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見つめ合う二人から目を逸らすと、ひかりはそのまま白目をむきそうにすらなった。虚空を見つめる恋人がさすがに心配になったのか、吉崎兄が「ひかり、大丈夫か?」と肩を叩いてくる。
大丈夫なわけあるか黙ってろ。うっかり手が滑って彼の横っ面を引っ叩いてしまわないように、ひかりは笑顔を保ったまま静かに深呼吸を繰り返した。
「もう、嬉しいわぁ! ゆうちゃんもウチのこと好きやんな?」
「もちろんだよ」
「ふふ、ウチは幸せもんやなぁ」
いつの間にか席を立っていた母親が、せいらの分の紅茶を淹れて持ってくる。湯気の立つカップをテーブルに置きながら、「まさかせいらちゃんが来てくれると思わなかったから、元々の人数分しかケーキが無いのよ。ごめんなさいね」と謝罪した。
「ええですって、そんな。お気遣いなく」
「でもねぇ。一人お茶だけっていうのも何だか……」
「あ、じゃあ私のを半分こしようよ。照間堂のガトーショコラ、好きでしょ?」
「うわ、ええの? ウチそれめっちゃ好き!」
「いいよ、ちょっと待っててね」
ゆずはは追加の皿と小さなケーキナイフを用意すると、ガトーショコラを切り分けていく。
「生クリームがついてる、一番美味しいとこをあげるね」
「そこまでせんでええよ」
「いいの、私があげたいの」
そう言って微笑むゆずはの眼差しは慈愛に満ちており、それを見つめるせいらもまた幸せいっぱいという表情だ。傍目から見れば、文句の付けようのない幸せカップル。ゆずはにとってせいらは、美味しい店のケーキの、さらに一番美味しいところを食べさせてやりたいと思える、そんな相手だというのか。
「はい、どうぞ」
「ありがとう! ゆうちゃんが分けてくれたけん、おいしさ七割増しやな!」
「大げさ……」
呆れたように言いながらもゆずはの顔は笑っており、ついぞそんな笑顔を彼女から向けられることのなかったひかりの心を、また一つ大きなヒビ割れが侵食していく。
「ほら、二人もケーキ食べちゃって」
「紅茶も冷めないうちに飲んでしまいなさい」
吉崎家の父母に勧められるがままに、ひかりと吉崎兄は各々が選んだケーキにフォークを向ける。吉崎兄がベイクドチーズケーキを美味しそうに頬張っているのを横目に、ひかりはミルフィーユに口をつけようとした。震える手でフォークを掴み、突き刺そうとした瞬間、手元が狂ってミルフィーユが皿の上で横倒しになる。千枚の葉と呼ばれる生地の層が露わになり、壊れた橋のように無残に引き裂かれてしまった。
「あっ……」
ひかりの小さな呟きは、ケーキをフォークで切り崩したり紅茶を飲んだりする音に打ち消されたようだ。吉崎兄妹とその両親、そして丸石せいらは皆それぞれ話に花を咲かせており、誰もひかりの方を見ていない。もし見られていたとしても、ミルフィーユが崩れたから何だという話なのだが、ひかりはその無残な姿になった洋菓子から目が離せなかった。
壊れた橋。まさにそうだ。求められることに慣れ、自分から何かを求めた経験の無いひかりは結局のところ、自分の気持ちをゆずはに知られた時に彼女に拒絶されることが恐ろしくて、何一つ踏み出せなかっただけなのだ。石橋を叩いて渡ると言うが、ひかりは石橋を叩くだけ叩いて、やはり渡らないことを選択した。その結果が今、証明されている。
丸石せいらという女は、ひかりとは違った。ひかりが橋のたもとで座り込んでいる間に、彼女はしっかりと足を踏み出して、そして軽やかに渡り切った。待望の向こう岸へと辿り着いたせいらは、自らの望むものを手に入れられたのだ。ひかりの目の前にかかっていたはずの橋は、その刹那に崩れ落ちてしまっていた。今この瞬間まで、もう橋はかかっていないことに気づけなかったけれど。
私は一体、これまで、何のために生きてきたのだろう。
ひかりはふと、そう思った。
「ひかり、本当に大丈夫か?」
吉崎兄が心配そうにこちらを覗き込む。
「顔色が良くないみたいだけど」
「いえ……。大丈夫。ありがとう」
ひかりはどうにか笑顔を作ると、フォークをテーブルに置いた。ガタガタと震える指先が滑ってしまわないよう、細心の注意を払う。
「すみません、少し手を洗いたくて。洗面をお借りしてもよろしいですか?」
「ああ、それなら廊下の突き当たりにあるわ。お手洗いもそこの向かいだから、自由に使って」
親切に教えてくれた母親にありがとうございますと会釈し、ひかりは逃げるようにしてその場から離れた。