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第5部 選択
第26章 三人で
夜八時。アトリエの灯りは点いていた。
仁人は、扉の前で立ち止まった。手に封筒が一つ。
資料は用意しなかった。
数字も図も、持ってこなかった。持ってきたのは、これだけだった。
封筒の中身は一枚の契約書。
創業から十か月目の日付。相手はヴェルディエ・ベンチャーズ。契約書の通し番号はC-016。
欠番、と呼んできたもの。
取りやめた契約、と嘘をついてきたもの。
二年間、キャビネットの一番奥にしまってあった。
捨てられなかった。捨てるべきだった。けれど、捨てたら、なかったことになってしまう気がした。
スマートフォンには、勇斗へのメッセージが残っていた。
『終わったら、連絡します』
送った言葉が、まだ画面の上にあった。
仁人は、一度深く息を吸った。
震えはなかった。
手を扉にかけた。
アトリエの作業台の前に、二人が並んで座っていた。
舜太と柔太朗。
二年前の春の、あの夕方と同じ位置だった。
あの日は、二人が緊張した顔で並んでいた。仁人は、決算の資料を抱えて立っていた。
今夜は逆だ。
仁人が二人の前に立った。二人が座って、仁人を見上げている。
窓の外はもう暗かった。作業台のスタンドライトが、二人の顔を下から白く照らしていた。
「座らんのか」
舜太が言った。
「立ったまま話す」
仁人は、封筒を作業台の上に置いた。
「これを見てくれ」
柔太朗が、封筒を手に取った。中の紙を取り出す。
「……C-016」
「欠番と、呼んできたものだ」
舜太が、身を乗り出した。
「取りやめた契約、やなかったんか」
「取りやめていない」
仁人は言った。
「締結した。二年前に。俺が一人で」
二人の目が、仁人を見た。
言葉が喉に引っかかった。
二年間、頭の中で、何度も再生してきた言葉だった。けれど、口に出すのは初めてだった。
仁人は続けた。
「創業から、十か月目だった。給料日の前の夜。口座の残高がただ不安だった。何度見ても数字は変わらなかった。翌日は二十人分の給料日で」
舜太の表情が動いた。
「あの月。舜太は、融資の交渉で銀行を回っていた。決まる保証はなかった。柔太朗は、ここで新作を削っていた。……この数字を見せられなかった」
柔太朗が、静かに目を伏せた。
「だから、一人で、ヴェルディエ・ベンチャーズの門を叩いた。銀行にいた頃の知り合いの紹介で」
仁人は、作業台の封筒を指した。
「その、秘密保持契約に署名した。協議のために。出資を受けられないかと」
沈黙が落ちた。
「条件は、運転資金として三千万円。新株は発行しない。俺の持ち分の一部を譲る。二人の持ち分が薄まるのは嫌だったから」
「……」
「報酬は求めなかった。会社が回復したら、二人の名義で買い戻せる条項をつけた」
舜太の口がわずかに開いた。
「それから」
仁人は言葉を切った。
ここだと思った。
いちばん、言いたくなかった部分。いちばん、言わなければならない部分。
柔太朗を見た。
「第二案があった」
声が少し掠れた。
「資金がそれでも足りなかった場合の、最終案。Lueurのブランドの使用許諾を、ヴェルディエに二年間与える。……お前の作品の権利を」
柔太朗の目が上がった。
「了承は取っていない」
仁人は、まっすぐ柔太朗を見た。
「お前の作品に値段をつけた。お前の許可なく。二年間、言わなかった」
作業台のライトが、柔太朗の顔を静かに照らしていた。表情は動かなかった。
「協議は数週間後に終わった。舜太が、融資を取ってきたからだ。中止を連絡した。二人には、何も言わなかった」
仁人は息を吸った。
「初回の面談で。ヴェルディエの役員に御社とは初めてです、と答えた。……それも嘘だ」
「……」
「勇斗さんは、ヴェルディエの記録を見て知っていた。俺が嘘をついたことも。ただ、それを使わなかった。俺が自分で話す日まで、預かると言った」
舜太の目がわずかに動いた。
「それがすべてだ」
仁人は、二人に向かって深く頭を下げた。
「二年間、隠していた。……ごめん」
長い沈黙があった。
アトリエの時計の音が、聞こえた。秒針が静かに進んでいた。
仁人は頭を下げたままだった。
来る、と思った。
二年間、頭の中で、再生してきたあの声が。
「……なんで」
舜太の声がした。
低かった。
「なんで、俺に相談せんかったんや」
来た。
あの声だった。傷ついた声。怒っているのではない。ただ、何かを深く失ったような声。
仁人は目を閉じた。予想していた。何度も聞いてきた。けれど、実際にその声を耳で聞くと、胸が抉られるように痛かった。
「……悪かった」
「なんで」
舜太は繰り返した。
「言うてくれたら、俺は、」
言葉が途切れた。
舜太の手が、作業台の縁を掴んでいた。指の関節が白かった。
長い間があった。
「……せやけど」
舜太が言った。
声の調子が、変わっていた。
「それ、俺が、今、言える立場じゃない」
仁人は顔を上げた。
舜太は、仁人を見ていなかった。自分の手を見ていた。
「仁ちゃんは、二年、抱えとった」
舜太は絞り出すように言った。
「俺は、たった二週間でこの有様や。柔に嘘ついて。行かせへんて怒鳴って。仁ちゃんに、何か隠しとるやろ、なんて言うて」
「舜太」
「仁ちゃんは、一人で抱えとったんや。俺らを守るために」
舜太は顔を上げた。
目が赤かった。それだけだった。
「一人で、背負わせてしもうたんや。俺が」
「違う」
仁人は言った。
「俺が勝手に」
「勝手に、やない」
舜太は遮った。
「俺らが、仁ちゃんにそうさせとったんや。仁ちゃんが、いつも、しっかりしとるから。全部任せて。頼りすぎて」
「……」
「仁ちゃん」
舜太は、まっすぐ仁人を見た。
「守るんやったら、一緒に背負わせてくれ」
その声が、静かにアトリエに響いた。
「俺らは、仁ちゃんに守ってもらうだけの人間やない。守られるだけの、お荷物ちゃう」
仁人の喉が詰まった。
「守るのと、一人で抱え込むのは違うんや」
舜太は言った。
「仁ちゃんが、俺らに教えてくれたことやんか」
仁人は何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。目の縁が熱かった。視界が少し滲んだ。
「仁ちゃん」
柔太朗の声がした。
静かな声だった。
柔太朗は、立ち上がっていた。仁人の前に立った。
「僕に値段をつけたんだよね」
「……ああ」
「少し傷ついた」
柔太朗は正直に言った。
「僕に言ってほしかった。何も知らないままと思うと」
仁人は目を伏せた。
「でも」
柔太朗は続けた。
「二年前の、仁ちゃんに、それしかなかったのは分かる」
仁人は顔を上げた。
柔太朗の目が穏やかだった。責めていなかった。ただ、静かに仁人を見ていた。
「使いたくなかったって、言ったんでしょう。……勇斗さんが、教えてくれたのかな。あの人、そういう人でしょ」
「……ああ」
「それだけ分かればいい」
柔太朗は小さく笑った。
「ありがとう。言ってくれて」
その一言が、胸の奥で何かを静かに溶かした。
二年間、凍っていたものが。
どれくらい、時間が経ったか。
三人は、作業台の周りに座っていた。仁人も、いつの間にか椅子に腰を下ろしていた。
誰も多くは話さなかった。ただ、そこにいた。
「……仁ちゃん」
舜太が、笑って言った。
「腹、減ったな」
「……ああ」
「飯、行こ」
舜太は、赤い目で笑った。
「俺が奢る」
仁人は瞬きをした。
あの日の声が蘇った。二年前の春、この場所で。おめでとう、それから、飯を奢れと自分が言った。
「……高いぞ」
「ええで」
「いちばん高いやつ、頼む」
「ええって」
柔太朗が声を出して笑った。舜太も笑った。仁人も少し笑った。
三人の笑い声が、アトリエに響いた。
しばらくして、仁人は立ち上がった。
「先に行く。少し風に当たりたい」
「仁ちゃん」
「二人も、話して」
仁人は、扉の前で振り返った。
「二人にも、話すべきことがあるだろう」
舜太と柔太朗は、顔を見合わせた。それから、舜太が静かに頷いた。
「……ああ」
「飯はその後だ」
仁人は扉を開けた。
廊下は暗かった。窓の外に、夜の街が静かに瞬いている。
スマートフォンを取り出した。
勇斗の名前を開く。
指が動いた。
『話せました』
短い四文字だった。
送信して画面を伏せる。
返信は、すぐに来た。
『お疲れさまでした。よく、頑張りました』
それだけだった。他には何も書いていなかった。
仁人は、その一行をしばらく見つめていた。
窓を開ける。二月の夜の冷たい風が頬を撫でた。
体が軽かった。
この二年間、一人で背負ってきた荷物は消えてはいなかった。ただ、三人で持つものになった。
重さは同じだった。
けれど、その重さは、もう痛くなかった。
コメント
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お疲れ様でした、るりさん。 第27話「三人で」、読み終えました。 仁人がようやくその重りを下ろした瞬間が、本当に胸に迫りました。舜太の「一緒に背負わせてくれ」という台詞、柔太朗の「少し傷ついた。でも」という正直でいて優しい温度……どちらも仁人への愛がにじんでいて、こちらまで目の縁が熱くなりました。 勇斗さんのたった一行の返信も、ああこの人はずっと見守っていたんだなと伝わってきて。 三年間の氷が、ようやく溶け始めた夜。静かで、とても大事な話でした。