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「これ洗っておいて」渡されたシャツにリップが掠れるようについていた。それを受け取って、私はシャツと目の前の男の顔を見比べて溜め息をつく。『このシャツ、お高いのに…』あーあ、これ取れるのかしら。なんて呟きながら洗濯機のある廊下へ向かおうとすれば、そんな私の肩を大きな手が掴んで無理矢理振り向かせた。そこには今日も麗しきお顔立ちの、私の旦那様が立っている。
彼は藤色のおっとりとした垂れ目を不可解そうに細め、筋の通った鼻をツンとさせて私を見下ろし薄い唇を開いた。「…お前、言うことはそれだけなの?」
『だって、高いんですよ、これ』
「んなことどうでもいーの。お前の目は節穴かぁ?この口紅が見えねぇの」いつもはそこまで言及してこないのに、ついに我慢ならなくなったらしく、蘭さんは不愉快そうに垂れ気味の眉をひそめて私に尋ねてくる。『見えてますけど』
「何も思わねえの」
『だから高いのにって言ってるじゃないですか。落ち込んでますよ』
「それ以外に言うことは」
『特にありませんが』私はシャツを抱きかかえ直し、肩に置かれた蘭さんの美術品のように美しいお手手をそっと払い除けた。『それより、香水臭いのでお風呂に入ってもらってもいいですか?』鼻をつまみながら言えば、蘭さんはぽかんとした。
そんな彼を取り残し、廊下へ向かう。廊下へ出て扉を開ければ洗濯機だけのスペースがある。私が大学時代に一人暮らしをしていたアパートはベランダに洗濯機をおいていたというのに。
贅沢な暮らしになったものだな、と感慨深く思う。鼻歌をくちずさみながら洗剤を入れる私は、リビングに取り残された蘭さんがガシガシと頭を掻いて溜め息をついていることは知らない。
「……確かにこの香水、臭ぇな…」
誰だよあの女、と先程まで自分が絡んでいたはずの女に悪態をつきながら脱衣所へ向かう。
こんな私たちを見てきっと誰もが「どういう関係?」と思うかもしれないが、私たちは立派な新婚夫婦である。
まあ、新婚とは言ってももう半年程すぎてしまっているし、挙式は挙げていないし新婚旅行だって行っていない。私と旦那様である灰谷蘭さんは所謂政略結婚というやつで、ヤのつく職業をしているうちの両親と、梵天だか盆栽だかの首領・相談役の利害が一致した為に私は彼に嫁ぐことになってしまった。
その利害関係がいつまで続くのかは知らないが、きっと長くは持たないだろうと思っている。
だから大学卒業早々アラサーの反社と結婚させられたかわいそうな私は、この生活をそんなに重くは捉えていなかった。
戸籍に×がつくのは少々悲しいが今の時代そんなに珍しいことではないし、彼も彼で自分のやりたいように過ごして楽しんでいるみたいだ。最初会った時は、まるで花が咲いたように華やかで美しい蘭さんの外見に驚かせられたものだが、毎日あんなふうに女の人と遊んで帰ってくるんじゃそんなものもどうでもよくなる。
…ああやって時折意味のわからない絡み方をしてくるのが少々不可解であり、鬱陶しいけれど、まあもしかしたらハイになれる方のお薬でもやっているのかもしれない。蘭さん側の意向で私は仕事をさせてもらえないため、さすがに何もしないと肩身が狭すぎるので最低限の家事は行っているが、逆に言えば必要以上に奉仕するつもりもなかった。端的に言えば、私は彼に特に興味がなかった。
「飯はぁ?」なので、結婚初日、24時を回る頃に帰宅した蘭さんが尋ねてきた時は殺意が湧いたものだ。
今何時だと思ってんだ、私は今から寝るところなんだよ邪魔すんな、と。『ありませんけど』
「え、なんで」
『作ってなんて言われてませんし。そもそも私たち政略結婚じゃないですか。そこまで干渉する必要あります?』答えた私に、蘭さんはそのとろりと垂れた目をぱちりと瞬き丸くした。
綺麗に後ろへ流しセットされた淡い紫の前髪が、美しいかんばせにはらりと落ちる。黙っていれば、本当にうっとりしてしまうほどの造形美だと思う。「え〜俺腹減ってんだけど」
『はあ、仕方ないですね…』
「お。作ってくれんの?」嬉しそうに破顔してほっそりと長い指でネクタイを緩めた蘭さんの前に、私はドン!とお湯を入れたカップ麺を置いた。『これは本当に申し訳ないんですけど、私、料理できないので』
「……」大学時代をバイト先のまかないで生き抜いた女の生活能力を舐めないでほしい。
それから、蘭さんはことあるごとに私に絡んでくるようになった。夫婦だから、と気遣ってかまっているようでもないし、まず彼にそんな優しい感情があるのかすらもわからない。
とにかく女関係の匂わせがすごい。私が彼のことを好きだったら今頃メンタルブレイクしていたことだろう。
「なぁ、風呂入ったぜ」口紅がついた部分を手洗いし、洗濯を終えたシャツをベランダに干していれば後ろから石鹸の匂いをさせた蘭さんに抱き締められた。
私より頭ひとつ分以上背の高い蘭さんが、私の頭の上に顎を乗せる。『石鹸のいい匂いがして安心します』
「俺に抱き締められて安心するってぇ?いやあ、照れるなあ」
『耳鼻科行った方がいいんじゃないですか?』
「お望みならいくらでも抱き締めてあげるよ」
『働きすぎで幻聴が聞こえてるんですかね、労災申請しますか?』ベランダに洗濯物を干し終えてリビングに戻れば、このアラサー反社は大の大人のくせして私にひっつきまわってくる。
一見ほっそりしているように見えて意外と骨格がちゃんと男なので、まとわりつかれるとそれなりに疲れるからやめてほしい。「あ〜…今日も疲れたぁ」
『おやすみなさい』
「は?寝ろってことかよ」
『寝たい的なこと言ったの自分じゃないですか。もうボケてきたんですか?』意外と早かったな、やっぱり命を削る仕事しているとそれだけ精神の老化も早いのだろうか。
首を傾げた私の髪に、蘭さんがちゅ、とキスをした。長い睫毛に彩られた目が伏せられると、女の私よりもずっと色気がある。その時、蘭さんのスマホが鳴った。「あ、××ちゃんから電話だ」スマホを見て軽薄な声で言ってから、雫が滴る髪を下ろした状態の蘭さんが私をちらりと見る。『…さすがに節操がなさすぎでは?』私はそんな彼に珍しくきちんと軽蔑の目を向けてあげてから、自分の寝室に向かった。
リビングのドアをぱたん、と閉める。
取り残された蘭さんは突っ立ったままスマホを切って、ソファに投げる。こめかみを押さえて俯いて、「年下相手にここまで必死なアラサー野郎、どうなのよ…」と自分に呆れたように呟くけれど、すでにすやすや夢の中に飛び込もうとしている私が知る由もない。
蘭さんは結婚しようが俺の下半身はそんなもんに縛られたりしねえぜ!とばかりに遊びまわっているけれど、絶対に毎日きちんと帰ってくる。
どれだけ遅くなろうが帰ってきて、絶対に一度は私の顔を覗きにくる。別に外で泊まってくればいいのに、と思うけれど、まあもしかしたら彼なりの政略結婚相手への気遣いなのかもしれない。だけど、その日は時計の針が夜中の3時を指しても蘭さんは帰ってこなかった。別に帰ってこなくてもいいけれど、毎日きちんと帰ってくるせいで帰ってこないとなると気になってしまう。
仕事も仕事だし、もしかして死んだのかな。じゃあ私のこの優雅な専業主婦生活はどうなってしまうのか。なんて今後の身の振り方について悩んでいれば、玄関のドアが開けられる音がした。
念のためソファから立ち上がって、様子を見に行けば細くて長い首をだらりと気怠げに項垂れ玄関のドアを閉めたところだった蘭さんがいた。『遅かったですね、』とてつもなくだるそうなので思わず歩み寄った瞬間、蘭さんがどさりとこちらにもたれかかってきた。細身ではあるが身長が高い彼にもたれかかられて支えられるわけもなく、私は彼を抱きとめたまま一緒に床に転がった。
尻餅をついたせいで、私のいたいけな可愛いお尻が悲鳴をあげる。『蘭さん…?』ぐったりと私にもたれかかった蘭さんは、ゆるりと顔をあげた。
今にも涙がこぼれ落ちそうなほど潤んだ目はとろけていて、いつも白い顔は少し血色がいい。熱っぽい藤色の目に見つめられて、私は瞬きをした。『…酒くっさ』私が盛大に顔をしかめて呟けば、蘭さんはとろんと微笑んだ。「ただいまぁ」
『はあ…おかえりなさい』
「わざわざお出迎えしてくれるなんて俺の奥さんはかわいーなぁ」
『うわ、こわ。今までそんなの言ったことなかったじゃないですか』
「いつも思ってるっつーの」酒臭い三十路をなんとか引きずって、彼の寝室へと連れていってあげる。
さすがにお風呂に入らせたり着替えさせたりするほどの元気は私にはなかった。「俺の奥さん」蘭さんはずっとそんなことをうわごとのように言って私にぎゅっと抱きついてくる。『ほら、ベッドまできましたよ。さっさと寝てください』
「一緒にねようぜ」
『冗談言ってないでさっさと寝ろ。アラサーなんだから明日に響きますよ』
「そこまでオッサンじゃねぇよ」蘭さんが手を離してくれないので傍に座って、ふかふかのベッドに倒れ込み微睡んでいる蘭さんを見下ろす。
彼は甘ったるい表情のまま、握った私のてのひらに自分の頬を寄せた。酔っているというのに、滑らかな肌はひんやりとしている。「…やっぱお前がいちばんいいわ」誰と比べているのか知らないが、うっとりと呟いた蘭さんを、私は初めて可愛いだなんて思ってしまった。
三十路の男に可愛いだなんて思うのはおかしいが、本当に思ってしまったのだ。まあ、気の迷いだろうけれど。「よしよしして」
『キャラ崩壊してません?』
「俺ってばもともとかわいいキャラだからぁ」
『抜かせ』まあ、なんだか今日はとても酔っ払っているし、可愛らしいし、しおらしさもある。
いつもの女たらしの旦那様とは、少し違う。『…今日だけですよ』私は溜め息をついて、蘭さんの絹みたいに柔らかい髪をそっと撫でた。『よしよし』
「…たまにはこういうのも悪くねえだろ」
『調子に乗らないでください』
「はあい」蘭さんは心地よさそうに目を細めて、砂糖菓子みたいにあまったるく微笑んで私を心底愛おしそうに見つめていた。この人はいつも私に絡んでくるよくわからない政略結婚相手だが、まあ、たまにはこういうのもいいだろうと思う。本当にたまには、だけど。
おわり
【余談】「そのまま下半身もよしよしして、」
『永眠したいんですか?』
「…冗談だってぇ」