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十二国記パロ①
・千鉱:麒麟
・幽:王
千鉱が王として選んだ人物――幽は、間違いなく優秀な人間であった。
名君や賢君といった呼び名が相応しいかと問われれば、どうにも違和感が拭えない。実際、他国の王が訪れた際にそう言っていたのを聞いて千鉱は内心首を傾げたものだった。少なからず世辞の類も含まれた言葉だっただろう。それでも明らかな揶揄ではなかったから外からはそう見えるのだろうと、そう思っていた。自らが選んだこの国の王に対して抱く印象としてはあまりよろしくないものだろうと自覚していたから、表には出さずにいたけれど。そう、幽は有能な男だった。前王のもとで働いていた官吏達が舌を巻くほどの知識をもち、精鋭を配置するはずの王の護衛達が立つ瀬がないほど強かった。宮中の慣習や祭事は苦もなく覚え、所作も言動も粗暴さはない。何につけても非の打ち所がない男なのだ。
ただ、そうだ、唯一にして致命的な問題があるとすれば、幽は王――国を治めるということにこれっぽっちも関心がなかった。そしてそれを取り繕う気もない。役割として振られたから、そしてそれを担うだけの知力も精神力も兼ね備えていたから、ただ淡々と法を敷き、人を使い、国土を肥えさせることができた。
それで十分ではないかと言われれば千鉱に返す言葉はない。暗愚な王を戴かなければならない国を思えば、一向に次王が見つからない麒麟を思えば、自分は何と恵まれた立場か。
そう思っていた。自分に言い聞かせて納得していたという方が相応しいのかもしれない。
それは、何の問題もなく行われていた治世が薄氷の上に築かれた脆く儚いものであると見て見ぬふりをしたのと同じだった。
「おまえは、失道とはどんなものか知っているか?」
執務の合間に設けた休憩時間に、幽はそう尋ねてきた。
その問いがあまりにもいつも通りで――そう、例えば『この間指示を出した案件はどうなった?』と問うように平然と問いかけてくるものだから、千鉱は数瞬問いの意味を理解することができなかった。手にした茶器を一度卓の上へ戻し、聞き間違いではないのかと幽を見る。
質問の答えを黙して待つ姿に、重苦しいため息を禁じ得なかった。
「………突然どうかしたのか?」
「少し前に鳳が鳴いていただろう?」
「…そうだな」
千鉱は嫌なことを思い出したと顔をしかめた。五日ほど前、他国で王が崩御したのだ。失道の末の、内乱だったと聞いている。その王を選んだ麒麟は生き残っているようだから、動けるようになったらすぐに次の王の選定に動くのだろう。玉座の空白期間が長くなるほど国は荒れる。次の麒麟が生まれ育つ年数を待つだけでも影響は少なくないはずなので、麒麟を残したのは民を思えばよい判断だったはずだ。それでも同じ麒麟である千鉱は、自身の半身である王を失くした苦痛は幾ばくかと思ってしまう。それがたとえ失道の王だとしても、最後の最期までかつての志を取り戻してほしいと願い続けたはずだから。
「――ろ、…千鉱」
「っ、ああ、すまない」
うっかり考え込んでしまったようだと、千鉱は反射的に謝罪した。当の本人はさして気にしていないようだったので、少し温くなった茶を一口飲んで会話を再開する。
「それがどうしたんだ?」
「王が道を誤れば、その責めを負うのは王を選んだ麒麟だ。麒麟が王を選ぶと言っても天帝の意を伝えているだけと伝えられているのに随分な扱われ方だとは思わないか?」
「…そう思うならいつまでも賢明な王でいてくれ」
「ふ、…どうだろうな」
小さく笑った幽を驚いたように見れば、声色の通り愉し気に目を細めている。幽のこういうところが千鉱は苦手だ。何百年と共にいても理解が及ばない、言い知れぬ何かが、この男にはあるような気がしてならなかった。
「それで、先程の答えは?」
失道がどのようなものか。幽がはじめに問うたのはそれだ。とはいえ長くこの国を治めている幽は他国が王の失道により斃れていった事例をいくつも知っているはずだった。何をきっかけに道を外れてしまうのか。それは一概に言うことなどできないし、おそらく幽が知りたいのもそんなことではないのだろう。王が道を誤れば麒麟が病み、命を失い、そしてそれを追うように王も死ぬ――こんなことも、とっくに理解しているはずだ。
「麒麟がどう病むのか、興味がある」
千鉱の思考を読んだように幽が言葉を添える。非常にわかりやすく、そして非常に不快な好奇心だった。
麒麟が――千鉱が病むとすれば、それは幽の心根ひとつで決まることだ。不老不死であるはずの麒麟が病み、苦しみ、死に至るかもしれないその過程を、唯一千鉱に与えうる男が興味本位で尋ねるというのは、どう考えても好意的にはとれない問いである。『そうならないように知っておきたい』という殊勝な理由からの質問ではないから、尚更。
「……よくは知らないが、病む、と言うくらいだから床に伏せることになるんじゃないのか」
それでも、主から問われれば原則として逆らわないのが麒麟の性だ。今ここで幽から『人を殺してその血を浴びろ』と命じられれば、散々抵抗した末に千鉱はそれを実行するだろう。そのあとでどれほどの苦痛が待っているかわかっていても、幽の言葉は絶対だった。
「そうか」
幽の返答は拍子抜けするほどにあっさりしていた。苦々しい思いをしながら答えた自分が馬鹿だったと、千鉱はそんな思いでもう一口茶を飲んだ。
◇ ◇ ◇
『これは失道の病です』
医務官は震える声で幽へ奏上した。麒麟が病床に伏すことなど血の穢れにあてられでもしなければあり得ないこと。そのような原因もなく千鉱が動けなくなるほど弱っているとなれば、他に考えられることは失道以外になかった。
誰もがわかっていたこと。それでも、はっきりとそれを明言しなければならない医務官は怯えていた。周知の事実を改めて言葉にしただけで王の機嫌を損ねて処罰される可能性もあったからだ。
『そうだろうな』
返した幽は、笑っていた。もちろんそうだろうと、病んだ麒麟を前にしてそう言ったのだ。起き上がることもできない千鉱の頭を撫でる手は優しく、見つめる瞳は穏やかですらあった。一心にそれを向けられていた千鉱がひどく混乱するほどに。
狂ったのかと、控えていた誰かが叫んでいた。誰の声だったのかはわからない。だが、すぐそばにいた幽が嘲笑うように返した声はよく聞こえた。
「正当な理由なく村をいくつも消して来いと命じた王が正常だとでも思っていたのか? 罵るのならその命令を出したときにすればよかっただろう。その時点で狂っているなら今も当然そうに決まっている。狂っていなかったなら今の俺も至ってまともだ」
まともなものか、と言いたかった言葉は音にならずただの呻き声に変わった。
狂っているのならよかったと、千鉱は思う。いっそ狂気の道に走ったのなら、幽の凶行も納得はできないまでも一連の過程として理解はできたかもしれない。だが、今になってもなお千鉱には幽が狂ったようには見えなかった。それどころか、あのような非道な命を下す前後で何らその精神性に変化は起こっていないとすら思えてならない。だからこそ、この王が恐ろしかった。
「千鉱」
静かな声に意識が引き上げられる。ゆっくりと重い瞼を上げると、声の出どころへ視線を向けた。首を傾けてそちらを向くことすら、今の千鉱には億劫なのだ。
幽が呼んでいる。それだけで眠りから覚めてしまう。自分はどうしようもなくこの男のものなのだと実感する瞬間だった。どれほど民を虐げようと、その結果として己を苦しめようと、幽が主であり半身であるという事実は変わらないのだと突きつけられる。
「――、…、ら…」
「ああ」
幽は病床に伏した千鉱の傍らに常に付き添っていた。文字通り、片時もそばを離れない。眠りから覚めればそこにいて、脂汗を滲ませているのに氷のように冷え切った肌を愛おしそうに撫でている。千鉱は霞む目を必死に瞬いてその姿を見上げた。
千鉱。そう、それが自分の名前。号でも尊称でもない、主である幽がつけた字。何に対しても興味がなさそうな男が自分のために考えたのだということに、とても驚いたのを今でも鮮明に覚えている。その名で呼ばれ始めた頃はそのたびに少しくすぐったいような気持ちになった。それが次第に耳になじんで、男だけが呼ぶその名に少しだけ愛着がわいて――そうして過ごしてきた数百年。まさかその名で呼ばれることで身を裂かれるような思いになる日が来るとは、欠片も思っていなかった。
「……、ゆめ、を…」
「夢?」
繰り返すように言った幽に、ゆっくりと瞬きをして返す。もう、頷くこともつらかった。
夢を見たのだ。己が失道の病に侵されていると宣告された日のことを。薄々気づいてはいた。あんな支離滅裂で残酷な命令をいくつも下して、無事でいられるはずがないとわかっていた。
「ゆ、ら…っ、――ごほッ」
最近は水分すらもまともに摂取できなくなっていた。カラカラに渇いた喉が引き攣れて痛む。けれどそんな痛みは全身を苛む苦痛に比べればないに等しいものだ。苦しい。指先ひとつ動かすこともできないほどに、全身が重くて仕方がない。
「どうした?」
少し咳き込んだだけでぜいぜいと呼吸が乱れる。そんな千鉱をじっと見つめる幽の目が恐ろしい。一体何を考えているのか、もともと理解の及ばない男ではあったがますますそれが強くなっていた。
「ゆ、ら…、政務に、もどっ…て…」
「おまえはいつもそれだな」
少し呆れたように返される。
「今の俺が戻ったところで、次に潰す村をどこにするか選ぶだけかもしれないのにな」
「っ、やめ、ろ…なんで、――ゆら…ッ」
どこにそんな力が残っていたのか、千鉱は幽の手を掴む。それでも縋りつくというにはあまりに弱々しかった。
「――…そろそろ頃合いか」
千鉱の目を見つめながら幽が呟く。支えるように千鉱の手に触れ、そっと寝台の上に戻す所作はあまりにも優しい。
何が、と問いたくても声にならなかった。何が頃合いなのか、また何か酷いことをするつもりなのか、何を考えているのか――かけたい言葉はいくらでもあるのに、何ひとつ音にできない己の身が厭わしい。
「ゆ、…ら、…」
「ああ、心配するな。もう終わらせる」
「…?」
困惑する千鉱の頬をもう一度撫でて、幽は控えていた千鉱付きの女御を呼んだ。
「冢宰に伝えろ。これまで出していた勅令は撤回する。すべて以前の体制に戻せとな」
「は? っ、ぎょ、御意に…!」
王を前にしてあり得ないような間の抜けた声を出した女御は、すぐにハッとして叩頭した。震える声で返事をして転げ出るように室を辞していく。
混乱を極めていたであろう女御と同じく、千鉱も信じられない思いで幽を見上げた。
「なに、を…考、ぇて…?」
「ん? ――ああ、もう十分楽しんだからな」
「っ、なんて、ことを…!」
民を虐殺することに悦を見出すとは、と責めるように睨みつける。しかし、幽は僅かに首を傾げたあとに小さく笑った。
「何か勘違いをしているな。俺は別に民を虐げて喜ぶ趣味はない」
「…だったら…?」
「失道の病にかかったら、おまえはどうなるのかと思っていたんだ」
千鉱の表情から険がひいていく。代わりに恐怖と混乱がじわりじわりと瞳を揺らしていた。いつか思い出せないほど昔、失道とはどんなものかと尋ねられたことを思い出す。
「おまえは常に正しくあろうとするだろう? 真面目、清廉潔白、それが法に基づくものであろうとも民が傷つくことは望まない。麒麟とはそういうものだというのは知っているが、それが崩れることがあるのか興味があったんだ」
「きょうみ…?」
幽が何を言っているのか千鉱には理解できなかった。そんな何の意味もないことのために、単なる興味のために、どれほどの民が死んだのか。家を失い、家族を失い、穏やかに過ごす日々を失ったのか。自分がどれほど残酷で、恐ろしいことをしたのか、まさかまったくわかっていないとでもいうのか。
「もう十分に愛でることができた。やはり病んだおまえよりも以前の方がずっといいとわかったよ」
呆然と見上げるしかない千鉱の額に、幽はそっと唇を落とす。角のある場所に触れられてぞわりと背筋が泡立った。
「少し外す。ゆっくり休んでいろ」
それからの変化は目まぐるしかった。
幽は自ら壊し麻痺させた国の体制を早々に立て直し、一部の隙もない強固な組織体系を取り戻した。それは本当にあっという間の出来事で、それを可能にしたのは偏に幽が官吏の処罰や更迭をしていなかったからだ。王の命に逆らっても、諫言しても、ただただ放置された。勅令で断行することはしても、自分にとって都合よく動く人材の登用はしなかった。そのため乱発した勅令を撤回すれば国の体制はすぐに元通りとなったのだ。
あれはなんだったのでしょうか。床を払い政務に復帰した千鉱へ冢宰がこぼしていたのが今でも耳にこびりついている。それは自分が聞きたいと思ったが、ただの興味だったのだと直接幽から聞いた千鉱でさえわからないのだから、それすら知らない者にとっては疑問どころか薄気味悪さすら感じるところだろう。
結局、官吏達は『あれは一時の気の迷いだったのだ』と考えるようにしたようだ。そんな無理やりな思い込みが罷り通ってしまうほどに、今の幽はあの非道な行いをする前と変わらなかったから。千鉱が失道の病から回復したということは、幽が王であり続けることを天が許したということに他ならない。それであればこれまでのように淡々と、各々が任された責務のもとで国を再興していくしかないのである。
「――…これで、よかったのか…」
私室で一人、卓へ突っ伏すようにうつ伏せながら千鉱は呟いた。人前でこのような姿は晒せないが、誰にも見られていないのだから許してもらいたい。
油断すれば重々しいため息が出てしまう。そんな千鉱の頬に、ひらりと柔らかなものが触れた。
「…錦…」
美しい模様をもった小さな魚だ。千鉱がまだ幼かった頃に初めて折伏した妖魔がこの錦と涅、そして猩の三匹だった。人語を解するほど力もなく、妖魔と呼ぶのもおかしなくらいか弱い生き物だが、こうしてゆらゆらと宙を泳ぐ姿は千鉱の疲れ切った心を癒してくれる。
ひらひら、ゆらゆら、とても儚く美しい姿だ。以前幽に見せたときには『よく似合っている』と言われたが、あれはどういう意味だったのだろうか。
千鉱はゆっくりと目を閉じた。まだ病み上がりなのだからと幽に休息をとるよう命じられたが、こんなにも日が高いうちから寝台に横たわるのは気が引けたし、『それを幽が言うのか』と少なからずわいた思いが邪魔をして素直に休むことができない。
「………ゆら…」
これまでと何ら変わらない王の姿が脳裏に浮かぶ。失道から持ち直したことに安堵する気持ちと、あの男が玉座に在り続けることへの疑問とが千鉱の心をぐちゃぐちゃにしていた。
きっと幽の治世はこの国の歴史の中で最も長いものになるだろう。いや、もしかすると他国の歴史と比較しても類を見ないほど長命な国になるかもしれない。けれどそれは〝この男にそのつもりがあるなら〟というあまりにも脆い前提の上に築かれたものだ。今回はその危うさが露呈したに過ぎず、そして運よく延命することができただけである。
いつか、この治世は終わる。今回のように、ふとした思い付きで、多くの命が失われる。それを平然とやってのけるであろう幽の心の在り様が、千鉱にはたまらなく恐ろしかった。
十二国記パロ②
・千鉱:麒麟
・国重:王
・幽、柴、薊:官吏
千鉱が選んだ王は特筆して秀才であるわけではなく、そもそもあまり勉学を好んではいないようであった。この表現はそれなりに手心を加えた表現だが、とにもかくにも、そんな印象の男である。
王気にひかれてその男のもとを訪ねたとき、男は刀を打っているところだった。生来血や死を厭う麒麟である千鉱はそれらを連想させる物を見てはじめこそ身を強張らせたが、男が鍛える鋼の美しさに、清廉さに、その用途を忘れて見入ったことは今でもよく覚えている。
男は国重という名だった。刀匠をしていて、『小難しいマツリゴトなど一切わからん』とはっきり言い切っていたのが懐かしい。国を治めるのはその才能がある者がすればよいとぼやきながら、それでも自分に与えられた天命を投げ出そうとしなかったのは、国重なりに国の荒廃に思うところがあったのかもしれなかった。
わからん。難しい。本当にそれでいいのか。何度も何度もそう繰り返し、頭を抱えて卓に突っ伏して、それでも国重は誠実に国や民と向き合ってきた。
治世はまだ長いとは言えない。だが数年、十数年の壁を越えられない国もある中で決して短いとは言えない程度にはいくつもの難題を乗り越えてきた。ようやく軌道にのってきたところというのが官吏達の認識だ。即位当初こそ宮中の慣習や礼儀作法のひとつひとつを面倒そうにしていたり、その様を見て古参の官吏から陰で嘲笑されるようなこともあった。それでも根が真面目で誠実であった国重は少しずつ、けれど着実に志を共にできる仲間を増やしてきたのだ。
新王が即位して間もなく百年を迎える。安定して実りを得られるようになった土地も、計画的に整備され雨期にも安全を確保された河川も、女子どもが憚ることなく出歩けるようになった治安も、何もかもが新王のおかげだと民は喜んだ。
前王は晩年国を荒らしに荒らしたため、疲弊しきった国土と民が回復するのには時間を要せざるを得なかった。民の中にはまだ荒廃していた国を覚えている者もいるだろう。親やその上の世代から前王の行いを伝え聞いて疑心暗鬼になっている者もいるだろう。かつての時代を知っている者が心の底から国を、自分達が戴く王を誇らしく思えるようになるにはまだまだやるべきことは山積だった。
それでも、政に携わる誰もがそんな未来を信じて疑わなかった。よい方向に進んでいる。そう信じるに値する成果がようやく目に見えて現れるようになってきているのも、そんな前向きさの背を押したのだろう。たとえ時間がかかろうとも、この王のもとでならきっと良い国になる。悩み立ち止まることはあっても決して後退はしないと、そう自信を持ち始めていた。
少なくとも、こんな最期を迎えるはずではなかったのだ。
◇ ◇ ◇
その瞬間、世界はとても静かだった。
常ならば笑顔があふれ明るかったはずの室内は、血に塗れていた。
痛いほどの沈黙が落ちた空間に、肉と骨を断つ音が、血飛沫が壁に飛び散る音が、糸の切られた人形のように国重が倒れる音が、異様なほど明瞭にこだまする。まるでそれらの音をより鮮明に聞かせるためにそれ以外の音を排したような、そんなあり得ないことを思うほどの静寂が、再び千鉱を襲った。
「――しゅ、じょう…」
千鉱は呆然と呟く。主上、と繰り返した音は喉につかえて出てこなかった。
衝撃のあまり立っていられずその場に膝をつく。びちゃ、と血が跳ねて千鉱の頬を汚した。血の臭いで眩暈がする。吐き気を催すほどの激しい頭痛に脂汗が滲んだ。
「そんなところにいては身体を壊すぞ」
そう告げた男は、秋官に属する官吏だった。法と裁判、外交を司る秋官の中で優秀な男だと噂になっていたため千鉱も顔に見覚えはある。他者より秀でているのなら上の役職に登用すればよいという話も出ていたほどだ。そんな男が、なぜ。軍務を司る夏官でもないのに得物を扱うことに慣れた様子で、一切のためらいも恐れもなく、一刀のもとに王の首を切り落としたというのか。
「さあ、台輔。手を」
立ち上がるのを手助けするつもりなのか、手を差し伸べながら投げかけてくる。その声色は静かで、感情を削いだように平坦だ。平時であれば冷静さの表れだろうと思えるのかもしれないその声が、今このときには底の見えない悍ましさとして千鉱の精神を逆撫でする。
「なん、で、」
かすれた声でこぼすと、男はその口元をほんの少しつり上げた。笑ったのだ。この国を支え導く存在を、天が選んだ無二の王を、千鉱の半身である国重を弑しておきながら、この男は笑んでいる。
「っ、おまえは…!」
たとえ王であろうとも首を断たれれば命を落とす。今、立ち上がることもできない千鉱の目の前に無残に転がる首が、その現実をまざまざと突き付けてきた。普段生き生きと輝いていた目からは光が消え、濁った色に千鉱の姿が映っている。目を背けたくなるような惨状であるのに、まるでそれが許されないかのように身体が凍り付いていた。
何よりも大切であった存在が消え失せた喪失感が、千鉱を絶望の渦へと引きずり込んでいく。欠けてしまった魂の片割れが、もう二度とこの胸を埋めてくれることはないのだとまざまざと思い知らされる。
千鉱は血と死の穢れに身体を強張らせながらも、必死に震える手をのばして国重の首を抱きかかえた。
いつも見上げてばかりいたのに、この腕に抱き込んでしまえるなんて、なんという悪夢だろうか。
「なんで、ッどうして主上を――国重を殺した!?」
これまでに発したことのないような声、静寂を引き裂くような絶叫だった。その声を聞いて男は僅かに目を見張ったあと興味深そうに目を眇める。まるで、弱り切った身体のどこにそんな力が残っているのかと観察するように。
「答えろ!」
叫んでいなければ今にも気が触れそうだった。
なんで
どうして
どうしてどうしてどうして!
千鉱は声にならない叫びをあげ続ける。
「――欲しいものに所有者がいては邪魔になるだろう?」
激昂する千鉱に気圧されることもなく、男はさも当然のように答えた。あまりにも淡々としているその言い様は、詰問した千鉱の方がおかしいのではないかと一瞬錯覚するほどだ。たった今、悪政など一切行っていない王を弑逆した謀反人とは思えないほどの平静さだった。
「な、に…?」
男が発する言葉の意味がわからず千鉱は困惑した声をこぼす。欲しいもの? 所有者? 一体何のことだ。
「麒麟は王のものだ。手に入れたければ王になるのが手っ取り早い」
「さっきから何を言っている…」
「ふっ、わからないか? 麒麟には人間の欲が理解できないのか、それともおまえの純粋な精神のせいか…」
男は千鉱の前に膝をつくと、青白さを通り越して白くなった頬に触れた。触れられたところから男にまとわりついていた穢れが伝い流れてくるようで激しい嫌悪感に襲われる。何より、まるで慈しむかのように優しい所作に吐き気がした。
触るな、と。そう叫びたいのに喉奥に貼り付いたように声が出てこない。呼吸すらうまくできなくなったように息苦しさに喘ぎ戦慄く千鉱の唇へ、男の指先が触れたときだった。
「主上!」
「これは、――台輔ッ!」
雪崩れ込むように部屋に駆け込んできたのは柴と薊だった。
柴が蹴り飛ばす勢いで鳩尾を狙うと男はあっさりと身をひいて窓際へと軽々跳び退る。薊は千鉱を庇うように男の視線を遮って前に立った。
「なんだ、思っていたよりも早く戻ったんだな」
「秋官から面倒な上奏があがっとる思ったら…これが狙いか!」
「なぜこんなことを…!」
怒りをあらわにする柴と薊にはさして興味がないのか、男は千鉱へ向ける視線を逸らすこともなく、その辺に書いてある文章を読み上げるように無感情な声で動機を繰り返した。
「台輔には言ったが、欲しいものを手に入れるのに邪魔だったからだ」
「欲しいもの…?」
「王になりたいとでも言うつもりか?」
「それは副産物でしかない。俺が欲しいのは台輔――千鉱、おまえだ」
「っ、おまえがその名で呼ぶなッ!」
思わず身をのり出して叫ぶ。慌てたように薊が押し留めようとするが、それに従う気になど到底なれなかった。
国重が千鉱に与えてくれたもの。何よりも尊い贈り物。号でも尊称でもない、意思をもった個として大切にしてくれているのだという想いが伝わってくる、大切な名だ。それを軽々しく――ましてや国重を弑した男から呼ばれるなど許せるはずもない。
「許さない…! 絶対におまえを許さない!」
「台輔…!」
掴みかからんばかりの形相で立ち上がろうとする千鉱を抱き抑えながら薊も声を荒げる。麒麟がもっとも厭い心身を弱らせる死と血の穢れに触れた状態で無茶をさせるわけにはいかなかった。男の狙いが本当に千鉱であるというのなら、尚更。
「驚いたな。仁をその性とする麒麟でも、そんな眼をすることができるのか」
男は至極興味深そうに宣う。その声に、言葉に、千鉱が更に感情を荒ぶらせるのをわかっていてやっているのかと思うほどに、この場の惨状には欠片も関心がなさそうな態度だった。
「おまえが…ッ」
「俺のせい、か? ――ならば上々だ。その感情をもっと強く育てろ。俺を憎み、死を願え。麒麟にあるまじき感情に染まって、俺のことだけを考え続ければいい」
恍惚としているようにも聞こえる声に舌打ちしたのは柴だった。
「おまえがいくら台輔を欲したところで叶わん世迷言でしかない。麒麟は王にのみ仕える存在や。王は天が選ぶ。おまえが王になれるわけあらへんやろ」
「そう思うか?」
「当たり前や」
このような理解不能な私欲に塗れた人間が王になどなれるわけがない。それは柴だけでなく薊も、もちろん千鉱もそう思っていた。だというのに、男の表情は不快や怒りに歪むでもなくうっすらと笑みを浮かべている。
言い知れぬ悍ましさに圧されたように膠着した場に、コン、と小さな音が落ちた。
窓の外からだ。そう気づいた瞬間に柴が走り出したが、男はそれを読んでいたかのように足元にあった国重の身体を軽々と掴み投げつける。そして、それに気を取られた隙をついて窓の外へ向かって桟を蹴った。
「なッ…」
窓の外には何もない。仙とはいえ無事では済まないはずの高さから躊躇なく飛び降りた男に千鉱は息をのんだ。窓に駆け寄った柴が何か叫んでいるのを聞いて咄嗟に立ち上がろうとしたものの、身体が言うことを聞かずに倒れ込む。慌てて抱き止めた薊の肩越しに、騎獣に乗った男の姿が見えた。
「また会いに来る」
そう言って、男は仲間であろう青年と共に姿を消したのだ。
◇ ◇ ◇
「――……」
千鉱は浅い眠りから覚醒し、直前までみていた懐かしい夢を思い出して深く息を吐いた。国重が生きていた頃の夢だ。
もう何年経っただろうか。いつも国重の快活な笑い声が絶えず、政務をするようにと諫める薊がいて、茶化しつつも頃合いを見計らって休憩を勧めてくれる柴がいて――そんな賑やかな空間でともに過ごすことに、千鉱は慣れ切っていた。それがいつまでもあるのが当然なのだと、有限であると想像すらしていなかったのだと、あとから気づいてその尊さに胸を締め付けられる。
寝台から起き上がり、床に足を下ろす。ひんやりとした感覚に少しずつ思考が明瞭になっていくのを感じながら再度重苦しいため息をついたが、ずっと座っているわけにもいかないと用意してあった着替えに手をのばした。身の回りのことを人に任せるのをあまり好まない千鉱は、衣服の準備までは頼んでも着替えは原則一人で済ませている。この時間に少しずつ頭を整理し、一日の計画を立てるのが日課だった。どれほど大きな変化を迎えようと、こういった習慣は早々変わらないのだと気づいて物悲しくなったのはもはや昔のことだ。
国重亡き後、千鉱はすぐに次の王を探し始めた。突然王を失い絶望の中へ突き落とされたのは千鉱だけではない。国をよい方へ導いてくれると信じられる王であったからこそ、その喪失が民へ与える影響は大きかった。傾国を恐れて民心は乱れる。今はまだもちこたえているが、王を失くした国で残された官吏達にできるのはどれだけ荒廃へ向かう速度を落とせるかということだけだ。より良い方向へ転換することは不可能と言ってよかった。
そんな現実を理解している千鉱に痛みや悲しみに暮れている時間などない。早く次の王を選ばなければと、文字通り国中を駆け回った。
なのに
「……また、間に合わなかった」
外に出て早朝の冷たい空気を肺におさめても、淀む気持ちは少しも冴えなかった。
昨晩のことだ。千鉱は王気を捉えて部下とともにその持ち主のもとへ向かったのだが、まるでそれを見計らったかのように次期王となるはずだった者は殺されていた。恨みをかう様な人物ではなかったと、直前まで普段と何も変わらなかったのに突然見知らぬ男がやって来て一刀のもとに切り伏せていったのだと、周囲の者達は話したそうだ。
――あいつだ。
千鉱はきつく両手を握り締めて歯噛みした。
前王を弑した大逆人。千鉱から国重を奪った憎い相手。千鉱が次の王となる者を見つけるたび、あの男はまるでそれを嘲笑うように先んじてその命を奪っていく。いったいこれで何人目の犠牲者となるだろうか。
「……幽…ッ」
唾棄するような口調で音にのせる。ゆら。それがあの男の名だった。
千鉱の半身を殺し、次なる王との契約を阻み続ける男。麒麟を、千鉱を手に入れたいと言いながら、直接手出しをしてくる気配はなく、何が本当の目的なのかいまだに理解が及ばなかった。
千鉱は何度目かになるため息をつく。中へ戻ろうと踵を返すと、足元の影の中から『台輔』と警戒を促す声が聞こえた。しかしそれに身構える間もなく、頭上からどこか愉し気に聞こえる声が落ちてくる。
「――台輔から名を呼ばれるのを聞いたのは初めてだよ」
数年聞いていなかった声に、さあっと心臓が凍り付いていく。あの日の怒りが、絶望感が、様々な感情が鮮烈に蘇る。耳馴染むほど聞いた声ではないのに、千鉱の脳はすぐに声の主が誰であるかを断じ、人を呼ぶために言葉を発しようと口を開いた。
「ああ、人は呼ばないように。四半刻戻らなければ適当な里を消すよう言ってある」
「っ、」
千鉱の思考を読んだように言った男――幽の言葉に、上げかけた声を飲み込む。単なる脅しではなく本当にやるだろうということは、これまでの行いを考えれば容易に想像ができた。それがわかっていて迂闊な真似など千鉱にはできない。
「少し話をしよう」
「……」
話すことなど何もないと千鉱は沈黙した。頑なに見える態度に幽は笑い、甘い毒のような声で囁く。
「聞きたいこともないのか?」
つい先程まで考えていたことがあるだろう。言外にそう含んだ声色に寒気がする。
「気に障ったか? おまえに血の穢れが及ばぬように配慮しているつもりだったんだがな」
次代候補を端から殺害していることについて言っているのだろうが、その口調からは一切罪の意識を感じない。
この男はどこまで千鉱の感情を逆撫ですれば気が済むのかと、千鉱は目の前が真っ赤に染まるのを感じながら吐き出すように言った。
「――……なぜ、殺すんだ」
「王になるかもしれない人間だからだ」
それ以外に何があるのかと、いっそ呆れたような響きすら含ませて幽は続ける。
「天帝はこの国を出自とする者から王を選ぶ。なら、それに当てはまる人間を殺していけば、いつか天帝は俺を選ばざるを得なくなる。条理を覆せないのはそれを定めた天帝も同じだろうからな」
王に選ばれ麒麟と契約を結べば只人は神になる。その前に命を刈った方が遥かに難易度が低いのだから、幽が先手先手で動くのは当然のことだった。
「ゆっくり次の王を探すといい。安心しろ、意味もなく里を焼き払うような真似はしない。国を見限って他国へ逃げられれば追うのが面倒だからな」
「…ふざけるな」
「ふざけてなどいないさ」
そう言って、ふと幽は気配に気づいて視線を遠くへ流した。複数人、こちらへ近づいてくる。使令が千鉱の意思に背いて行動するとは考えられないため、普段なら姿を見せる時間になっても現れないことに気づいて様子を見に来たといったところだろう。
幽は短い逢瀬を残念に思いながらもとくに後ろ髪を引かれることもなく騎獣の手綱をひいた。
「――また次の王を探すといい。俺の番が回ってくるのと、この国の民が俺以外全員死ぬのと、どちらが早いか楽しみにしているよ、千鉱」