「ヒッ!」
先ほどよりもさらに後退して、突き出された拳をギリギリのラインで避けた。
橋本としては、笹川の拳をうまくかわしたはずだったのに、ピリッとした痛みを左頬に感じた。手の甲で痛みの原因を拭ってみると、少量の鮮血がつく。
「橋本さんすげぇ! 狙ったところへ、確実に入ったと思ったのになぁ」
笹川の感嘆の声がフロアーに響いた。
「マジかよ……」
橋本の躰のあちこちから、冷たい汗が流れ落ちていくのがわかった。
(紙一重で避けるのが、精いっぱいだった。こんなのまともに食らったら、粉砕骨折ものだろ……)
「その類まれなる反射神経を買ってやる。ハイヤーの運ちゃんなんか辞めて、俺のところで働けよ。今よりも強くなれるぜ」
「お断りします。強くなった先に、何があるっていうんですか」
きっぱり断った橋本を、笹川は真剣な眼差しで見つめた。
「橋本さんは、守りたいものはないのか?」
「…………」
「中途半端な強さは、身を亡ぼすぜ。現に今、窮地に陥ってるじゃないか」
相手にこれ以上の余計な情報を与えないようにすべく、橋本は口をつぐんだままファイテングポーズをとった。
「俺に勝てる見込みはないのに、闘いを挑んでくるなんてなぁ。やっぱあれか、橋本さんの中に流れる極道の血がそうさせてるんだろ?」
「親の血なんか関係ねぇよ。これは生まれ持った気質だ。それに残念だが、勝てる見込みはゼロじゃねぇさ。10パーセントくらいはあるんじゃないのか」
(早くしないと、雅輝がここに来ちまう。その前にさっさとトンズラしないとな)
「なるほど。その10パーセントを、限りなくゼロに近づけるか」
言うや否や橋本が縮めた距離が一瞬で埋まり、目の前に笹川のアップを目視した刹那、額に頭突きを食らった。
「痛っ!」
「橋本さんが逃げる気満々だったから、ちょーっとばかり痛い目に遭ってもらった。軽い脳震盪まではいかなくても、走って逃げることが不可能になったよなぁ」
額に手を当てて首を横に振ってみたが、そんなことで痛みがなくなるわけもなく、しかも若干嫌なふらつきがあって、気持ち悪くなった。
「くそっ……痛ぇな。アンタの頭は、何でできているんだ」
「防弾ガラスくらいの強度があったりしたら、すげぇ面白いよなぁ」
頬に受けた切り傷の痛みと、頭突きからくるふらつきで顔を歪ませる橋本とは対照的な、余裕のありすぎる笹川の様子はムカつくものだった。その余裕から油断しないか、血まなこになって隙を探る。
「さぁて、ふらつく足取りで橋本さんがどこまで逃げられるか、追いかけっこしようや」
笹川は握りしめていた両拳を緩めて、てのひらが見えるように開く。
「何をするつもりなんだ?」
ノーガードを表す格好に、橋本の眉の間に自然と皺が刻まれた。
「握力自慢をしようかと思ってなぁ。日々トレーニングするのにハンドグリッパーを使っているんだが、アメリカの製品ですげぇのがあるんだ。世界で5人しか使いこなすことのできないグリッパーを、最近閉じれるようになったんだぜ」
「世界で5人……」
橋本の額から、つーっと汗が滴り落ちた。見えない恐怖で歯がガチガチ鳴りそうになり、奥歯をぐっと噛んでそれをやり過ごす。
「何でも、握力が166キロないと使えないグリッパーらしい。ちなみにネット通販で売ってる。三千円もしない商品なんだけど、橋本さんも使ってみるか?」
(確か成人男性の握力の平均って、45キロ前後だった記憶がある。コイツぁ化け物か――)
「殴られるよりも、アンタに握られたほうが痛そうだ」
「背筋と握力は、年を取っても筋力が落ちない部分だからなぁ。毎日鍛えて向上させて、落ちたところのフォローで使わないと」
笹川が瞳をすっと細めた瞬間に腰を落とし、低い体勢のまま突進してきた。まっすぐ自分に向かってくるのを想定して左に逃げたが、笹川の手がその動きを塞ぐように伸びてくる。
「チッ!」
舌打ちしながら、素早く後退したのに硬いものが踵に当たる衝撃で、そこに柱があることを察知した。
動きを封じられる前にしゃがみ込み、笹川の脇を抜ける勢いで飛び出す。背後から手が伸びてくる気配を感じつつ、できるだけ距離を取ろうと駆け出した。