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特別編第十章 ~完~ 「おかえり」の意味
大学での出来事があってから、一週間が過ぎた。
結城家の朝。
「……ん。」
朝日がカーテンの隙間から差し込む。
ベッドの上では、千弥がくぅちゃんを抱きしめながら、ゆっくりと目を開けた。
「おはよぉ……。」
まだ少し眠たそうな声。
それでも、一週間前とは違う。
その声には、いつもの柔らかさが戻っていた。
コンコン。
「ちーちゃん、おはよう。」
千景が部屋へ入ってくる。
「にぃに。」
「おはよう。」
「おはよぉ。」
千景はベッドの横へ座ると、いつものように額へ手を当てた。
「熱はないね。」
「うん。」
体温。
脈。
呼吸。
顔色。
そして。
「今日は気分はどう?」
千景は一番大切な質問をした。
千弥は少し考える。
胸へ手を当てて、ゆっくり答えた。
「もやもや……。」
「うん。」
「ちょっとだけ。」
「教えてくれてありがとう。」
千景は優しく微笑んだ。
「それだけ教えてくれたら十分。」
「うん。」
もう、「大丈夫」と無理をすることはなかった。
苦しい日は苦しい。
少し楽なら少し楽。
千弥は自分の気持ちを、少しずつ言葉にできるようになっていた。
リビングでは、遥が朝食を準備していた。
「おはよう、ちーちゃん。」
「はるにぃ、おはよ。」
「今日はオムレツだよ。」
「ほんと?」
少しだけ目が輝く。
「食べられそう?」
「うん。」
「無理なら残していいからね。」
「うん。」
以前なら「全部食べなきゃ」と頑張ってしまっていた千弥。
でも今は違う。
「おなかいっぱい。」
そう言えるようになっていた。
「じゃあ今日はここまで。」
千景は笑ってお皿を下げる。
「百点。」
「えへへ。」
その笑顔を見て、遥も嬉しそうに笑った。
はむ
849
臣桜
198
のあるくん8月1日まで活動休止
41
大学。
教授は教室へ入ってきた千弥を見ると、穏やかに微笑んだ。
「結城くん、おはよう。」
「おはようございます。」
「今日は体調どう?」
「だいじょうぶです。」
少し間を置いて、千弥は続けた。
「でも。」
「もし、くるしくなったら。」
「保健室いきます。」
教授は安心したように頷いた。
「その判断でいい。」
「我慢しないこと。」
「はい。」
周りの友人たちも笑顔で迎えてくれた。
「結城くん!」
「久しぶり!」
「今日は一緒にお昼食べよう!」
「うん!」
千弥は少し照れながら笑う。
あの日の出来事は怖かった。
でも。
大学には、自分を待っていてくれる人たちがいた。
その日の講義。
以前と同じ教室。
以前と同じ席。
少しだけ胸がざわつく。
(……。)
千弥は深呼吸をした。
「だいじょうぶ。」
自分へ言い聞かせるように小さく呟く。
くぅちゃんへも小さく話しかける。
「いっしょだからね。」
講義が始まる。
途中、少しだけ不安になる時間もあった。
けれど。
以前のように一人で抱え込むことはしなかった。
保健室の先生の顔を思い出す。
病院の先生の言葉を思い出す。
そして。
千景と遥の言葉も思い出した。
『苦しくなったら教えて。』
『迎えに行くから。』
その言葉が、お守りのように心を支えてくれた。
夕方。
いつものように会社へ向かう。
受付へ入ると、社員たちが笑顔で迎えてくれる。
「ちーちゃん!」
「おかえり!」
「こんにちは。」
千弥は少し照れながら笑った。
「今日は元気そうだね。」
「うん。」
「えらい!」
受付の女性社員がそっと言う。
「無理しないでね。」
「ありがとう。」
その言葉が嬉しかった。
社長室。
「ただいま。」
「おかえり。」
千景が優しく抱きしめる。
「今日も頑張ったね。」
「うん。」
「途中で苦しくならなかった?」
千弥は正直に答える。
「ちょっとだけ。」
「うん。」
「でも。」
「深呼吸した。」
「先生にも相談できるって思った。」
「えらい。」
千景は何度も頷いた。
「本当にえらい。」
遥も頭を優しく撫でる。
「ちーちゃんは、一歩ずつ前へ進んでる。」
「焦らなくていい。」
「ゆっくりでいい。」
「僕たちはずっと一緒だから。」
千弥はくぅちゃんを抱きしめながら、二人を見上げた。
「にぃに。」
「なあに。」
「はるにぃ。」
「うん。」
「ありがとう。」
たった一言。
けれど、その言葉にはたくさんの想いが詰まっていた。
「ひとりじゃなかった。」
「うん。」
「だから。」
「がんばれた。」
千景は優しく微笑み、千弥をそっと抱き寄せる。
「頑張りすぎなくていい。」
「うん。」
「これからも苦しい日はあるかもしれない。」
「でも、そのたびに三人で乗り越えよう。」
「約束。」
遥もその言葉に頷く。
「三人でね。」
「うん!」
千弥は久しぶりに、心からの笑顔を見せた。
その笑顔を見て、千景も遥も自然と笑顔になる。
三人の笑い声が社長室へ響く。
あの日の雨は、もう止んでいた。
心の病気は、すぐに消えるものではない。
苦しい日もある。
泣きたい日もある。
何も理由が分からず、立ち止まってしまう日もある。
それでも。
「助けて。」
その一言を伝えられれば、きっと大丈夫。
帰る場所がある。
「おかえり」と迎えてくれる人がいる。
「大丈夫」と手を握ってくれる人がいる。
その温かさが、少しずつ心を前へ進ませてくれる。
今日も結城家には、優しい声が響く。
「ただいま。」
「おかえり。」
その何気ない言葉が、三人にとって何より大切な宝物だった。
特別編 第十章おわり。
特別編 完。
コメント
1件
ああ、ついに特別編が完結したんですね。「おかえり」という一言が、どれだけの重みと優しさを持っているかを、この物語は丁寧に教えてくれました。千弥が「大丈夫」と無理をするのではなく、「もやもやする」と正直に伝えられるようになったこと。そしてそれを受け止める兄たちの姿勢に、じんと来ました。気持ちのスパイラルは消えないけれど、「助けて」と言える場所があることの強さが美しかったです。お疲れ様でした。