この作品はいかがでしたか?
102
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あの後、結局半ば無理やり一緒に入ることになった。
『うわすっごい匂い。』
「入浴剤な。」
丁度良い温度のお湯に肩までしっかりと浸かる。
何かの花のような匂いが微かに桃色に色づいているお湯から立ち上る。湯気でねっとりした皮膚に湯をかけるようにさするとすごく暖かくて気持ちいい。
「のぼせンなよ」
『……熱い』
「言ったそばから。」
見事にのぼせた体も冬の冷気に触れれば一瞬で元通りになる。今では少し寒いくらいだ。髪の毛に纏わりついているお湯はもう冷たい水へと変わっている。
「お、ドライヤーあんじゃん。来いよ○○。」
その言葉が耳に入ると同時に、私はイザナさんの方へ糸で引き合うように近づく。
ザァという砂嵐に似た音と共に、濡れて額や首筋に張り付く髪の毛がドライヤーの生暖かい風に当たり段々と離れていく。
『ねぇ、イザナさんの誕生日っていつなんですか』
風に吹かれるたびに水分の抜けきった髪が躍るように揺れる。それをぼんやりと見つめながらふいに思いついたことをイザナさんに問いかける。
「ホントいつもいきなりだなオマエ。…てか知ってどうすンだよ。」
『そりゃぁもちろん祝うんですよ』
指にくるくると乾きかかっている髪の毛を絡ませながら、コンピューターのようにすらすらと答える。
一応これでも監禁されている身なのでそんな盛大なことは出来ないけどおめでとうと言うくらいなら出来るだろう、そう思いながら言葉を続ける。
『で、いつなんですか誕生日。』
ドライヤーの音に負けんとさっきよりも少し大きい声で問いかける。
その途端、フッと首筋に当たっていた風とドライヤーの音が消え、代わりにイザナさんの不愛想な声が聞こえてくる。
「…8月30日だけど」
『8月30日……覚えました。』
イザナさんの誕生日、8月30日を心のメモに書きとめる。あまり記憶には自信がない方だけどきっと大丈夫、と根拠もない自信が内側から沸きあがって来る。
『絶対お祝いします。』
またイザナさんのことを1つ知れた、そんな気持ちを込めて務めて明るい声で言葉を吐く。乾いた髪を振り回すように勢いよく振り向き、背後に居たイザナさんに小指を差し出す。
『約束しましょう。私、忘れっぽいんで。』
にこりと口角を上げ、ぽかんとしているイザナさんを見上げる。
「……はは、知ってる。」
びっくりしたような、悲しそうな、嬉しそうな、そんな色々な気持ちが混ざったかのような複雑な表情を浮かべたイザナさんだったが、すぐにいつものように唇に薄く笑みを乗せ、私の小指に自身の小指を絡めてくれた。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った。
昔から聞き馴染みのある唱え言。
それだけなのに
『……ぇ』
今までよりもずっと強い既視感が脳を襲う。視界がぐらりと不安定に揺れ、咄嗟に手を床に着く。
「どうした?大丈夫か?」
イザナさんの焦ったような声色が耳を掠める。
『大丈夫…です』
ちょっと目眩が、と小さく付け加える。その間もずっと見覚えのない懐かしさが体いっぱいに広がる。
頭が焼けるように熱く、何か固いもので殴られたような痛みが電波のように広がる。
記憶の底で何かが疼いている。思い出して、と語りかけてくる。
指切り、約束、アノ子。思い出の鍵になりそうな単語たちが雪のように次々と頭の中に降って来る。ドスンと重い知らない感情が心の中に落ちてくる。
『…ふぅ…ふぅ』
その感情を振り落とすように緩く頭を振り、痛みを塗りつぶすように固く目を閉じる。
ドキドキと怖いくらい大きく鳴り響く心臓の調子を整えるため、時間をかけてゆっくり深呼吸をする。するとしばらくして浅く荒い息が段々と元の呼吸に戻ってくるのが分かる。
『……もう、大丈夫です。』
俯いていた顔を上げ、心配そう にこちらに視線を送るイザナさんを安心させるように小さく微笑みそう告げる。正直言って頭はまだズキズキと痛むが、我慢出来ないほどでもない。きっともう大丈夫、そう自己解釈し、軽く息を吐く。
『…はぁ』
この頃ずっとこんな感じだ。何か些細なことで頭が痛くなり、思い出したくない“ナニカ”を思い出しそうになってしまうそうで怖い。
今はまだ抑えられるけど、いずれ抑えられない時が来たら、そう思うと心がじりじりと痛む。
「…ホント?」
『本当です」
未だに心配そうな声色で問いかけてくるイザナさんを大丈夫という念を込めて見つめ返す。
もしこれが本当に“悪い過去”ならこのまま永遠と忘れたままでいよう。
その方が過去の自分も、今の自分も、きっと幸せなままで入れる。
「…なんかあったら言えよ?」
『分かりました』
そう思いながら私はいつも通り、すぐそこまで来た黒く渦巻く思い出の欠片を押し潰し、見ないふりをした。
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