なにか間違っている気がするな、と思いながらも。
自分も恋愛経験がなく、よくわからないので、ともかく錆人の言うことに従ってみることにした。
なんてったって上司だしな。
デスク周りを漁り、大学のときのノートを引っ張り出す。
落書きの多いそのノートの後ろの方はまだ空いているのを知っていた。
真っ白なページを開き、考える。
うーん。
専務になにをして欲しいかな。
私の願い。
今、私がしたいこととか、欲しいもの。
……モロッコに行きたい。
あの独特の美しい景色の中に立ってみたい。
蒼い町とか。
――いや、唐突すぎるな。
他にやりたいこと。
あ、毛糸で自分ぴったりの腹巻きを編んでみたい。
……お前、ひとりでやれと言われそうだな。
いや、少し休みをもらえるだけでいいんだが。
そんな感じで、白いページは一向に埋まらない。
えーと。
誰かにしてもらうと嬉しいこととか?
……してもらうと嬉しいこと。
風呂掃除か。
……風呂掃除、似合わないな、専務。
あ、そもそも書こうにも、ノートはあるけど、ペンがないようだ。
ペン……
どこ置いたっけ。
捨てるほどあるはずなのに、書きたいときにはないんだよな。
カバンの中のペン。
出すと戻すの忘れて、あとで困るし。
とりあえず、今、ペン持ってきて欲しいかな。
老舗の文房具屋で万年筆を吟味する錆人の姿が頭に浮かんだ。
いや……その辺の安いのでいいんですよ、
と月花は妄想の中の錆人に突っ込む。
翌朝、専務室を訪ねた月花は錆人に言った。
「一晩考えたんですけど。
っていうか、来るバスの中でも考えたんですけど」
うん、と錆人は身を乗り出す。
月花が懸命に考えたことが伝わったからだろう。
「私、専務にしてもらいたいことなど、なにもありません」
なんという拒絶っ、
という顔を錆人はしていたが。
いや……だから、思いつかなかっただけなんだが。
「ほんとうに思いつかないんです。
我々は住む世界が違いすぎるのではないですかね?」
沈黙する錆人に申し訳なくなり、月花はひとつ、提案してみた。
「そうだ。
専務。
なにか私にして欲しいことはないですか?」
なにか落ち着かないと思った。
一方的になにかをしてもらう、というのが嫌だったのだ。
専務がなにかしてくれるのなら、こちらからもしてさしあげなければ、と月花は思う。
「いや、俺がお前に頼み事をしているのに、俺の方が願いを叶えてもらうのはおかしいだろう」
「でも、してもらうばかりでは落ち着きません。
昨日もいっぱいおごってもらいましたしね」
「そうか――。
だが、ほんとうに特にはないんだが……」
と月花と同じようなことを言ったあとで、錆人は、ハッとした顔をする。
「いやそうだ、あった!」
えっ?
なんですかっ?
と月花は身を乗り出した。
「偽装花嫁になってくれ」
話が一周して元に戻ってしまったようだ……。
とりあえず、通常の業務も手伝うことになっているので、月花は錆人について専務室を出た。
ちなみに、専務の秘書のみなさんから、月花は、こう思われているようだった。
錆人の婚約者が結婚前に夫の仕事を理解するため、派遣秘書という形をとり、職場にやってきた。
そして、それは錆人の祖父の指示らしいと。
『結婚しろ』だけは、ほんとうに専務のおじいさまの指示のようだけど。
相手は別に私じゃなくていいようなんだが……と思う月花だったが。
ともかく、秘書室のみんなは月花をどう扱ったらいいかわからないようで、すごく遠慮がちに話しかけられたりして。
これじゃあ、気楽にランチに行ったりできるような友だちとかはできそうにないな、と月花はちょっと寂しく思っていた。
……まあいいか。
そもそも短期の派遣で入ったんで。
そんなに長くいる予定の会社じゃないし。
この近くの会社に勤めてる派遣会社の友だちとランチ行こうっと。
月花はめげなかった。
――まあ、とりあえず、会社ではおとなしくしとくか。
専務もこの急場を凌げば、あとは専務にお似合いのいいお嬢さんを何処からか探してくるだろうし。
今は周りの期待に応えたいという専務のためにちょっと頑張ってみるか。
そう覚悟を決めたとき、近くの部屋の扉が開いた。
廊下まで重厚感があるこのフロアは役員たちの部屋しかないフロアだ。
「常務」
と錆人が彼より小柄で体格のいいおじさんに向かって呼びかける。
常務は月花をジロジロと見、
「彼女が城沢月花くんかね。
いや、失礼。
私の秘書として派遣されてきたというのに、一度も見たことがなかったからね」
といきなり嫌味をかましてくる。
「さすが、創業者一族のお坊ちゃんは違うね。
本社に戻ってきた途端、いきなり専務になったかと思ったら、私の秘書を横取りするとは。
よほど優秀なんだろうね、彼女は」
錆人は一瞬、止まったあとで、
「そうですね」
と言った。
いやいやいやっ。
なんですか、その、そうだろうかな? という疑問系な感じっ。
私、自分で言うのもなんですが。
ほんとにそこそこ優秀なんですよっ?
だから、こんな大企業の常務秘書の仕事任されたんですからっ。
まあ、鞠宮さんとか、石崎さんとか、辻村さんとか、歌丘さんとか、杉原さんか、光国さんとかには遠く及びませんけどねっ、
と思ったあとで、
……遠く及ばない人が多すぎたな、と反省する。
「まあ、君たち、せいぜい頑張りたまえ」
いや、派遣秘書と専務に、ひとまとめに頑張りたまえというのはどうでしょうね、と思いながらも、
「ありがとうございます」
と二人で頭を下げた。
「なんか、『ザ・重役っ!』って感じの人ですね」
トイレに行ってしまう、常務を見送りながら月花は呟く。
「……まあ、俺はまだああはなれてないよな」
別にならなくていいと思いますが、と思いながら、二人でエレベーターに向かった。
錆人が言う。
「今日は……雑炊を食べるべきかな」
「別に雑炊屋さんに無理に会わなくてもいいのでは……?」
結局、錆人はお昼に用事が入り、月花は自由になったのだが。
錆人からの刷り込みにより、結局、雑炊屋に行った。
この間の窓際の小さなテーブルで、月花が明太チーズ雑炊を食べていると、店長、三田村が現れた。
「月花、昨日、妙な男と来てたんだって?」
とすっきりと整った顔で訊いてくる。
「はあ。
新しい私の上司なんですけど。
店長に会いたがってましたよ」
細かい説明は省き、月花は三田村にそう言った。
へえ~、と三田村は面白そうに笑い、
「あれかな?
未来の月花の夫である僕に挨拶したいとか?」
と言う。
「いや、なんで上司がわざわざ挨拶しに来るんですか。
あと、三田村さんと結婚とか……」
やんわり断ろうとする月花が最後まで言わないうちに、いやいや、と三田村は手を振る。
「急いで考えなくていいよ。
人生100年時代。
何処かのタイミングで僕と結婚してくれればいいから。
できれば、今すぐがいいけど」
ふわふわの柔らかそうな髪をした三田村は、ニコニコ笑いながらそんなことを言う。
なんだろう。
押しが弱そうで、一番強いというか。
一番断りづらい人だ、と月花は苦笑いしながら聞いていた。
「あのー、それが私、その上司の人の偽装の花嫁になることになりまして」
結局、月花は三田村に事情を説明した。
「いいんじゃない?
人助けだしね」
三田村は、うんうん、と笑顔で頷いたあと、その笑顔のまま言う。
「その偽装花嫁を終えてから、僕の花嫁になればいいんじゃない?」
「え……」
「だって、偽装なんだから、関係ないじゃん」
……そういえば、そうですね。
「僕との結婚式の予行演習もできるね。
家も三回建てると望む家になるって言うし。
結婚式も二回くらいやった方がいいものができるかもしれないよね」
親類縁者をみんな呼んで派手にやろう。
呼ばずに二人だけでもいいけどね、などと夢を語り出す三田村の後ろで、
「店長~、仕事してください~っ」
と吉村が両手で雑炊を運びながら、言ってくる。
吉村は、三田村が他の店から引き抜いてきたという、ぱっと見、板前のような店員だ。
いい寿司を握りそうな顔つきをしているのだが、料理はできないそうだ。
イタリアンの店でホールを回すのが上手かったらしい。
ここでは、店長がいないときの店長代理をしている。
「どちらかは必ずいるようにしてるんだ。
つまり、吉村くんがいる今、僕は働かなくていいということだね」
とか笑顔で言い出して、三田村はバイトの西谷などを困らせているようだった。
その西谷の姿は今日は見えない。
大学生だから、授業があるのかな、と月花は思った。
そういえば、あの日、吉村は怯える西谷のフォローに全然出てこなかったが、西谷を鍛えようとしているのだろうか。
いや、彼は、雑炊屋になりたい人じゃなくて、ただのバイトなのだが……。
「あっ、そうだっ。
2時から町内会の寄り合いがあるんだった。
あとは頼むよ、吉村くん」
はいはい、と吉村は諦めたように言い、厨房に戻っていった。
「よし。
行くぞ、週末。
うちのじいさんに会いに」
……だから、まるで、仕事の一環のように言うの、やめてください。
午後。
一応、普通の仕事も手伝いながら、月花は思う。
「あ、そうだ。
今日、雑炊屋の店長いましたよ」
と錆人に言って、
「何故、俺に断りもなく、雑炊屋に行ってるんだっ」
と驚愕される。
いや、何故、いちいちあなたに断って行かなければならないのですか。
っていうか、あなたが雑炊雑炊言うから、刷り込まれたんですよ、と思う月花に錆人が訊いてきた。
「それで?」
「は?」
「今日はなにを食べたんだ」
「明太チーズ雑炊です」
「くそっ。
俺も食べたかったのにっ」
……あなた、もう私が求婚されたことなんて、どうでもよくなってません?
なんだかんだ言いながら、あの店の雑炊を食べたいのでは……、
と月花は思っていた。
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