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ある日の収録の衣装合わせのとき
仁人が手にしていたのは、背中に長いファスナーが付いたシャツ
(…これ、自分で上げれないな…)
鏡に向かって何度か手を伸ばしてみるものの、指先は背中に届かず空を切る。
諦めた仁人は、振り返ることなく当たり前のように声を放つ。
「だいちーー。上げて。」
軽い口調。呼びつける感じですら自然。
「えー?吉田さん自分でしてよ」
「できねーから言ってんじゃん!」
「はいはい、もー仕方ないな〜笑 じんちゃん動かんといな?」
太智はスマホを置き、何でもないふりで立ち上がりながら言う。
背後に立った瞬間、視界いっぱいに広がる仁人のうなじ。 衣装の隙間から覗く細い背中。
思わず息を飲んだのが自分でもわかった。
(やば…近すぎやろ…。だから嫌やねん)
ファスナーをつまんだ指が震えないように、深く息を吸う。 顔を上げれば、距離的に肌が目に入ってしまう。
視線に触れたら自分の表情が終わる気がして、あえて下を向いたまま、そっとファスナーを引き上げる。
キィ…と、乾いた音が静かな楽屋に響く。
少しずつ肌が隠れていくのに、鼓動は逆に速くなる。
「…ん、ありがとう、太智。」
振り返られたら終わると思っていたのに、案の定振り返ってくる仁人。
しかも無防備な笑顔。
「助かった。脱ぐ時もよろしく頼むわ。」
太智の思考は真っ白になった。
…脱ぐ時、よろしく
……よろしく??
ってことは、また俺に任せるつもりなん?
助けを求められるのは嬉しい。
信頼されていると取れなくもない。
でも、そういう距離感なんか、ただ単に誰にでも頼むんか、佐野さんが今日は居ないからかもしらんし…
(意識して言っとんのか?それとも全く気付いとらんのか…どっちなん、仁人…。)
頭の中が沸騰しているのに声は出ない。
仁人は「じゃ、飲み物買ってくるわ」と何も知らない顔で楽屋を出ていった。
残された太智はソファに崩れ落ちる。
「むり…。今日ほんま無理や俺…。」
興奮と生殺しの板挟みで、頭のてっぺんから煙が上がりそう。
本人の前では全力で平静を装っていたのに、いざひとりになると胸の鼓動が収まらない。
背中のファスナーごときで、こんなに翻弄されるなんて思いもしなかった。
でも困ったことに──
また呼ばれたら、きっと断れない。
いや、断べきだと頭ではわかっているのに。
ファスナーひとつで崩れる自分を情けなく思いながらも、 それでも次に呼ばれる瞬間を期待してしまう自分がいた。