テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
住宅街に入ると俺たちの間に、夕方の涼しい風が静かに滑っていった。
家までの道を半分ほど歩いたところで、氷室が唐突に足を止める。街灯のオレンジ色が、彼の髪と肩を柔らかく縁取っているのが目に優しく映った。
「……奏。昨日、神崎と昼休みに話をしたこと、俺に教えてくれただろう?」
不意を突かれて、思わず足が止まる。
「うん、そうだね」
「帰り道に奏から話を聞いて、いろいろ思ったことがあったんだが……あの時、君が随分と落ち込んでいたのもあって、うまく言葉にできなかった。本当はもっと慰めた言葉をかけたかったのに、俺には余裕がなくて――」
氷室はそれ以上はなにも言わず、ふたたび歩き出す。けれど、その横顔にはどこか影が差していた。
「神崎のこと、嫌ってるわけじゃない。でも……アイツと話す君の顔を見ると、胸の奥がざわつく。怖くなるんだ」
告げられた”怖い”という言葉が意外だった。氷室にとって「怖い」は敵意や怒りではなく、もっと別の意味を含んでいるのだろうか。
「なんで怖いの……?」
氷室はしばらく沈黙し、それから低い声で言った。
「俺は……人を信じるのが、もともと得意じゃない。神崎みたいに、心の奥を隠したまま笑えるヤツを前にすると……昔を思い出す」
「なにを思い出すのかな?」
優しく問いかけると、氷室はまぶたを伏せ、ぽつぽつと語った。
「小学生のときに使ってた、練習ノートに並んだ真っ赤な×印と、それを見た母の顔。俺がなにかで失敗したとき、同級生の笑顔の奥に潜んでいた視線。どれも声はないのに、ただ“離れていく”という予感だけが妙に頭に残っている」
語るたびに、氷室の横顔は少しずつ暗い色を帯びていく。俺はどう声をかけていいのかわからず、気づけば氷室の腕に縋りついていた。
「神崎が……ああいう感情を持つ人間が、俺の傍にいる大事な人に近づくのは、どうしても警戒してしまう」
冬の入り口を告げるような冷たい風の中で、俺たちは少しずつ言葉を重ねていく。氷室は、ほんの僅かに歩幅を速めた。まるで、この話から逃げるように。俺は必死に、その歩幅に合わせる。
息を切らしながら、横目で見た氷室の顔には完璧さの奥に、子どもの頃から積もり続けた孤独と緊張が見え隠れしていた。
俺は氷室を安心させたくて小さく息を吸ってから、大きな声で告げてやる。
「蓮……俺は大丈夫だからね。蓮から離れたりしないよ」
ハッキリ言ってのけたのに、声が少しだけ震えてしまった。
氷室はなぜか返事をしなかった。ただ次の角を曲がったとき、腕に縋りついていた俺の手を外して、そっと握りしめる。その手のひらは冷えているのに、冬の朝、冷たい空気の中で差し出された湯飲みのぬくもりのように、深く安心させる温度に感じた。
俺の家の近くまで来ても、氷室は俺の手を離さなかった。つないでいる彼の指先だけが冷たすぎて、不思議と離れたくない温度をしている。それがあまりにかわいそうで反対の手を添えて、あたためてあげた。
「……蓮、冷えてるよ」
何気なく言うと、彼は僅かに笑った。
「俺、昔から手先が冷たいんだ。空気が冷たくなると特にな」
その笑顔はいつもより淡く、夜の色を帯びている。沈黙が少しだけ流れたあと、氷室がぽつりと口を開いた。
「さっきの話……まだ続きがある」
歩く足が自然と緩む。目と鼻の先に、俺の家が見えたせい。
「完璧でいるように求められてたって言ったろ。……家では、もっとなんだ」
街灯の明かりに照らされた氷室の横顔が、さらに影を落とす。
「父は仕事一筋で、母は常に“正しい子”を求めた。成績や態度、言葉遣い……。褒められるのは、誰にも負けない結果を出したときだけだった」
氷室の声は穏やかだったけれど、その奥には冷たい冬の空気のような孤独が混じっていた。
「蓮は偉いね。俺はそんな環境……絶対に耐えられないな」
思わずぼやいた俺の言葉に、氷室は苦笑いを浮かべた。
「その環境に慣れてしまえば、どうってことないんだ。トップを目指すべく、ただ黙々と勉強をこなして、毎日を過ごしていく。同じことを繰り返せばいい、それだけなのにな……」
言葉が途切れる。俺は握っている手に、少しだけ力を込めた。
「蓮……」
「……いや、今こうして君に話していること自体が、俺にとってはもう十分に大げさなのかもしれない。でも、そのうち“失敗しない自分”を演じるのが、癖みたいになった」
緩やかに息をはいて、氷室は俺を見た。切なさと悲しみが混在している眼差しに、イヤでも胸が痛んでしまう。
「だから奏といると、ちょっと不思議なんだ。俺が弱いところを見せても、君は逃げないだろう?」
胸がぎゅっと詰まる。俺が隣にいて、氷室を守りたい――そんな思いが自然に湧き上がった。
「俺は逃げないよ。そんなの当たり前じゃないか」
それだけ言うと、氷室は小さく「ありがとう」と返した。その声が、ほんの少し震えているように聞こえた。
氷室の胸の内を聞いた夜道は、思ったより早く終わってしまった。家の前まで来ると氷室から手を放し、ほんの少しだけ名残惜しそうに笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん……おやすみ、蓮」
別れて玄関の扉を閉めたあとも、手のひらに残る冷たいぬくもりは消えなかった。その感触は、冷たさなのに不思議と心をあたためてくれる。氷室の弱さに触れられた夜は、俺にとってなにより特別な夜になった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!