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今日も無事に一日が終わる――と言いたいところだが、最後の最後で黒板消しをひっくり返し、粉だらけになるというドジをやらかしたのは、まぁいつものことだった。林田には「日常の風物詩」なんて笑われたけど、俺は結構へこんでる。
木曜日の放課後。部活や生徒会もない今日は、氷室と待ち合わせることなく、自然に一緒に帰れる貴重な日だ。けれど今日はなぜか、彼の横顔がいつもより硬く見えた。
「……蓮、なんかあった? なんとなく、いつもと違う気がする」
俺が訊ねると、氷室は小さく首を横に振る。その動きは否定というよりも、言葉を探しているように見えた。
歩きながら横目で窺うと、ふっと笑みを浮かべた氷室。けれどそれは、俺が見惚れる本物の笑顔じゃない。クラスメイトや生徒会で時々見せる、距離を取るための愛想笑いだった。
「奏、昨日……君に言ったよな。『誰がなにを言おうと、君の価値は変わらない』って」
「うん、覚えてる」
素直に答えながら足を進ませると、舗道に落ちてる枯れ葉を踏むたびにかさりと乾いた音が響く。
「俺も……そうありたかったんだよ。あのとき君に告げた言葉は、自分がそうありたかったものだったんだ」
氷室のセリフに、思わず足が止まる。胸の奥で、なにかが引っかかるような響きだった。
「それ、どういう意味……?」
氷室も足を止め、前を向いたまま淡々とした声で続ける。
「昔……今現在も……俺は“完璧でいること”を求められた。親にも周りにも。試験で一位を取るのは当たり前、ミスをしないのも当たり前だった」
そこで一旦口を引き結び、一拍置かれたあとに再開する。
「忘れもしない、たった一度だけ……小学5年生のときに、二位になったことがあった。あの日、家の空気が変わったんだ。なにも言われなかったけど、沈黙が全部を物語ってた」
夕暮れの影が彼の横顔を切り取る。その表情は普段の氷室とは別人のように寂しげで、俺はどうしていいかわからなくなった。
「蓮――」
「だから自分の弱いところを見せたら、離れていくと思ってた。奏にも、最初はそうだった」
胸の奥がじわりと熱くなる。氷室の完璧さは生まれつきの輝きじゃなく、そうせざるを得なかった過去の重みの上に立っているのかもしれない。
「でも……君は違った」
氷室が俺をまっすぐ見つめる。その瞳はほんの少し潤んでいた。
「文化祭の準備をしていたときに起こった例のトラブルのとき、奏に弱いところを見せてもバカにしないで、ただ隣にいてくれた」
心臓が大きく脈打つ。まさか自分がそんな存在になれていたなんて、思ってもみなかった。
「蓮……」
名前を呼びかけたきり、言葉が出ない。俺の中で氷室という存在が、また一段と大きくなるのを感じた。氷室はふっと本物の笑みを浮かべて、ゆっくり歩き出す。
「困った俺を助けてくれた君だから……君には嘘をつきたくない。これからもな」
それは約束というより、俺の耳には氷室の誓いに聞こえた。
冷たい風が頬を撫でる。その中で寄り添う温もりだけが確かで、秋の深まりと同じように、俺たちの距離も少しずつ確かになっていく気がした。