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「太宰くん、おはよう」
ふいに背後からかけられた声に、太宰治は足を止めた。
ゆっくりと振り返ると、そこには月明かりの下で優しく微笑む美琴の姿があった。
「……まだ夜なんだけど」
「いいじゃない。気分よ、気分」
美琴は悪びれもせずに、太宰の目の前に歩み寄ってくる。
深夜の港、静まり返った街灯の下。昼間の喧騒が嘘のような静寂の中で、彼女の声だけがやけに鮮明に響いた。
「僕に何の用?」
「いい物を見つけたから、見せたくって。来ちゃった」
「僕、忙しいんだけど」
面倒そうに眉をひそめる太宰に、美琴はふふっと笑みを浮かべた。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出すと、録画アプリを開いて彼の目の前に差し出す。
「これ、な〜んだ?」
「……なに?」
次の瞬間、スピーカーから太宰自身の声が流れ出した。
『は〜美琴可愛すぎ反則だろ』
「――なんでそれ!」
太宰は目を見開き、美琴の手にあるスマホに慌てて手を伸ばす。
だが彼女はすばやくそれを頭上に上げ、ひょいっとかわした。
「ふふ、可愛いでしょ? 不意打ちだったから素が出てるね」
「いつの間に録ったんだよ……っ! あれは、ほら、冗談っていうか、流れで口に出ちゃっただけで!」
「じゃあ、本心じゃないの?」
美琴の瞳が、いたずらっぽく光る。
太宰は言葉に詰まった。普段なら軽口の一つでも返せるのに、今日に限ってなぜか喉が詰まる。
……やばい。心臓の鼓動が、うるさい。
「まぁ、いいけど」
美琴は録音を止め、スマホをポケットにしまい込む。
そして静かに、彼の顔を見上げて言った。
「そういうの、嬉しかったから。ありがとう、太宰くん」
「……別に、感謝されるようなことじゃないって」
どこか照れくさそうに、太宰は視線を逸らす。
口元に指をあてるその仕草も、彼なりの照れ隠しだろうか。
港の風が、そっと二人の間を吹き抜ける。
言葉のない時間が流れるけれど、嫌な沈黙じゃない。ただ、心が落ち着くような――そんな静けさだった。
「……でも、美琴」
「ん?」
「その録音、他のやつには絶対聞かせるなよ」
「え? なんで?」
「それは……なんか、ムカつくから」
そう言って顔を背けた太宰の耳が、ほんのり赤く染まっていた。
美琴は思わず小さく笑って、そっと頷いた。
「うん、わかった。秘密にしとく。二人だけの、ね」
その言葉に、太宰の表情が一瞬だけ和らぐ。
まるで「嬉しい」とも「困る」ともつかない、不器用な笑顔だった。