
「…変なの、捨てとこ、」
ゴミ箱に投げ入れ、はたと気がつく。
この家は、俺の家のはずなのに。ほとんどの物が2つずつあるのだ。それも、同じようなものが。
ガツン、と鈍器で殴られたような頭痛がして耐えられずしゃがみ込み床に這い蹲る。
「っぅ゛、…!」
あつい、いたい、くるしい。
「っ、たすけて、……」
俺は今、誰に「助けて」と言おうとしたのか。
無意識のうちに伸ばした手は、誰にも掴まれることなく意識を手放した。
次に目が覚めた時は、朝の清々しさなんてとっくにいなくなった真昼間だった。
眩しすぎる陽光に頭が眩む。
「…なんだったんだろ」
先程の頭痛は、夢だったのかと思うほど全くおさまっていた。
念の為に、と病院に行くためスマホを手に取る。
それと同時に、ピコン、と通知音が鳴った。
「…RAN、って、誰だ」
to be continued…?
⚠️本作品のセリフやストーリー、言い回し等の盗作はお止め下さい。