令嬢がアベル王子のシャツを盗んで寝室に持ち込んでいたという噂は瞬く間に広まった。
それは令嬢の可愛らしさをもてはやすものだったが、当の本人としてはたまったものではない。最近引きこもりがちだった令嬢は更に部屋にこもるようになってしまった。
「こんなことになってしまい、申し訳ございません……」
シャツの第一発見者、ジーナが頭を下げる。
「いや、これは僕のせいだよ。彼女に寂しい思いをさせたからこんなことになってしまったんだろう」
アベルには自覚があった。
確かに税制の変更はうまくいき、不在城の税収は過去最高となった。
その結果、城主であるアベルは仕事にかかりきりとなり。最近では令嬢と一緒に食事をとることもできなくなっていた。
忙しいなら忙しいで、何かしら気にかけ。不安を払拭するべきだったと後悔している。
ちょうど仕事も一段落したところだ。
アベルはすぐに令嬢の寝室へ向かい、ドアをノックした。
「こんな辱めがありますか! 死にます! 死んでやるー!!」
物騒な声が聞えてきた。
間違いない、令嬢の声だ。
すぐに助けに入らなければならないのに、不思議とアベルの心は高揚した。
「開けるぞ!」
「あ……」
ドアを開けた先にいたのは、令嬢とミレナだった。
周囲には紙束が散乱している。
「見ないで! 見ないでください!」
令嬢はわっとなって紙にダイブし隠そうとするが、むしろ紙束はバラバラになり宙を舞ってしまった。一瞬しか見えなかったが、何か同一の文字がたくさん書かれているような気がする。
ミレナが元兵士らしい機敏な動きでアベルに詰め寄り、部屋の外に出す。
何があったと聞かれるよりも先に、手短に報告した。
「ご令嬢は、勉強用の紙束に王子の名前を書きすぎ、使い切ってしまったっす」
いつもの落ち着いた声色はない。かつて戦場で使っていた区切りの強い言葉から、緊張感が滲み出ている。
「見られたからには、死ぬと仰せっす」
つまり、寂しくなった令嬢は勉強の合間にアベルの名を紙に書くうち止まらなくなっちゃったと。そういうわけだった。
かわいい……。
アベルは胸が締め付けられるような思いだった。
おそらく、書いた紙を捨てることもできずにため込み続け。ついに使用人に見つかってしまったのだろう。いじらしいにもほどがある。
「ここで、令嬢に、死なれるわけにはいかないっす。今、拘束を」
「不要だ」
アベルは即決した。
何の迷いもなくドアを開けると、紙束を抱えて震える令嬢がいる。
「あの、これは何でも、何でもなくて」
令嬢の頭の中は「嫌われてしまう」でいっぱいだった。
勝手にシャツを盗んだばかりか、夜ごと人の名前を書き続けるなんて、おかしなやつだと思われる。自分でだってそう思うのだ、そんな風に思われないわけがない。
令嬢は考える。
嫌われたくない。絶対に嫌われたくない。
この関係が破綻したら、戦争が起きるかもしれないというのもあるけど。そんなことよりも、嫌われる方が恐ろしい。もう頭を撫でてもらえなくなる、抱きしめてもらえなくなる、声をかけてもらえなくなる。その方がずっと恐ろしい。
こんなの政略結婚の相手として失格だ。
かつてのわたしはこうではなかった。自分を凍らせ、自分を殺し、何でも人の言うとおりにしていた。それができたのだ。それが今はどうか、自分の事ばかりだ。どうしようもなく、ワガママになってしまった。こんなわたしが王子の妻になる資格が本当にあるのだろうか。
王子が近づいて、抱きしめてくれる。
抱きしめて、気にするなと言ってくれる。
優しいひとだ、本当に優しい。
でも、それはなぜ?
なぜ、こんなわたしを愛してくれるの?
幸せすぎて気づかなかったけれど。これはおかしなことだ。
だって、そこには理由がない。
なぜ無条件で人を愛している?
不可解なこともある。
なぜかここの人達はわたしを名前で呼ばない。
わざと名前で呼ぶことを避けているようにもみえる。
よくしてもらっている手前聞きにくいけど、ここまで頑なだと何かあるのではと思わずにはいられない。
そんな思考を走らせながらも。令嬢は薄々、みんなが名前で呼ばない理由を理解していた。
呼んでしまったらどうなるかは、これまでのループで散々繰り返してきたのだから、知らないわけがなかった。ただ、それをちゃんと見ないようにしてきただけだ。
この問題を避ける為にほとんどのループで令嬢は義姉の名前を使っていた。そうした方がいいとわかっていた。むしろ、本来ならそうしなければならない。
自分が偽名を使わないばかりに、面倒な問題が棚上げになっている自覚はある。
でも、嫌なのだ。
どんなにその方が都合がよくても、何もかもうまくいっても、令嬢は自分の人生を生きたかった。それがどれだけ過酷でも、どれだけ周囲に迷惑をかけても、それでも自分でありたかった。
だから、知らないふりをして。自分に嘘を吐いた。
令嬢はその愛故にアベルを信じることができなかった。
「アベル。わたしの名前を呼んでください」
令嬢は抱きしめられながらそう言った。
傍目には小さな子供が甘えているようにしか見えないだろう。
ひどいことをしている自覚はあった。
ナイフを渡して、これで胸を刺してと要求しているようなものだった。
アベルは少し逡巡して、その名を呼んだ。
彼女の心を凍らせ、名前封じの魔法をかけていたのはアベル自身である。呼べばどうなるかわかりきっていた。
「フェーデ、君を愛している」
それは現代において「言いがかり」という意味の言葉だった。
娘にというか、人につけるような名前ではない。
名とは最小の呪いである。かくあれと望まれるその言葉にはこれまでの人生すべてが収納される。
すなわち、これまで彼女が受けてきた仕打ち。虐待、無視、比較、恫喝、諸々すべてがそこに込められている。
アベルたちは令嬢の名を封じることでそれらを隔離し、痛みを切り離していたのだ。
かくして呪いは解き放たれた。
それは自らが自らであるという、誰も逃れられぬ呪い。
何を言っても、助けてと願っても「言いがかり姫が何か言っている」とせせら笑われた日々が、少女の胸にありありと思い起こされた。