コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
(ああ、クソっ! 出口が反対側なんてツイてねぇ)
「橋本さんってば、足元がふらつきながらも、見た目以上にすばしっこいのな。それだけ足腰を鍛えていたら、さぞかしアッチでもいい感じで使えるんだろ?」
捕まえられなかった両手を見つめて投げつけられる笹川の質問に煩わしさを感じ、眉間に皺を寄せてみせた。
「そんなくだらないことを訊ねるくらいなら、さっさとそこを通してくれないか。ハイヤーに乗りっぱなしで疲れてるんだよ」
「……1.5倍くらいかなぁ」
笹川が呟くように言った短いセリフがフロアーに反響して、橋本の耳に聞こえた。
「何を言ってるんだ?」
思いっきり上擦った橋本の声も、同じようにフロアーに反響する。
「俺の動きを、1.5倍の速さにしようと思ってなぁ。橋本さん、逃げきれるか?」
(悪夢を見ているんだろうか、嫌な冗談を言いやがる。ふざけるなよ……)
言い知れぬ恐怖を隠そうと口角をあげて笑いかけたら、頬に受けた傷がじくりと痛んだ。その痛みでこれが現実だと認識し、防御態勢に入るべく重心を腰に落とす。目眩が治まっているのが、せめてもの救いだった。
「へぇ橋本さん、いい面構えをしてる。惚れちまいそうだなぁ」
「あいにく恋人がいるもんでね、惚れられても困る」
肩をすくめながらやれやれとオーバーなリアクションをする橋本に、余裕な素振りをそのままにした笹川は優しく微笑む。
「それなら橋本さんがここから無傷で戻れなかった場合、その恋人とやらに俺は襲撃される恐れはあるんだろうか?」
「残念ながら、それは絶対にありえない。相手は一般人で、喧嘩をしたことのない人種だから」
すると笹川は、鋭さを含んだ三白眼を見開き、心底嬉しげな感情を頬に滲ませた。
「だったら、ますます橋本さんが守らなきゃいけねぇよな。自分ひとりの身も守れないのに、恋人も一緒に守る気でいるのか? どう考えたって無謀だろ。俺の組に入れば、その心配は解消されるぞ」
「最初に言ったろ、断るって」
唸るように返事をしたらさらに重心が下がり、靴底からぎゅっと音が鳴った。
(1.5倍速があるなら、その上もあるはずだ。わざと手を抜いて、俺の反応を楽しんでいやがる。ドSの鬼畜野郎め!)
「俺としては余程のことがない限り、一般人には自分から手を出さない主義なんだけどよ、橋本さんの本気が見られるのなら、無きにしも非ず」
言い終える前に、すごい速さで腕を伸ばした笹川から逃げようと、橋本は後退すると見せかけて、右寄りにステップを踏む。
ちょっとずつ入口に近づくためだったが、動きの意図を読んだのか、笹川の左手が忙しなく襲いかかってきた。
「ほらほら、遠慮なく攻撃してこいよ。俺はガードしてないんだぜ。打ち放題だろ」
「クソっ、出せるわけがないだろ!」
攻撃しようと、どちらかの腕でパンチしようものなら、笹川の手がそれを掴んでクラッシュする恐れがある。
獲物を狙う蛇の頭の動きに似たそれに、捕まったら最後――そんな緊張感を抱えるせいで、いつもより動きが鈍くなり、逃げることに精一杯な状態だった。
「陽さーん、大丈夫ですか?」
それは奥にある柱に追い込まれそうになって、左右に躰を振りながら笹川の両腕を警戒していた矢先だった。自分にかけられた声に反応して振り返ると、宮本がこちらに向かって歩いていた。
「雅輝っ、逃げろ!!」
橋本の叫び声と、笹川が脇を抜けるのが同時だった。反射的に腕を伸ばして動きを止めようとしたのに、掴み損ねた手が空を掴む。
自分に向かってきた男の存在に驚き、その場に立ち止まって固まる宮本を助けようと、橋本も笹川のあとをすぐに追った。
(首を掴まれたりしたら、一巻の終わりだ。雅輝が死んじまうだろ!)
笹川の背中を捕えるべく、右腕を伸ばしながら、左親指で床をさし示した。それを目にした宮本は頭を抱えて、素早くしゃがみ込む。
目の前でおこなわれた宮本の奇異な行動を不審に思い、靴音を鳴らしながら慌てて振り返った笹川の顔面に、遠心力で反動をつけた橋本のハイキックが炸裂する。
「ぅくっ! 危なかった、橋本さんの隠し玉はそれだったのか」
「マジかよ……」
振り返ったばかりの笹川は、明らかにノーガードだった。だからこそ確実に入ったと思ったのに、笹川の大きな左手によって、橋本の右足はガッチリ掴まれていた。
「ボクシングはボクシングでも、キックボクシングだったとは。しかもかなりの脚力だよなぁ。てのひらがじんじんしてる。蹴られたら失神ものだったぜ」
「頼みがある。俺の足をやるから、コイツには手を出さないでくれ」
笹川を蹴り上げるポーズのまま、頼み事をするのはどうかと思ったが、足を手放してくれない以上は仕方がないと考え、そのまま交渉してみた。
「おい、そこで頭抱えたまま固まってるおまえ。おまえの命は、橋本さんの足1本分しかないのか?」
「へっ!?」
笹川に訊ねられた宮本は、素っ頓狂な声を出しながらキョトンとする。
「雅輝、早く逃げろ! 俺がここを、何とかして食い止めてやるから」
「おまえが逃げたら、掴んでるこの足をへし折る……」
橋本の命令にかぶさるように告げられた言葉を聞き、背を向けて逃げかけた宮本は困惑したまま、その場で立ち竦んだ。
「よしよし、橋本さんの恋人は素直でいいコらしいなぁ。そんなおまえに質問だ、即答しろよ。じゃなきゃ足を持ってるこの手に力を入れて、目の前で音を立ててへし折るぞ」
「わかりました。なんですか?」
「そんなの答えなくていい、とっとと逃げろ!」
「逃げられませんよ。これ以上傷ついた陽さんを見たくない」
言いながら自分の頬に指を差して、切なげに微笑む。笹川のパンチで掠めた傷を指摘されたせいで、これ以上の静止ができなくなった。
「雅輝……」
「さて質問だ。橋本さんの足どころか、命も助けてやる。これを条件として、この場で俺を抱くことはできるか?」
笹川は掴んでいた橋本の足をパッと手放し、宮本にしっかりと対峙してから訊ねた。
「貴方をこの場で抱けば、陽さんは助かるんですね」
「ああ、命の保証はしてやる。約束はちゃんと守るヤクザなんでね」
「……ざけんなよ、テメェ。いい加減にしろ」
(コイツ、見える傷じゃなく、俺の心により深い傷を作るつもりで交渉するなんて卑怯だ。恋人である雅輝を相手に、卑猥な頼み事をするなんて――)