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夏でも雪が残る頂を車窓から眺めながら愛車を走らせる彼の脳裏では、未だに色褪せない遠い昔がスライドショーのように流れ去っていた。
毎年変わらず行われる彼が暮らす街での最大の祭りの季節は彼にとっては忌まわしい事件に巻き込まれた時期でもあるのだが、この時期になると街から遠く離れた南にあるこの小さな村にやって来ていた為、今年もあの時と同じようにどんよりと曇る空の下を走って町はずれまでやって来ると愛車を休ませる。
愛車を止めたのはこの村では一般的な規模の住宅横で、庭で作業をしていた初老の男が彼の車がやってきた事に気付いて家の中に戻り、再び姿を見せた時には妻を伴っていた。
「────ウーヴェ様」
「・・・ヘクター、ハンナ、元気そうで良かった」
「ウーヴェ様、少し家でお休みになって下さい」
この空模様だと一雨来るかも知れないと手を取られて家に招かれ、長年ここに住んでいるこの老夫婦の言葉に頷いて荷物を車から降ろし、居心地の良さそうな家に足を踏み入れると、再会を喜びながらも何か複雑な思いを抱えている事を示す表情を浮かべる二人に目を細める。
外見は古びているがそれでも家の中は人が暮らす暖かさに溢れていて、暖炉の前のゆったりと座れる椅子を示されて首を振り、窓際に置かれた古いソファに腰を下ろして深く溜息を吐く。
実家で長年勤めていた夫婦がこの村に帰る為に暇を取る事を知り、それならば年に一度の訪問時に家に逗留させてくれと頼み込んだのはいつだっただろうか。
気心の知れたヘクター夫妻が温まるハーブティを出してくれた為、礼を言ってそれを受け取ったとき、曇っていた空が俄に黒くなり始め、遠くでは雷の音すら響き始める。
「・・・ハンナの言うとおりになったな」
「そうでございましょう?」
ぽつぽつと降り始めた雨はいつしか雨脚を強め、窓を叩き付けるように降り始めていた。
ハーブティの湯気を顎に当てながら苦笑した彼は、雨が降れば寒さを感じるからとブランケットを差し出されて有り難く受け取りながら、最近の暮らしぶりはどうだと二人に問い掛ける。
「二人暮らす分には不自由はいたしておりません」
「そうか」
「ウーヴェ様、毎月の仕送りはもう結構でございますよ」
夫と二人ならばこの村で何とか暮らしていけるのだからと、ハンナが手を組んで申し訳なさそうに目を伏せた為、もしも必要がないと思うのならば彼らの墓に花を供えてやって欲しいと告げて二人を沈黙させてしまう。
「心配を掛けて悪いな、二人とも」
二人がここにいてくれるから安心していられるんだと穏やかに笑い、ハーブティを飲み干して深く溜息を吐く。
「ウーヴェ様」
「何だ?」
ヘクターがウーヴェの前の椅子に腰掛け、妻もその傍に座ったのを見計らい、何かを決意したように頷いてもう一度彼の名を呼ぶ。
「もう・・・そろそろよろしいのではございませんか?」
「・・・・・・・・・」
ある年から常に感じるようになっていたがここ数年特にそう感じるのだと、申し訳なさと彼に対する悲しみに彩られた目で見つめられ、その目を直視出来ずに視線を逸らしたウーヴェの耳に、穏やかながらも強い意志を感じる声が流れ込んでくる。
「ウーヴェ様は止める訳にも行かないと思われるのでしょうが・・・」
もうそろそろ心の整理をつけても良いのではないのかと、ここに来る直前に幼馴染みにも言われた事を告げられ、きつく目を閉ざす。
瞼の裏に焼き付いている同じ年頃の少年の変わり果てた姿と、同じく事件に巻き込まれて命を落とした三人の恐怖に歪んだ顔、さも楽しそうに笑いながら己の前で彼らの命を奪っていった後、逃げようとした山で足を踏み外して絶命した男の顔。
そして何よりも、最後の最後で自分を庇うように身を投げ出し、満足げに死んでいった人の顔が忘れられず、また彼らも忘れるなと常に思い出せと静かに囁きかけるのだ。
それらがまるで昨日の出来事のように浮かび上がり、唯一の生存者でありそもそもの事件の発端となった己だけがのうのうと生きていく事など到底出来る事ではないと心の声に緩く頭を左右に振る。
遠い昔に交わした約束、それが重く苦しい贖罪の旅にと彼の足を向けさせるのだ。
それが果たされるまでは止める訳にはいかないと苦笑混じりに首を左右に振り、もう決めた事だから口を出さないでくれと懇願すると、苦しめるつもりはありません、ですが見ているだけでも辛いのですと、彼を思う一心から告げられてその言葉に幼馴染みの心配そうな表情を重ね合わせて目を伏せ、どちらに対してもありがとうと小さく礼を言う。
「・・・・・・ありがとう、ヘクター、ハンナ」
ベルトランにも告げたが、事件にただ巻き込まれた彼らは今は冷たい土の下で永遠に眠っており、自分は暖かい場所でこうして生きているのだ。
その差からくる思いを己の中で完全に昇華し、また待ち望む言葉を聞かない限りはこの旅を止めることは出来なかった。
「雨が上がれば少し出掛けてくる」
「・・・分かりました。今日は冷え込みそうです。ポトフにいたしましょうか」
ウーヴェの静かだが決して変える事の出来ない思いを酌み取ったハンナが目尻に浮かぶ涙を拭った後、笑みを浮かべて身体を温めるものを食べて下さいと彼を見つめ、それは楽しみだと返されて笑みを深くする。
「もちろん、リンゴのタルトの用意も」
「本当に、それは楽しみだな」
「ウーヴェ様、お部屋の用意は出来ております。いつものお部屋をお使い下さい」
「何から何までありがとう、ヘクター、ハンナ」
この日初めて小さいながらも笑みを浮かべて暫くの間世話を焼かせるが宜しく頼むと頭を下げ、ハンナが淹れてくれたハーブティのお代わりを貰い、手作りのビスケットと一緒にそれを楽しむのだった。
ウーヴェが旧知の老夫婦の家に逗留するようになってから数日が経過した日の朝、いつものように出勤したリオンを同僚達は訝りながら見守っていた。
警察署内でも子どもじみているだのと言って年相応には見てもらえない陽気さで周囲を盛り上げたり時には困らせたりもしていたが、今朝は出勤直後から様子がおかしかった。
リオンの異変にいち早く気付いたのは、デスクが背中合わせの場所にあり、二人揃えば騒ぎ出すが、ヒンケルを除けばそれでも最も一緒にいることの多いジルベルトだった。
リオンが変だとコニーやヴェルナーらに耳打ちしたジルベルトがおはようと挨拶をし、己のデスクに腰掛けたタイミングで椅子を軋ませて振り返ってどうした相棒と笑いかける。
「別に?どうもしねぇけど?」
老眼が進めば目には見えないものまで見えるのか、そりゃすげぇと一つ手を叩いたリオンを真正面から見据えたジルベルトは、彼のトレードマークとも言えるものが消え失せている事をしっかりと読み取った為、深々と溜息を吐く。
「リオン、ヴィーズンにはいつ顔を出す?」
ジルベルトの向かい側に座るコニーがお気に入りのマグカップにコーヒーを注ぎながら問いかけると、デスクの引き出しを漁っていたリオンの肩がびくんと揺れ、それを見たジルベルトとコニーが顔を見合わせる。
「・・・馬鹿野郎が・・・」
「何だと?」
突然の文句にさすがに意味が分からずにジルベルトが声を荒げると、馬鹿に馬鹿と言って何が悪い馬鹿とリオンが返すと同時に立ち上がって出て行こうとする。
「待てよ、リオン!」
やけに今日は朝から突っ掛かってくると舌打ちをし、どうしたと周囲の疑問を黙殺したジルベルトがコニーにだけは目で合図を送り、部屋を出て行くリオンの腕を掴む。
「離せよ」
「朝っぱらから不機嫌な顔してんじゃねえぞ」
「・・・・・・生まれつきだ、文句があるなら俺も知らねぇ俺の親に言えよ」
まるで氷点下から発せられた空気のような声にジルベルトが目を瞠った後、リオンの胸ぐらを掴んで睨み付ける。
部屋の入り口付近で一触即発の空気を撒き散らしだした二人にさすがに室内にいた刑事達がざわめき出し、あちらこちらで制止の声が挙がり出すが、胸ぐらを掴まれたままリオンが鼻で嘲笑し、何がおかしいと問われて肩を竦める。
「なぁ、ジル」
「何だ?」
「俺ってさぁ・・・そーんなに信じられねぇかな?」
先程の冷笑や嘲笑が誰に向けられたものであるのかをその一言で悟ったジルベルトが端正な顔に皺を刻み、目の前の同僚の蒼い目を真っ直ぐに見つめると、リオンに最も相応しくないと周囲が思わず顔を背けそうな笑みを浮かべて自嘲するが、その時入ってきた小柄なヒンケルが室内の様子がおかしいことに気付いて眉を寄せる。
「お前らどうした?」
朝一番で何を取っ組み合っていると言い放ち、取っ組み合いの原因を作ったであろうリオンを呼びつけてガラス張りの自室に向かう。
「ほら、警部が呼んでるぞ。行ってこい!」
悄気た顔で肩を落とすリオンの背中を勢いをつけさせるように叩いたジルベルトだが、いつもならば痛いだの何だのと文句が山のように返ってくるのに今日に限っては溜息すら返ってこなかった事にくっきりと眉間に皺を刻む。
「どうしたんだ、あれ?」
「ドクとケンカでもしたのかな?」
ヒンケルの部屋に入るリオンを見送った面々は、姿が見えなくなったと同時に顔を寄せて一体どうした事だと囁き合う。
コニーの言葉にヴェルナーとマクシミリアンが顔を見合わせ、小さなケンカなら頻繁にしているし、いつもの様子からリオンがウーヴェを怒らせている事は間違いない為、ケンカではないだろうと結論付ける。
「・・・仕事が終われば飲みに行くか」
顔を合わせれば文句を言い合う仲のジルベルトとリオンだが、仕事では手を組むことも多いため、ここは一つジルベルトに任せようと皆が頷き、一任された自他共に認める男前は大きく頷いて皆を安堵させるのだった。
「さっきフラウ・オルガから電話があったぞ」
「・・・っ!」
ヒンケルのデスクの前に回転椅子を持ってきたリオンは、腰を下ろすと同時に告げられた言葉に身体を揺らしてしまい、あろう事かそのまま椅子から転がり落ちてしまう。
「ぃてぇ!」
「クリニックを休診しているそうだな」
彼女も何度も声を詰まらせながら説明していたが、ヴィーズンの開催を間近に控えた日から当分の間クリニックを休診するそうだなと告げられ、何とか椅子によじ登ったリオンが肩を落として頭を力無く上下に揺らす。
あの日クリニックで二人が悲しそうな気配を滲ませて顔を合わせていたが、その時にきっと休診する事情をオルガも知ったのだろうと思い出すと、恋人の様子がおかしかった事も思い出してしまう。
オルガが使うデスクを愛おしむように何度も撫で、自分を見て笑う顔もどこか寂しそうだったのだが、リオンが決定的に違和感を抱いたのはヴィーズンに出掛けようと誘った時、苦笑しつつ眼鏡のフレームを撫でた時だった。
それは彼が自分の思いを誤魔化している時、または曖昧にしてしまいたいと考えている時に必ずフレームを撫でたり眼鏡を押し上げたりするのだ。
ウーヴェはおそらく気付いていないが、それは彼の癖だった。
リオンはその癖を見抜いていた為に家で思いを吐露させようとしたのだが、彼から流れ出したのは過去に脅え震える声とじわりと浮かんだ涙だった。
気付いていたが結果的にはただ手を拱いてしまった己が不甲斐なく、目の前のデスクを思いきり拳で殴りつけたリオンをヒンケルはただ静かに見守っていた。
「・・・・・・くそったれ・・・っ!」
気付いていたしもっと上手く思いを引き出すことが出来ていればあんな顔をさせることも、また子供のように許しを請いながら涙を流させる事も無かっただろうと、次から次へと後悔だけが胸の中で溢れ、本当に自分はガキでどうしようもないときつく目を閉じ、悔しさを隠さないでもう一度デスクを殴る。
「もう良いか、リオン」
「・・・すみませんでした」
気が済んだかと冷静に問われ、ここがどこであるのかを思い出したリオンが背筋を伸ばして謝罪をし、気分を切り替えるように顔を叩いてヒンケルを見れば、厳つい顔に微かに安堵の色と全幅の信頼を置いている色を浮かべて頷かれ、リオンも思い出したように頷いて唇の両端を持ち上げる。
恋人が何の理由も告げずに音信不通になってしまった事に対しての感情は整理できないほど存在したが、自分が今いるのは警察署で仕事に私情を挟むべきではないことも思い出すと、あからさまにヒンケルが目元を和らげて資料を出してくる。
「ドクがこの間提出してくれた意見書を他の医者にも見せた。その結果だ」
「ヤー」
ステープラーで留められた書類を捲りながら上の空で返事をし、これからは医者の助言が必要なときはどうすれば良いのだろうと思案するが、この先ずっと休診する訳じゃないとつい呟いてしまえば、そんな事は今更言うまでもないだろうと呆れたような声に書類から目を上げる。
「大人しいし控え目だが自らの意志を持たない訳じゃない。あの手の人間は外に出さないだけで確固たる己を持っている。お前もそれに気付いているだろう?」
頬杖をつきながら溜息交じりに呟くヒンケルに呆然と目を瞠ったリオンは、言われてみれば確かにそうだと納得すると同時、見かけによらない頑固さと意志の強固さを持つウーヴェの深い碧の双眸を思い出す。
音信不通になった恋人に対する思いが昇華できずに苛々していたが、付き合い出してからの日々を振り返れば、穏やかな顔で笑いながらもしっかりと頭の天辺から足の裏まで真っ直ぐに何かが通ったような言動をしていた事も思い出す。
だがそれと同時に、そんな強い意志を持つ恋人をあんな風に変えてしまう過去の出来事が脳味噌でしっかりと爪を立てて引っかかってしまい、一体何があったんだと拳を口元に宛がう。
先日、リオンが育った孤児院で幼い頃から何くれと無く面倒を見ていたシスターの事で口論となったとき、リオンとは違い自分は金とドラッグのせいで何人もの命を奪った事を示唆するように囁かれたが、その時不意に己の愚かさに呆れてしまうような事に気付き、ぽかんと口を開けてしまう。
「・・・ボスって20年ぐらい前にはもうここに配属されてましたっけ?」
書類を丸めて拳を握るリオンの唐突な問い掛けに今度はヒンケルがぽかんと口を開けるが、20年前と言えばもうここにいたと返すと、くすんだ金髪に手を突っ込んでガリガリと掻きむしり出す。
「あー、くそっ!どうしてもっと早く思い浮かばなかったんだよ!」
「お前は本当に面白い男だな。一体どうしたというんだ」
「20年から25年前、ドラッグの絡んだ強殺か誘拐事件が無かったですか!?」
「20年前・・・?」
「そう!10歳くらいの男の子が絡んだ事件です」
早く思い出せ、今すぐ思い出せとデスクをがたがたと揺さ振ったリオンに、そんなに騒々しくされると思い出せるものも思い出せなくなるだろうと怒鳴ったヒンケルは、一瞬だけ静かになった部下を見つめるが、何かを思い出したらしい表情で首を傾げる。
「だがな、ドラッグの絡んだ殺人など珍しくないぞ」
「でも、誘拐は少ないでしょ!?」
「誘拐なぁ・・・ああ、確か金持ちの子供が誘拐されたのならあったような気がするな」
「ビンゴ!」
その事件の詳細も思い出してくれと、今にもヒンケルを掴みかからんばかりに身を乗り出すが、資料ならばデジタル化してあるはずだが仕事とは関係のない事件の資料を閲覧するのはどうかと思うとヒンケルが慎重な意見を口に出した直後、休暇をくれと叫ばれて素っ頓狂な声を挙げる。
「犬猫の手でも借りたい程なのに休暇をやれる筈が無いだろうが!」
少しは考えろ、バカ者と雷を落とされて亀のように首を竦めたリオンだったが、見出された一筋の光明に縋り付くような思いに囚われ、それならば仕事の合間を縫って資料を探し出してやると、まるで古文書に記された宝を探す探検家のように目を光らせる。
「後一つ、その事件で死者は出ました?」
「死者・・・?ああ、確か・・・・・・」
ヒンケルが遠い昔を思い出す為に上空を睨み、死者がいれば間違い無く恋人のトラウマを形成した事件だと内心で叫ぶが、ぽつりと呟かれた言葉の意味を理解した瞬間、ただ呆然とヒンケルを見つめてしまう。
「子供が1人と犯人を含めた大人が全員死んだはずだ」
「全員・・・!?」
「そうだそうだ。生き残ったのは発端の事件で誘拐された子供だけだ」
長年刑事をやっているヒンケルが人数に関しては曖昧な事を言う事実につい戦慄を覚えて身体を震わせる。
誘拐事件に絡んでの総数は不明だが、ただ一人を除いて皆が死亡するなど、そんな大惨事-もしくは警察の大失態とも言える事件をどうして今まで知ることがなかったのかと、己の迂闊さに額を押さえたリオンだったが、解決した後は上層部も口うるさいメディアでさえも沈黙してしまった為にあまり記憶にないとも教えられ、納得すると同時に目を瞠って身体を竦める。
己の考えが間違いでなければ、胸を締め付けるような声で名を呼んだ後に姿を消してしまった恋人は10歳の頃に人が大量に死ぬ凄惨な事件に巻き込まれていた事になる。
もしもその通りだとすれば、夢に魘されて飛び起きてクローゼットの片隅で小さく丸まりながら震える理由も、何よりも涙を浮かべながら許しを請う理由も何となく察しが付いた。
自らの考えで辿り着いた仮説だったが、間違っている気がしなかったリオンは力なく椅子に座り込んで頭を抱えるように身体を折って歯を噛みしめる。
誘拐され人の命が奪われた時、もしもその場に彼が居合わせたのだとすればどうなるだろうかとぼんやりと思いついたが、そんな事は火を見るよりも明らかで、先日の夜その結果を見せつけられたのだと気付いてぎりぎりと歯噛みする。
過去を教えてくれと子供のように強請り、教えて貰えないと拗ねて感情を爆発させたリオンだったが、苦しそうに顔を歪めながらすまないと謝罪をしながらどうしても教えて貰えなかった事もあった。
最愛の彼はそんな過去を独り胸の中に閉じ込めて生きてきたが、何の事情も知らないとは言え過去の凄惨な事件について話せと迫ったとき、あの静かな穏やかな顔の下ではどれ程の苦痛が渦巻いていたのだろうか。
己の真底の想いを口に出そうと声を振り絞る様に口を開いても、出てくる声は震えてか細い悲鳴のような音だけだったが、過去の事件が彼の喉にも蓋をしていたのではないのか。そして己はそれを無理矢理こじ開けさせ、結果血の涙を流させてしまった。
あの夜の恋人の心に思いを馳せた瞬間、思わず叫び出しそうになって咄嗟に口を掌で覆い隠す。
「────っ・・・」
「どうした、リオン」
「────ボス、無理を承知で言います。纏まった休暇を下さい」
「だからそれは無理だと言ってるだろうが」
俯き聞き取りにくい声で告げるリオンをじろりと睨み、さっきの言葉を聞いていなかったのかと怒鳴ったヒンケルだったが、上げられた部下の顔を見た刹那、くっきりと眉間に皺を刻んで口を真一文字に結ぶ。
「お願いします」
ただそれだけと口に載せて頭を下げるリオンを無言で見つめたヒンケルは、肺の中を空にするような溜息を吐いた後、デスクを一撫でして背後の窓へと椅子を回転させる。
「皆に相談してみろ」
もう一度椅子を回転させながら苦虫を噛み潰したような顔で告げると、リオンがそれだけでも十分だと真剣な顔で小さく頷く。
「ヤー。────ボス」
「何だ」
「ありがとうございます」
常にない真剣さで一礼したリオンは、返礼の代わりに大きく頷いたヒンケルに目を細め、しっかりとした足取りで部屋を出て行く。
その背中にコニーを呼んでくれと告げたヒンケルは、リオンがしつこく問い掛けてきた事件の概要を思い出すように脳裏に描き、資料の在処をメモに書き散らすと、それをリオンに渡してくれと代わりに入ってきたコニーに手渡し、今抱えている事件の進捗状況の報告を受けるのだった。
仲間同士で良く訪れる居酒屋ではなく、二人で出掛ける事の多いバーに出向いたリオンとジルベルトは、店内のモニターに映し出されるサッカーの試合を背の高いテーブルに寄り掛かるように見ていた。
「・・・で、どうするんだ?」
今朝の不可解な不機嫌さの理由をあの後洗い浚い吐かさせられたリオンは、どうするとグラスを向けるように問い掛けられて無言で肩を竦める。
黙って行ってしまった理由を知りたいとは思うが、この気持ちがもし彼の重荷になるのならば我慢しなければならないだろうし、いつか教えてくれるまで待つと何度も告げたのだ。なのにそれでもやはり彼の過去を知りたいと願う気持ちが入り混じって複雑な表情を浮かべさせてしまう。
「その前に資料を少しでも調べられたら良いが・・・ボスが目を光らせてるしなぁ」
今朝に比べればいつものリオンらしい言葉と表情にジルベルトが目を細め、残っていたビールを飲み干すとにやりと笑みを浮かべる。
「なぁ、リオン」
「ん?」
「チャンピオンズリーグをスタジアムで見たいぞ」
ジルベルトが空のグラスを片手で持ちながら指を立ててリオンを指し示し、それを受けたリオンが少しの間考え込むように目の前の明るい緑の目を見つめるが、にやりと笑みを浮かべて大きく頷く。
「チャンピオンズリーグ?」
「ああ。彼女と二人で見に行こうかな。今の彼女はサッカーが好きだからな」
「────りょーかい」
ジルベルトはヴィーズンの間の休暇をふた月も前から周囲に周知していた為、2日間の休暇を取得していたのだ。
その休暇を譲る代わりにサッカーのチケットを用意しろと言外に告げているのだとリオンは気付いて頷いた後、店員を呼び止めてそれぞれのビールを注文し、運ばれてきたそれをそっとジルベルトの前に差し出すと、軽く掲げてグラスの縁を触れ合わせる仕草をする。
「ダンケ、ジル」
「ああ」
ここでお前に恩を売っておくのも悪くないと笑うジルベルトにふふんと笑いかけたリオンは、ビールを飲み干すと同時にグラスを置き、ジルベルトの肩に腕を回して顔を寄せる。
「何だよ、どうした?」
「・・・ジル、好きだぜっ」
「────お前よりあそこにいる綺麗なお姉さんの好きが聞きたいぜ」
顔を合わせれば文句ばかりを言い合う自分達だが、もしかすると互いのことを最も理解し合っているのかも知れなかった。
そんなジルベルトに感謝の言葉をもう一度告げたリオンだが、店の奥で二人組の女性がちらちらとこちらに視線を流している事に気付き、顔を寄せあう。
「遊ぶか?」
「いいなー。久しぶりのナイスバディも捨てがたいなぁ」
でもさすがに今はそんな気分にならねぇと肩を竦めたリオンは、なら俺は遊んでくると手を挙げる同僚に感謝の思いとここでの飲み代を預け、残念そうな表情を浮かべるお姉さん達に手を振るとバーを出る。
店の外はすっかりと日も暮れていたが、一人きりになる家に帰る気が起きなかった。
行方をくらました恋人の過去に繋がる手掛かりは得たものの、心の中に引っかかる棘のような存在にも気付いていた為、気持ち的に一歩を踏み出せないまま歩き出す。
黙っていることはあっても嘘だけは吐かないし、ウーヴェと交わす約束は何よりも価値のあるものだと思っているリオンは、ヒンケルから得た情報を忘れ去って恋人の言葉だけを信じて待とうとするが、それを上回る強さで事実を知りたいと思ってしまう。
約束を信じて待ち続けろと命じる心と、自ら進んで一歩を踏み出した先で恋人の手を取って笑っていたい思いの間で揺れ動く心を持て余し、ぶらぶらと歩いていると周囲の景色に違和感を覚えて立ち止まって苦笑する。
ジルベルトと飲んでいたバーはリオンのアパートの方が近い場所にあったが、なのに無意識に歩いているうちに足が向かっていたのは、今は誰もいないウーヴェの家があるアパートへ向かう道だったのだ。
己の無意識の行動に軽く目を瞠り、もうこんなにも恋人の存在が己の中で大きな居場所を得ている事に気付いて肩を竦めたリオンだったが、何故か踵を返して立ち去ることが出来ず、近くのアパートの外壁に蹌踉けるようにもたれ掛かってずるずると座り込み、それこそ無意識の行動で煙草を取り出して火を付ける。
付き合い出して一年は経過したが、ウーヴェについて知らないことばかりだった。
何故あんな広い家に独りで住んでいるのかも、どうして家族と不仲なのかも、そして過去に巻き込まれた事件とは一体何であるのかも教えて貰っていない事に改めて気付くと、ついフィルターを噛み切ってしまう程歯を噛みしめる。
自分は過去を教えて貰える信頼を得ていないのか。家族について話をして貰えるまで気を許されていないのか。
普段ならば考える事のない思いが脳裏を巡るが、心の何処かではそうではないと、何かしらの事情があって言えないだけだと反論する己も存在し、拳を作って相反する己を閉じ込める。
あの日告げたように自分はいつまで待てばいいのだろう。それに短気な己は何処まで我慢できるのだろうか。そもそも我慢できなかった為、あの日涙を浮かべるまで追い詰めてしまったのではないのか。
ぐるぐると脳内を巡る問いに答えを出す為に顔を軽く叩いた後、あの日と同じようにいつまでも悩んでいても仕方がない、これからもずっと一緒にいたいが為に過去を言えと迫った事だけは何があっても詫びたい事を伝える為に、出来るだけ早く顔を見ようと腹を括り、靴の裏で煙草をもみ消す。
せっかくヒンケルが用意してくれた資料の在所を教えるメモがあるが、あれはそっと握り潰してしまおう。
やはり恋人が自ら語ってくれるのを信じて待つ事にしよう。
取り調べで鍛えた刑事の忍耐力を舐めるなと、その決意を秘めた目で中空に思い描いたウーヴェの顔を見つめた後、一人になるのが嫌な夜は必ず訪れているホームと呼んでいる孤児院へ足を向ける。
もう寝ているかも知れないが、育ての親でもあるマザー・カタリーナに話を聞いて貰い、己の心に刺さった棘とそれに絡み付く靄を振り払う為の知恵を拝借しよう。
ポケットに手を突っ込みながら長い足を持て余し気味に運んでホームへの道を歩く。
秋の変わりやすい空模様だったが、満月に近い大きな月がぽっかりと浮かんでいて、恋人も今何処かでこの月を見ていてくれればいいと願い、必ず探し出すともう一度秘かに決意をし、最寄りのトラムの駅を見つけると、ちょうど入ってきたトラムに乗り込もうと走り出すのだった。