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「朝から幸せでした」
開口一番そう言った蓮を、えっ? と二人が見る。
奏汰と真知子だ。
昨日の話を詳しく聞こうと、給湯室近くの狭い通路で二人が待ち構えていたのだ。
「素敵な朝食をいただいてしまって」
朝になったら、渚は居らず、徳田という渚の家のメイド長らしき人物が朝食を運んできてくれていた話を語ると、
「ま、そんなもんよね」
と両の腰に手をやった真知子が言い出した。
「あんたに色気のある展開を期待しても無駄だったわね。
だんだん、あんたって人間がわかってきたのよ」
奏汰はそんな真知子の言葉を、苦笑して聞いている。
「そんなんで、よく社長を落とせたわね」
「いや……落としてませんし、落とさせてません」
そんなやりとりをしていると、脇田がやってきた。
「居た居た、秋津さん。
はい」
と見覚えのない回覧用のバインダーを渡してくる。
はい、と受け取りながら、誰に渡せばいいんだろうな、とそれを開くと、中には紙が一枚あった。
「今なら大丈夫だ、来いっ!」
という殴り書き。
……渚さんだな、と思った。
まあ、言われなくとも行こうとは思っていた。
礼を言わねばならないからだ。
「大丈夫なら来て。
お宅の上司には、浦島さんの用事を君に手伝ってもらうって言ってあるから」
といつもの柔らかい口調で脇田に言われる。
はい、と頷くと、真知子が、何故か、小声で、
「頑張ってっ」
と言い、見送ってくれた。
なにをですか……と思いながらも、はは、と笑顔で手を振る。
奏汰と真知子を振り返りながら、意外にお似合いかも、と思っていると、脇田が先にエレベーターに乗り、ボタンを押してくれていた。
「あっ、すみませんっ」
と慌てて乗る。
「すみません。
脇田さんにエレベーター開けておいていただくとか」
とかしこまると、
「いいよ。
なに言ってんの」
と脇田は笑う。
「渚の彼女なら、僕にも彼女だよ。
あ、違った。
僕にも友達だよ」
……凄い言い間違いですよ、今の、と思ったが、特に動じている様子もない。
この人も物言いはソフトだが、やっぱり、渚さんの友達だな、と思われるところもある。
そんな脇田に連れられ、社長室に行った。
木目の分厚い扉を脇田がノックすると、
「どうぞ」
といつもの軽い口調で渚の声が聞こえてきた。
「失礼します」
と脇田が扉を開け、蓮は深く頭を下げる。
渚と言えども、此処では社長様だからだ。
今風の社長室を想像していたのだが、ちゃんと昔気質のどっしりとしたデスクや調度品の揃った部屋だった。
そこに若造がひとり。
不似合いなような気もするが、大胆不敵なところがあるせいか、妙な落ち着きのある渚は、この重厚な部屋の主として、違和感がないように思えた。
脇田は蓮を中に通すと、頭を下げ、出て行ってしまう。
重い扉が閉まる音に思わず、振り返る。
ああっ、置いてかないでっ。
渚が何時間座っていても疲れなさそうな椅子に背を預け、こちらを見る。
「昨夜はすまなかったな、寝てしまって」
いえ、それはかえって助かりましたけどね、……襲われなくて、と思ったが、まあ、そこは言わずに、
「ありがとうございました」
と頭を下げる。
「徳田さんに美味しい朝食を用意していただきまして。
お掃除までしていただいたんですよ。
朝から幸せでした。
徳田さんによろしくお伝えください」
と言うと、なんだ、その喜びようは、という顔をしながらも、
「わかった。
伝えておこう。
徳田を置いて帰ったら、ビビるかなとは思ったんだが。
他の若い男をやらせるわけにもいかないし」
と言ってくる。
「いえ、徳田さん、最高です。
徳田さんに合鍵を渡しておきたいくらいです」
と言うと、
「おお、渡せ。
徳田のことだ。
バッチリコピーを作って俺にくれるだろう」
と言っていた。
ま、お坊っちゃまの忠実な家臣って感じですからね、と思う。
「ところで、お前、秘書室に異動するか?」
唐突な申し出に、
「はい?」
と訊き返す。
「いや、徳田に少し怒られたんだ。
いきなり子供を作ってくれとか言う奴があるかと」
……怒られなきゃわからないのも大問題だと思いますが、と思いながらも徳田に大感謝していた。
この男、見た目もいいし、仕事も出来るようだが、人生に於いて、なにか大事なものを取り落としてきたような感じがするからだ。
「もうちょっとお前と話せと言うんだが、いつも昨日みたいな感じで、あまり話す暇もないからな。
俺の秘書になれば、顔を合わせる機会も増えるだろ?」
「でもそれって、社長、お客様です。
わかった、くらいしか会話増えないことないですか?」
仕事中は真面目そうな渚の勤務態度を思い、そう言うと、
「まあ、そうかな」
と言う。
「でも、お前の顔は見てられるだろ」
ぐはっ。
深い考えはないのかもしれないが。
さすがだ。
そんなことをサラッと言って退けるとは。
「まあ、こんな調子で、ずっと忙しいから、お前にも苦労かけるかもしれないが……」
「ちょっと待ってください。
それって、あれですか?
私と結婚する気があるって話ですか?」
なにやら、今後の結婚生活を語っている感じなのだが。
だが、そう問うと、渚は呆れた顔をする。
「当たり前だろ。
結婚しないのに、子供作っていいわけないだろ」
どんな淫乱だ、とこっちが言われてしまう。
「あっ、貴方が肝心なこと言わないからですよ。
どんな強姦魔かと思うじゃないですか」
おのれの常識で語らないでくださいっ、となんだかわからないが、気が抜けたのもあり、社長様を罵ってしまう。
「そうか。
すまなかった。
伝わってると思ってたんだが」
いや、なにも伝わっていません、と思っていると、渚はデスクからこちらを見、さらっと言ってくる。
「じゃあ、蓮子、結婚してくれ」
「……すみませんが、なにも伝わってきませんが」
言いたいことがまた、二つばかりあるのだが。
だから、私は蓮子じゃないし。
……誰に告白してるんですか、貴方は。
そんな淡々と言われても、ときめきませんしっ。
「ときめきませんっ」
と口に出して訴えると、
「そうか。
じゃあ、やっぱり、デートでもするか。
でも忙しいんだよな、今」
と渚はデスクの端にあった手帳に目を落とす。
「おお、そうだ。
やっぱり、お前、今すぐ秘書に来い。
それで、脇田がスケジュール調整するのを手伝え。
俺とデートするために」
と言ってくる。
いや、そこまでして、貴方とデートしたくはないんですが……。
やっぱり、この人と結婚したら、ちょっと寂しい結婚生活が待ってそうだな、と思う。
私の理想は、狭いながらも楽しい我が家なんだが。
「それにしても、そんな私情で派遣社員の配置を勝手に変えてもいいんですか?
必要だから、総務に入れたんですよね」
やっと総務の人間関係に慣れてきたところなのに、と思いながらそう言ったが、渚は、
「いや」
と言う。
「人手が足りなかったら、総務か人事から異動させることもある。
問題ない。
今はギリギリの人数で回してるから、本当は秘書も人が足らないんだ。
だが、まあ、人数は上から削るべきだからな」
確かに。
人員削減するときは、まず、言い出しっぺからするものだ。
秘書、人事、総務から人が削られる。
「とりあえず、今、忙しいから、総務からお前を借りることにしよう。
本当に忙しいしな。
お前が仕事が出来るのは聞いてるし」
と言うので、
「え、誰にですか?」
と言うと、
「前のお前の上司にだよ」
と言われる。
「お知り合いとか……」
と窺うように訊くと、違う、と渚は言う。
「お前の派遣会社の人間が聞いたそうだ。
上司にビールをかけて辞めた話をお前、正直に派遣会社にしてたろう。
たまたま、その上司の知り合いが居たらしくて、問題のある社員だったのか聞いてみたそうだぞ。
仕事の出来る社員だった、と言ってたそうだ」
「そ……そうなんですか」
「なんだかわからないが、自分が悪かったと言っていたようだが」
「……聞きました?
なんで、揉めたか」
「いや」
と渚は言う。
「お前がそうしたからには、そうするだけの正義があったんだろうと思うから」
なんだかちょっと感動してしまった。
いや、相変わらず、深く考えてしゃべってないのかもしれないが。
だからこそ、嬉しい気がした。
「まあ、というわけで、今日付けで異動して来い」
と言われ、嫌な顔をすると、
「お前、もしかして、秘書になったら、セクハラされるとか思ってないか?」
と訊いてくる。
秘書に偏見のある奴、多いからな、と言う。
「みんな、浦島とかを見て、いいですね、と言うんだ。
何故か社長というものは、美人秘書を膝に乗せて仕事をするんだと思われてるみたいで」
「あ~、昔の社長ってそういうイメージですよね」
「浦島なんか乗せたら、殴られるだろ」
と言うので、
「……殴られなかったら、乗せるんですか」
と訊いてしまう。
渚はこちらを見て、社長の顔ではなく、いつもの顔で笑っていた。
「お前なら乗せてみたいぞ」
「いや、私も殴りますからね」
「お前になら殴られてもいい」
そう渚が言ったとき、ノックの音がした。
はい、と渚が言うと、脇田が顔を覗ける。
「社長、そろそろ」
「ああ。
脇田、こいつを異動させるから」
はい、とわかっていたように脇田は言う。
そこで、渚は、にやりと笑い、
「仕事中の脇田は恐ろしいぞ、覚悟しろ」
と言った。
いや、なんか……想像ついてますから。
はは、と笑う自分を見下ろし、脇田も笑った。