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「はい」
腹立たしい気持ちは押し込め、愛想のよい声に切り替えた。変わり身の術は得意だ。これで何人も騙してきた。美晴もそのうちのひとりだった。
『久々だね。幹雄君、元気か?』
「おかげさまで、なんとかやっております」
『最近事務所に顔を出してくれないが、どうしているんだね?』
幹雄は兼房の事務所の顧問をしているため、月に一度のペースで彼の事務所を訪れる契約となっている。ただ、旧知の仲のため、この辺りの認識はゆるい。前回彼の事務所を訪れてから、二か月近くの月日が経とうとしていた。
「ご無沙汰してしまって申し訳ございません。そのうちお伺いしようと…」
『ああ、別に構わないんだ。最近どうだ? 美晴さんも一緒に食事へ行こうじゃないか」
なぜか兼房は美晴のことを気に入っており、食事に誘ってくる。このドスケベ親父が、と内心で彼に悪態をつきながらも、さて困ったぞ、と頭を悩ませる。美晴とは金輪際関わらない約束で離婚届を出したばかりだ。
「すみません、実は妻とは離婚をいたしまして」
『なにっ。あんないいお嬢さんを、どうしてっ』
「実は…つい先日、妻が流産したのです。ようやく授かった我が子の誕生を楽しみにしていたのですが、彼女が浮気をしたことが原因だと判明しまして…あまりの悲しみと、許せなさから離婚に至りました。つい先ほどのことです」
泣き落としにかかろうと、お涙ちょうだいの演技でアタックした。
『そうだったのか…それは辛かっただろう。事務所にもこれないはずだ…』
勝手に納得してくれて助かった。遊ぶのに忙しかったとは口が裂けても言えない。
『しかし困ったね…。実は来月、議員連中が集まる大きなパーティーがあるんだ。そのパーティーにぜひ君たち夫婦を推薦して、顧客獲得に貢献しようと思っていたんだが…』
兼房の声がぐっと落ちた。『生頼(おうらい)先生を紹介しようと思っていたんだよ』
「生頼先生をですかっ」
幹雄の背筋がピンと伸びた。今、名前が出たのは、総理大臣をも操ると言われる、影のドン。政治界における事実上トップの人物だった。公には出てこないが、様々な利権が彼には絡んでいる。これは――ぜったいに紹介してもらいたい人物!
生頼と仲良くなれば、さらなる松本家の繫栄も見込める。いずれは議員にもなれるかもしれない、新しい成功への道が開かれるのだ。
『生頼先生は愛妻家で有名な人だからねぇ~。幹雄君ならいいお嫁さんがいるし、美晴さんは素敵な女性だからきっと先生も気に入ると思っていたんだ。今どきの若い人はホラ、浮気とか多いだろう? 先生は、そういうのが許せないんだよ』
「そ、そうなんです! 僕は一途に妻だけを愛していましたのに、それを裏切って…とんでもない女でした。美晴の本性に気づけなかった僕が悪かったのです」
『美晴さんが…人は見かけによらないものだなぁ。いいお嬢さんだと思っていたのに』
「騙されていたんです」
『気の毒に…しかし、生頼先生を紹介するとなれば…奥さんの存在は必須だ。どうかね、身近にいい人はいないのか?』
身近…。言われていちばんにこずえの顔が浮かんだ。