玲子との再婚から数年が経ち、私たちは新たな局面を迎えた。彼女が妊娠したことを知った時、喜びと同時に一抹の不安が心に湧き上がった。父親になるという事実に現実感がなく、責任に押しつぶされそうな思いもあった。それでも、玲子の穏やかな笑顔と、子どもを迎える準備を進める姿勢を見ているうちに、私も次第に新たな役割に向き合う覚悟ができた。
やがて生まれたのは、元気な男の子だった。彼の名前を「優」と名付けた。玲子が「優しさと知恵を兼ね備えた人に育ってほしい」と願いを込めて選んだ名前だった。
優が誕生してから、私の生活は劇的に変わった。それまでは自分の時間や自由が多くあったが、今はすべてが彼を中心に回る日々となった。夜中に泣く声で目を覚まし、ミルクを作り、おむつを替える。育児は大変だったが、それ以上に彼の笑顔や小さな成長を見るたびに、心が温かくなるのを感じた。
しかし、育児に追われながらも、私の心の中には常に「数学」があった。大学を辞めてからも、私は数学に対する情熱を失うことはなかった。それは私にとって、世界を理解するための手段であり、唯一の逃げ道でもあった。
優が昼寝をしている間や、玲子が彼をあやしている時間、私は机に向かい、数式と向き合った。特に興味を持っていたのは、数論と解析学だった。隠されたパターンや、関数の性質を探ることで、私は現実から逃れ、理論の中に没頭することができた。
玲子は最初、私を不思議そうに見ていた。育児と仕事の合間に、なぜそんなに数学に夢中になるのかと問いかけられることもあったが、彼女は次第に理解してくれるようになった。
「あなたにとって、数学は癒しなんだね」と彼女が言った時、私は彼女に心から感謝した。玲子は、私がどんなに数学に没頭していても決して怒らず、むしろ応援してくれる存在だった。
そして、ある日、私はふとした瞬間に気づいたことがあった。それは、優の存在が、私の数学的な探求心にも新たな視点を与えてくれたということだ。彼の無邪気な笑顔や、まだ言葉を覚え始めたばかりの彼の様子が、「単純さ」の美しさを教えてくれたのだ。数学もまた、単純さを追求する学問だ。その真実を見つけるために、私は再び子どものような純粋な視点を持つことができるようになった。
日々の忙しさの中で、優と過ごす時間が私にとっても特別な癒しとなっていった。彼が少しずつ言葉を覚え、歩き始める姿を見ていると、自分自身の人生の歩みもまた、このように小さな一歩から始まったのだと感じた。玲子との結婚生活はますます充実し、私たちの家族は着実に成長していった。
こうして、私の日々は育児と数学に明け暮れる時間へと変わっていった。子どもを育てるという新たな挑戦と、数学の美しさを追求するという永遠の挑戦が交差するこの時期は、私にとって最も豊かで充実した時間だったかもしれない。
優が眠るベビーベッドの横で数式を書き連ねる夜、私は自分が手にしているものの大切さに気づいた。家庭の中で、愛と数学という二つの美しいものに向き合う日々。それは想像していた未来とは全く違うものだったが、間違いなく幸福な選択だった。
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