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――一年後の夏。 私は、再びこの町に来ていた。
駅に降り立った瞬間、潮の匂いと、少し湿った熱気が肌にまとわりつく。
去年と同じ風景。けれど、胸の奥にある空白が、その景色をどこか薄くしていた。
祖母の家に荷物を置くと、何も言わずに海へ向かう。
アスファルトの道には去年と同じように夏草が伸び、蝉の声が耳を包む。
けれど、その声の奥に混じっているはずの笑い声は、もう聞こえない。
堤防を越えた瞬間、眩しい夕陽が視界を満たした。
オレンジ色の海。
ゆるやかに寄せては返す波。
去年とまったく同じ光景なのに、そこにいるべき人だけがいない。
波打ち際に足を踏み入れると、足首を冷たい水が撫でた。
潮の香りが強くなる。
無意識に、去年のあの日と同じ位置に立っていた。
ここで、彼女と並んで波を見た。
ここで、浴衣姿の彼女が花火を見上げた。
ここで――「また来年」と、笑った。
ポケットから、小さな風鈴を取り出す。
透明なガラスに、青い朝顔が描かれている。
去年の花火大会の帰り道、彼女がふざけるように渡してくれたものだ。
「来年も来るなら、これあげる。風鈴の音で私を思い出して」
その言葉が、冗談じゃなかったと今ならわかる。
潮風が吹き抜け、風鈴がかすかに鳴る。
その音は、まるで彼女が笑っているみたいだった。
私は波の方を見つめる。
ふと、白いワンピースの裾が揺れる幻が見えた。
肩までの髪が光を受け、あの夏と同じ色をしている。
けれど瞬きをしたら、もうそこには誰もいなかった。
目を閉じる。
海の音と、蝉の声と、風鈴の音が溶け合い、去年の夏へ引き戻される。
花火の匂い。
海辺で交わした他愛ない会話。
「来年も」と笑う声。
全部が、鮮明すぎて痛い。
「……また来るよ」
波音にかき消されそうな声で呟く。
その約束は、今度は私ひとりで守り続ける。
たとえ彼女がこの海にいなくても――
この場所に来れば、きっとまた会える気がするから。