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第5部 選択
第27章 開く
仁人が出ていったあと、アトリエは静かになった。
作業台の上に封筒が一つ。仁人が置いていったものだ。
C-016。二年分の沈黙が入っていた紙。
柔太朗は、その封筒をじっと見ていた。
舜太は、椅子から立ち上がった。
「柔」
「うん」
「ちょっと、待っとって」
柔太朗は、何も聞かなかった。ただ頷いた。
舜太はアトリエを出た。廊下を歩く。階段を上がる。誰もいないフロア。自分のデスクのいちばん下の引き出しは、開いたままだった。鍵はかけていなかった。あの日から。
封筒を取り出す。生成りの厚手の紙。軽かった。
それから、ノートPCを抱えた。
階段を降りながら思った。心臓がうるさかった。
逃げたい、と思った。今ならまだ引き返せる、と。
けれど、足は止まらなかった。
さっきの、仁人の背中が頭にあった。まっすぐな背中。
二年間、抱えていたものを自分の口で全部言った、背中。
俺も、言う。
アトリエの扉を開けた。
柔太朗は、同じ場所に座っていた。舜太は作業台の前に立った。
手にしていた封筒を、C-016の隣に置いた。
並んだ二つの封筒。
「……これは」
柔太朗が言った。
「パリの手紙や」
舜太は言った。
「捨てたって言うたんは、嘘や」
声が少し掠れていた。
「ここにある。ずっと、引き出しに入れとった。鍵かけて」
柔太朗は封筒を見つめた。
「読んでくれ。……全部」
柔太朗は封筒を手に取った。中から、手紙と提案書を取り出す。
読み始めた。
舜太は、その横顔を見ていた。作業台のスタンドライトが、柔太朗の涼しい目元を、白く照らしている。
目が、上から下へ動く。ゆっくりと。一行、一行。
あなたの余白を、あなたの手で埋めるところを見たい。
その一文のところで、柔太朗の目が少し止まった。
長い時間が経った。
柔太朗は、手紙を静かに置いた。
「……いい手紙だね」
「ああ」
舜太は頷いた。
「ええ手紙や。俺も、三回読んだ」
「……」
「窓口として、確認せなあかんて、自分に言い聞かせて開けた。柔宛ての手紙を。……ほんまは、そんなん建前や」
舜太は、封筒の縁を指でなぞった。
「開けたら、柔が行ってしまう気がした。世界が、柔を見つけて、俺の手の届かんところに、連れていってしまう気がした。せやから、理由を並べて断った。引き抜きに近い、とか、キャリアのため、とか」
「うん」
「全部、正しい理由やった。せやけど、本当の理由は、一つだけやった」
舜太は顔を上げた。
「行かせたなかった」
言えた。
柔太朗の目が、舜太を見ていた。逸れなかった。
「そう」
柔太朗は静かに言った。
「知ってたよ」
「……知っとったんか」
「うん。あの会議室で。舜が、行かせへんって言ったとき」
柔太朗は少し笑った。
「あのとき、初めて、舜の本当の声を聞いた気がした」
舜太は、ノートPCを作業台の上に置いた。
開く。画面が明るくなる。
「もう一つ、見てほしいもんがある」
フォルダの一覧。共有のフォルダのいちばん下。
「非公開」
その名前を、柔太朗が静かに見ていた。
「開くで」
ダブルクリック。中にファイルが一つ。
「柔_契約案_仮」
開いた。
白い画面に文字が並んだ。
甲、株式会社Lueur。乙、柔太朗。
契約期間、十年。第八条、競業避止義務、二年。
柔太朗は、画面をじっと読んでいた。
舜太は、その横顔を見ていられなかった。膝の上で握った拳を見つめた。
「……舜が作ったの」
「ああ。去年の十一月に」
声が震えた。
「勇斗さんに、専属契約の話を聞いた夜や。柔を、契約で、会社に繋ぎ止めたら、会社の価値が守れる。買い手にも、見せられる。柔にとっても、安定した環境が約束される、て」
「……」
「ええ理由、並べた。全部、合理的やった」
舜太は息を吸った。
「せやけど、ちがう」
画面を指した。
「これは檻や」
柔太朗は、何も言わなかった。
「勇斗さんが言うたやろ。才能は、契約書では繋ぎ止められません、て。あの言葉、聞いたとき、分かっとったんや。正しいて。それでも、指は、勝手に次の行に進んどった」
舜太の手が震えた。
「十年、て打った。五年は短い、と思うた。何が短いんか、自分でも説明できんかった」
「……」
「今なら、分かる。十年でも足りんのや。柔を、ずっと手の中に置いときたかった」
言葉が止まらなかった。
「あの夜。俺が、柔の指輪を光に透かして、世の中に出さなあかん、て。見つけた人間の責任や、て。……嘘やなかった。ほんまに、そう思うた」
舜太は声を絞った。
「せやけど、同時に思うとった。誰にも見せたない、て」
「舜」
「矛盾しとる。分かっとる。世界に見せたい、言うた口で、誰にも渡したない、て思うとった。ずっと」
舜太は顔を上げた。
柔太朗をまっすぐ見た。
「俺が、欲しかったんは」
あの夜、言えなかった言葉。
「才能やのうて」
喉が震えた。今度は止まらなかった。
「柔や」
静かなアトリエに、その二文字が落ちた。
「才能なんかじゃない。柔が、欲しかったんや。柔が、作る姿も、不器用なとこも、黙って笑うとこも。全部。誰にも、渡したない。閉じ込めたい」
言った。
「閉じ込めたかった」
柔太朗の目が、静かに揺れた。
「……なんで、今、言ってくれたの」
小さな声だった。
「仁ちゃんが、先に言うてくれたから」
舜太は答えた。
「あの人、二年、抱えとって、それでも俺らに頭を下げた。……見とって思うた。隠しとるうちは、柔を守っとるつもりやった。せやけど、ほんまは、自分を守っとっただけや」
「……」
「柔に、嫌われたない。責められたない。そういう自分を」
言い終えて、舜太は深く息を吐いた。
体から力が抜けた。全部言った。もう、隠すものはなかった。
長い静けさが、あった。
舜太は、ノートPCの画面を見た。まだ、契約案が開いていた。
「……これ」
声を絞る。
「消してええか」
柔太朗は画面を見た。それから舜太を見た。
「舜の手で」
静かな声だった。
「舜が消して。……それがいい」
舜太は頷いた。
指を、キーボードの上に置いた。
削除のキーの上。あの夜と、同じ場所。あの夜は、押せなかった。指が震えて。
今夜は震えなかった。
押した。
ファイルが、画面から消えた。
ゴミ箱を開く。完全に削除する。確認のダイアログが出る。
『本当に、削除しますか』
はい。
消えた。
それから、「非公開」のフォルダを選ぶ。空になった、その名前。それも、削除した。
画面から、「非公開」がなくなった。
共有のフォルダだけが残った。契約。財務。人事。全部、誰にでも開かれた場所。
舜太は、ノートPCを静かに閉じた。
「柔」
舜太は呼んだ。
「うん」
「俺のそばに、おってくれ、とは言わん」
言葉を選んだ。ゆっくりと。
「言うたら、また、閉じ込めることになる。頼みの形をした、檻や。だから言わん」
柔太朗は、黙って聞いていた。
「聞くだけや」
舜太は続けた。
「柔は、どうしたい。どこで、何を作って、誰と、生きたい。パリに行くんも、ここにおるんも。共同ラインも。全部、柔が決めてくれ」
声がまた震えた。けれど、続けた。
「俺は、それを隣で見とる」
隣で。
自分の口から、その言葉が出たことに、舜太は少し驚いた。あの、ヴェルディエの役員が言った言葉だった。隣で、仕事がしたいのだと。
「もし」
舜太は続けた。
「もし、柔が、俺の隣を選んでくれるんやったら」
声が、掠れた。
「それが、俺のいちばんの望みや。……せやけど」
舜太は、柔太朗の目を見た。
「選ばんでもええ。選ばんでも、俺は柔を世界に見せる。それが最初の約束やった。見つけた人間の責任や」
言い切った。
膝の上で、握りしめていた両手。ずっと、白くなるほど握っていた両手。
舜太は、それを開いた。
手のひらを上にして。柔太朗の前に、差し出すでもなく。ただ、膝の上に置いた。
何も握っていなかった。
空の両手だった。
アトリエのスタンドライトが、その手のひらを、静かに照らしていた。
コメント
1件
うわ、第28話……読んだ。 まず、仁人が背中をまっすぐにして話した翌日に、舜太が同じように封筒を置く流れ、静かにエグかったわ。 「俺が、欲しかったんは、才能やのうて、柔や」——ここ、声出そうになった。 ずっと「見せたい」と「閉じ込めたい」の間で震えてたんだな、舜太。 最後に「非公開」フォルダごと削除して、空の手を差し出したシーン、全部許したくなるような余白があった。 るりさんの文体、沈黙と間合いの描き方がほんとに上手い。次、どう転ぶか楽しみやわ🔥