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『治安功労章』
第1章 安全な人々
表彰式の日、街はいつもより静かだった。
風も、音楽も、どこか控えめにしているように思えた。
「第48回・治安功労章」
司会者の声が、透明なスクリーンに反射して空中に広がる。
拍手はあるが、決して長く続かない。
「過剰な感情表現は、周囲の不安を煽る」とされているからだ。
今年の金章受章者は、近藤さん。
通勤路に落ちていた段ボールを、毎朝、歩道の端に寄せていたらしい。
「危険物除去行為」として高く評価された。
銀章の人は、通勤中に友人の愚痴を聞かずに済ませたそうだ。
「噂話の未拡散功績」。
わたしはその拍手の輪の外側で、
自分の手をどうすればいいか分からずにいた。
叩くと音が出る。
音は波をつくる。
波は、誰かの心を揺らすかもしれない。
隣の席の男が、わたしの視線に気づいて小声で言う。
「安全だね、今日も。」
そうだね、と返す声も、自然と小さくなる。
スコアは悪くない。
「危険予知」「感情抑制」「非干渉」
どれも平均より上。
でも、どうしてだろう。
心のどこかで、減点されたい気持ちが少しだけあった。
第2章 減点通知
最初の通知は、昼休みのことだった。
スマートバンドが、ひときわ小さな音で震えた。
【減点通知:共感過多】
【対象発言:「それはつらかったね」】
文面の下に、薄い灰色の補足説明が続いている。
《他者の感情を過度に肯定すると、社会的安定を損なうおそれがあります。》
わたしは一瞬、息をのんだ。
だれも悪くしていないのに、なぜ警告なのだろう。
隣のデスクの同期・松谷は、画面を覗き込みもせずに言った。
「気にしないほうがいいよ。みんな最初は通る道だから。」
彼の腕には、減点通知の履歴が二桁ほど並んでいた。
しかしスコア自体は高い。
「謝罪の適正」「会話抑制」「自己統制」が強化されている証拠だ。
午後には社内アナウンスが流れた。
「週次治安スコアの更新が完了しました。平均値を下回る場合、再教育プログラムへの参加が推奨されます。」
推奨、という言葉が、いつから“義務”と同じ響きになったのだろう。
夜、帰り道。
電車のなかで、ふと目の前の席の女性が泣いていた。
マスクの中から、かすかにすすり声が漏れる。
周囲の誰も動かない。
誰も見ない。
「視線提供行為」はマイナス20点だ。
わたしも、スマートバンドを握りしめたまま動けなかった。
窓の外で、街のネオンが一瞬だけ滲んだ。
あれが涙なのか、車窓の汚れなのか、もうわからない。
第2章(続) 減点通知
週の終わり、社内連絡用の掲示板に、新しい項目が追加された。
【治安リスク共有リスト】
見慣れない文言。クリックするのを、少しためらった。
中には名前がずらりと並んでいた。
「他者刺激行為」「共感過多」「制度批判的言動」などの理由が添えられている。
社員番号だけでなく、顔写真まで添付されていた。
スクロールしていくうちに、ひとつの顔で指が止まった。
――綾。
大学のときのゼミ仲間。
誰かが泣いていればすぐ隣に座り、話を聞くような人だった。
彼女の周りには、いつも安心の空気があった。
でも、今は。
【危険思想者:共感暴走タイプ】
【指導未完了/再教育拒否】
画面の右端に、赤い三角形の警告マークが点滅している。
胸の奥が冷たくなった。
なぜだか、その瞬間だけ、空調の音が遠ざかったように感じた。
コメント欄には、匿名の投稿がいくつも並んでいた。
《一緒に働いてたけど、少し怖かった》
《涙を見せるタイプ。治安スコアに悪影響》
《近づかないほうがいい》
わたしはマウスを持つ手を離した。
机の上のバンドが、静かに光る。
画面の光が、わたしの顔に反射する。
そして思った。
――この国では、優しさが一番の危険物になったのかもしれない。
第3章 危険指定者
朝の会議室は、いつもより椅子が多かった。
真ん中のテーブルには、見慣れないマイクスタンドと、
壁際には二人の“治安指導員”が立っている。
「本日は、再教育プログラム未履修者による公開セッションを行います」
部長の声が、まるで天気予報のように淡々としていた。
扉が開く音。
足音。
そして、彼女が入ってきた。
綾。
少しやせていたけれど、目は以前と同じだった。
やわらかい光の奥に、はっきりとした意志があった。
灰色のリストバンドを外された腕には、
薄く日焼けのあとが残っていた。
「みなさん、私は……」
マイクを通した綾の声が震えた。
「もう一度、誰かの涙を見たいと思ってしまいました。
それが“治安を乱す”ことだと分かっていても、
どうしても、止められなかったんです。」
会議室に、ざわめきは起こらなかった。
沈黙が、拍手の代わりだった。
部長がすぐに口を開く。
「個人の感情表現は否定しません。しかし、それが他者を不安にさせる場合は――」
「不安って、そんなに悪いことですか?」
綾が遮った。
「不安があるから、誰かを気にかける。
痛みがあるから、やさしくできる。
それまで消したら、私たちは何を“守って”いるんでしょうか。」
彼女の声は穏やかで、でもはっきりしていた。
部屋の空気が、少しだけ動いた。
その瞬間、わたしのリストバンドが震えた。
【共感反応:要注意】
わたしは、手を机の下に隠した。
その小さな振動音が、誰にも聞こえませんように、と願いながら。
綾は最後に一礼し、
指導員たちに囲まれて部屋を出ていった。
ドアが閉まる瞬間、
彼女がわたしのほうを見た。
ただ、ほんの一瞬。
でもその視線の中に、
“まだ終わっていない”という静かな確信があった。
第4章 安全圏の外で
夜、窓の外の街灯が濡れたアスファルトに反射して揺れていた。
職場で目にしたリストの顔、綾の名前。
胸の奥が重くなる。
スマートバンドの光が、いつもより鮮明に点滅する。
【共感反応:要注意】
もう、振動を無視できなくなっていた。
翌日、わたしは意を決して外回りに出た。
いつもなら避ける、人気のない小道を選んだ。
そこには、いつもの安全圏はない。
誰も見ていないし、評価も、スコアも届かない。
ふと、雨に濡れたベンチの端に、小さな紙切れが落ちているのに気づいた。
文字は、綾の筆跡だ。
「安全に生きることだけが、すべてじゃないよ」
その瞬間、心がざわついた。
震えるスマートバンドを握りしめる必要もない。
誰も私を評価していない。
誰も守る必要も、守られる必要もない。
通り過ぎる人々は、皆それぞれの“安全圏”に守られている。
でもわたしは、あえてその外に立ってみた。
雨の匂い、靴の裏の泥、手に触れる冷たい金属。
すべてが、生きている感覚だった。
帰宅して、机に向かう。
スコア表も通知も、今日だけは無視する。
画面を閉じて、ただ、深く息を吸った。
――危険の中に、確かな自由がある。
そして、それを受け入れることが、人としての優しさなんだと、静かに思った。
夜が更け、街は静まり返る。
安全圏の外で、わたしは初めて、自分の心の声に耳を傾けた。
涙が、ひとつ、零れ落ちる。
それは、減点対象でも、加点対象でもない。
ただ、わたしのものだった。
第5章 安全圏の外から
あれから、どれくらい経っただろう。
社会の目は相変わらず冷たく、
リストは更新され、減点通知は日常に溶け込んでいた。
でも、私はもう、怖くはなかった。
あの部屋の静かな視線、あの窓際の雨、
そして――あの人の、ほんの少しだけ揺れた心。
安全圏の内側で生きる人々を、私は責めなかった。
みんな、自分を守ろうとしていたのだ。
けれど、私は違った。
危険を承知で、他人の痛みに寄り添い、
誰かの涙をただ見て、頷くことができた。
減点されることもあった。
評価されないこともあった。
でも、誰かに見せるためではなく、
自分の意志で“行動する”自由を、私は手に入れていた。
ふと、あの夜の紙切れを思い出す。
「安全に生きることだけが、すべてじゃないよ」
あの言葉は、誰でもない、
私を見てくれた、ひとりの人間の声だった。
そして今、私はその声を胸に、
ゆっくり歩き出す。
安全圏の外で、まだ誰も知らない景色を確かめるために。
空は静かに灰色を溶かし、
街灯の光が濡れた舗道を優しく照らしていた。
(了)