テラーノベル
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防波堤の向こう
休憩時間だった。
工場の片隅。
ベンチに腰を下ろし、
ペットボトルの水を一口飲む。
四月。
暑いわけじゃない。
それでも、
作業のあとには、
額にうっすらと汗が滲む。
袖で拭うほどでもなく、
指先でなぞって、
消えるくらいの汗。
スマートフォンは、
もうロッカーには入れていなかった。
ポケットにあることが、
当たり前になりつつある。
画面をつける。
菜月からの質問が、
そこにある。
『どうして、このアプリに登録したんですか?』
一度、
目を伏せる。
簡単な理由なら、
よかった。
暇だったとか。
興味本位だったとか。
世の中の半分以上は、
きっとそうだ。
セックスレスを盾にして、
愛のない抱擁を
上手くかわすための場所。
そう割り切れたら、
楽だった。
でも、
それじゃ足りない。
防波堤の外に
足を出してしまった今、
軽い言葉は使えなかった。
……考えているつもりで、
ずっと目を背けてきたこと。
夫としての自分。
父としての自分。
職場で呼ばれる、
「葛城さん」
役割は、
ちゃんと果たしている。
働いて、
家事もして、
育児もして。
早く帰れた日も、
同じように。
ただ、
触れられなくなっただけだ。
それだけなのに、
どうにも埋まらない距離がある。
父としては、
今も笑っている。
「ただいま」と言って、
抱きしめる。
それは、
嘘じゃない。
そうありたいと、
本気で思っている。
でも。
自分は、
父親像を知らない。
シングルマザーの家で育ち、
「理想の父」という形が、
最初から曖昧だった。
だから、
どうあるべきかを
考え続けてきた。
……はずだった。
いつの間にか、
どうありたいかが、
それを追い越していた。
誰かの夫でも、
父でもなく。
役割の名前を外したところで、
誰かに呼ばれたい。
その感覚を、
もう思い出せなくなりかけている。
入力欄を開く。
指が止まる。
全部は、
書けない。
でも、
何も書かないのも、
違う。
――正直に言うと、
自分が何者なのか、
分からなくなったからです。
――夫とか、父とか、
そういう役割以外の自分を、
少しだけ知りたかった。
打ち終えて、
画面を見つめる。
……重いか。
一瞬、
そう思う。
今さら消すのも、
格好が悪い。
送信。
防波堤の外に出た足は、
まだ完全には沈んでいない。
冷たさも、
ちゃんと分かる。
それでも、
もう、
引き返す理由を
探してはいなかった。
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