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窓も無ければ時計も無い部屋に長い間押し込めていれば、時間の感覚はすぐに無くなる。棺は気にした事は無いのでどうでも良いが、長い間慣れて来た人間にとっては居心地は随分悪いだろう。今が何時なのか、朝なのか昼なのか夜なのか分からないというのは結構なストレスに違いない。それを与えるのが目的なので別に構わないのだが。
この部屋には棺が使うだけの椅子とサイドテーブル、それから天蓋付きの大きなベッドがある。棺自身寝転んだ事は無いし彼もよく眠れている様子は無いので分からないが、天蓋付きの大きなベッドの寝心地は良いものの筈だ。そういうものを選んだのだから。毎日ふかふかにしている布団の真ん中で、魔男は膝を抱えて項垂れていた。その手首と足首には枷があり、鎖がベッドの柵から繋がっている。この上から降りる事は決して出来ない長さだ。
「おはようございます、イチ」
今が朝なのかどうかは知らない。なんならさっき様子を見に来た時は「こんにちは」と言ってみたし。イチはゆっくりと顔を上げる。棺は持って来た食事をテーブルに置いて椅子に腰を下ろした。今回の食事はパンとスープだけだ。これくらいの食事でも今のイチには充分になっていた。一口分千切ったパンを口に運んでやる。抵抗する事は無駄だととっくに覚えているイチは大人しく口を開けて咀嚼した。雛鳥に餌を与える親鳥の気分だった。
ここに魔男のイチを連れて攫って来て確か、もう三ヶ月になる。多分。実際はもう少し短いか長いかもしれないが、棺にとってはどうでも良かった。何にしろイチはこうして衰弱しているし魔女達も混乱しているので。必死に魔男を捜索している彼女達の姿の滑稽な事といったら!
そもそも、棺がこうしてイチを攫った理由。それは主たる反世界の魔法の為だった。イチは既に幾度か反世界と対峙している。その度に反世界が、そう、楽しそうである事に棺は気が付いた。反世界があんなにも楽しそうな所を見た事は無い。反世界はどうやらあの魔男を気に入っているらしい、と、その結論に思い至り。棺はある事を思い付いた。あの魔男をこちら側に引き入れてしまえば良いのではないか、と。そうすれば反世界様も喜びになられるし、何よりも反世界の魔法を習得される事も無くなる。あの忌々しい予言の内容も変わるのではなかろうか。そうと決まれば、と、棺は準備を始めた。反世界に許可を得て(好きにしろ、とだけ言ってくださった)空間を作って、如何にしてイチをこちら側に引き入れるかを考えて。今から多分三ヶ月ほど前に、イチを攫う事に成功したのだった。大人しく着いて来てくださるなら貴方の仲間達には何もしないと言えば着いて来たのだから、簡単なものだ。
イチは警戒を決して解かなかったが、攻撃もして来なかった。棺がイチに攻撃をする気も無ければ敵意も無く、殺意も無かったからだろう。それらを向けられていないのに一方的に攻撃をするのは彼の中にある決まりに反する。他に人間が居れば無意識に殺したいなぁ消したいなぁと思うだろうが、イチだけならばそうは思わない。何せ反世界のお気に入りなのだから。律儀なものだ、反人類魔法なのだから問答無用で殴っても構わないだろうに。攻撃された所で己が負ける訳も無いのだから。
用意した部屋──ベッドとサイドテーブル、椅子しか無い部屋に案内した時、イチは「こいつは何をしたいのだろう」という目で見て来た。さぁどうぞと中へ入る様促しても入ろうとはしなかった。まぁ当然かと思いながら、棺はそこで初めてイチを攻撃した。とはいえ中に入る様突き飛ばしただけだが。イチは檻蜘蛛の魔法を使い棺を拘束しようとしたらしいが、呆気なく反対に捉えられた。棺に魔法を使っても無駄だと分かったらしい。ぎ、と睨んでくるイチに用意した睡眠薬を使って眠らせて、ベッドに寝かせて、手と足を枷で拘束した。棺は満足して頷き、目が覚めるまで待っていた。
イチが目を覚ましたのは一日後だった。それなりに強いものを使ったからかもしれない。何が目的だと問うて来たイチに、棺はにっこりと笑って。
「貴方に我々の仲間になって頂きたいのですよ」
「断る」
すっぱりと断られたが予想通りだ。ここで断られようが最後には頷いてもらうのだから。棺は魔法を使われない様イチの口に布を噛ませてから出て行った。次に部屋に入ったのは食事を持って行った時だ。イチはどうにか枷を外そうとしていたのか、手首と足首に擦れた痕が残っていた。
「さぁ、口を開けてください」
「……自分で食べられるが」
「拘束されているのに?」
「外せば良い」
「外すとでも?」
「…………」
「ああ、おかしな物など入っていませんから、安心してくださいね。別に食べなくとも構いませんが……人間というものは、食べなければ死ぬのでは?」
イチはその言葉を聞いてぎゅっと眉を寄せた。そして数分悩んだ末に恐る恐る口を開けた。長い時間を掛けて食事を終えたイチに「また来ますね」と笑いかけて、棺は部屋を出た。
それからは、ずっと同じ事の繰り返しだった。ただ食事を運んで、時折鎖だけ外して排泄と入浴を手伝い、またベッドに戻す。イチには何もさせなかった。貴方はそこに居れば良いのだと、何もしなくて良いのだと言い聞かせて、ただただ優しく接し続けた。敵意も無く、殺意も無い相手から、傷付けられる事も無ければ毎日食事も与えられている。そんな状況に、イチは微かに混乱していた。困惑もしていた。それでもここから逃げなければならない事は分かってはいる様で、必死に枷を外そうとしていた。擦れた痕から血が出て、爪も歪に割れてなんとも痛そうだった。いつもの様に食事を終えた後に棺はその手を取って優しく微笑んだ。
「こんなに割れて……痛いでしょう。後で整えて差し上げますからね」
「……どうして」
「はい?」
「そんな事、しなくても」
「私は貴方を傷付けたい訳ではありませんからね。ああ、手と足も、包帯を巻きましょうか。枷も新しい物を用意しますから」
イチの答えを聞くより先に普段通り布を口に噛ませて、そっと頭を撫でる。棺はそれからすぐに新しい枷を用意した。肌に触れる部分が綿になっている物だ。治療の魔法は使えない為、道具を持って部屋に行く。イチの手錠と足枷を外して、薬と包帯を取り出して。どん、と突き飛ばされた。まぁそうなるか、と、棺は大人しく倒れ込む。久方ぶりに自由になったイチは、ベッドから降りて走り出そうとして。すぐに転んでしまった。イチ自身も混乱している様だった。棺が何かをした訳では無い、何も無い場所で足を縺れさせてイチは転んだのだから。
「大丈夫ですか、イチ」
手を差し出す。イチは呆然としている。棺は笑みが溢れるのを抑えながら冷静に語りかけた。
「ああ、そうそう。貴方がここに来てから、もう二ヶ月は経っているんですよ」
「……にかげつ、」
「さぁ、無理はしないで。痛かったでしょう? 擦れた痕も、今、痛んでいるでしょうし。私が起こしてあげますからね」
イチの体を横抱きにしてベッドに戻す。顔色が随分悪くなってしまったイチを横目に、棺は手と足の治療をして、包帯を巻いて、上から枷を嵌めた。
当然その度合いにもよるけれど、人間、一週間筋肉を動かさずにいると筋力の10%〜15%は失われてしまうのだという。イチはベッドの上で出来る事こそしていたが、二ヶ月間歩いていなかった事には間違いない。動かずにいた分空腹も少ない、棺が少しずつ少しずつ食事量を減らしている事に、彼は気付いていただろうか。そうしてゆっくりと筋力も体力も減って行ったイチが、突然走れる訳も歩ける訳も無い。ついでに言えば、失ったら筋力が元に戻るには4倍もの時間が掛かるのだという。人間とはなんて脆弱なのだろう、と棺はこの事を知った時に哀れに思ったものだ。己の身体がどうなっているのか理解したイチは更に顔色を悪くして、は、は、と息を荒くし始めた。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
何も大丈夫では無いのに、棺はそう言いながらイチを抱きしめてそっと背中を撫でさすった。イチは棺の体を押し返して来るが、その力も随分と弱くなっていた。イチの口が開き、恐らく魔法を使おうとして。無駄な事を思い出したのか、すぐに口が閉じて。棺の体から手を離した。力無く項垂れて、ぅ、ぁ、と言葉にならない呻き声が漏れている。その目からぼろ、と落ちるものがあった。棺は大丈夫だと繰り返しながら、ただ優しく、頭を撫でていた。
次の日から、イチは大人しくなった。これまでも充分大人しかったが、確かに感じていた、ここから出ようとする意思が無くなっていた。それで良い、と思った。棺は甲斐甲斐しく世話を焼いた。抵抗の意思も無い様だし、もうそろそろ反世界の元へ連れて行こうかと考えて。まだ最後の一押しが必要だと、棺は知った。最初の頃と比べて少なくなった食事を終え、眠っているイチの顔を見つめている時だった。イチは穏やかな寝顔で、こんな場所にいて精神も弱っているだろうに、こんな寝顔が出来るのだなぁと感心していた時。イチの口からこぼれた名前があった。現代最強魔女と名乗っていた女の名前。友だと言っていた少女と男の名前。それらをぽろぽろとこぼして、イチは穏やかに眠っていた。ああ、まだだ、と棺は知った。あと一押し、彼の心を壊さなければならない。
「そういえば、貴方がここに来てもう三ヶ月ですね」
イチは何も言わずに棺を見た。棺はパンをまた千切って口に持っていく。
「早いものですね。……ですが、人間にとっての三ヶ月は、それなりに長いのでは?」
「……」
「……あの魔女達は優秀だと聞いていたのですがね。その割に、貴方を、助けには来ないのですね。貴方が攫われてから、もう、三ヶ月も経つのに」
イチの身体がびく、と跳ねる。棺はにこり、と、やさしく微笑んで。
「もう、貴方の事は諦められたのかもしれませんね」
「……ぁ、」
「まぁ、魔女達は最初から、貴方を生贄にしようとしていましたしねぇ。結局は捨て駒だったという事でしょう」
「そんな、こと」
「ではどうして、ここに、誰も、助けに来ていないんでしょうね。貴方の仲間はとても優秀ではないですか。なのにここを突き止められないなんて事、あるんでしょうかね。知っていて、来ていないだけでは無いですか?
イチ。あなたは、あの魔女達に、捨てられたのですよ」
心底憐れんだ顔を作って言えば。イチは愕然とした顔で、どこかを見つめている。そして、ちがう、と首を振った。
「そんなこと、しない、デスカラスたち、は、そんなこと、」
「したから、誰も、ここに来ていないんですよ。貴方は一人。捨てられたんです。……可哀想に」
イチを抱き寄せて、背中を摩る。ちがう、と繰り返しながら首を振るイチは、けれど棺を押し返そうとはしない。
「イチ。もう、そんな魔女達の事は忘れてしまいましょう?」
「わす、れ」
「そうすれば、辛い思いは無くなる。忘却は罪ではありません。そもそも、魔女達が、貴方を捨てたのがいけないのですから。貴方はずっと、信じていたのに」
「……──、」
「さぁ、貴方を捨てた、冷たい、酷い魔女達の事は忘れて──今は、ゆっくり眠ると良いですよ」
ふ、とイチの体から力が抜ける。そっとベッドに横たえると、イチの目から涙がつうと流れていた。
イチの頭を撫でながら、棺はこれからの事を考える。魔女達はお前を捨てたのだと教え込もう。そんな魔女達の事は忘れて良いのだと、逃げ道を与えよう。そうして辛い記憶に蓋をして、何もかも忘れたその時には。偽の記憶を与えよう。
反世界様が、あなたを、救ってくださったのですよ、と。そんな記憶を。
今日の夕食はイチが捌いた魚を煮たものとパンだ。棺が外で取ってきた魚を捌くのは魔法でやれば一瞬なのだが、イチがやりたいと聞かなかったのだ。イチは時折こうして何かを手伝いたがる。
便利だからと設置したベッドテーブルの上にトレイを乗せると、いただきます、とイチが手を合わせる。一口分に千切ったパンを咀嚼して飲み込んで、何度か繰り返してからイチはじっと棺を見た。
「なんですか?」
「いや。本当に食事を摂らないんだなと」
「我々は魔法ですからね。摂る者も摂らなければならない者もいますが、私は特に要りませんよ」
「反世界も?」
「えぇ。それが何か?」
「いや。見た目が人間と同じだから、全く飲みも食べもしないのは変な感じがするなと」
「あぁ、なるほど」
棺は本当はこんな姿では無いのだけれど、見せて怯えられても良くない。……今のイチなら怯えたりはしないだろうが、イチの前で人間の姿で居る事にすっかり慣れてしまっていた。もくもくと食事を続けるイチを眺めて、そういえばこうなってから結構な日が経ったな、と棺は思い出す。イチをここへ連れて来て、もう半年。そろそろ頃合いだろう。
「ご馳走様でした」
ぱん、と手が合わされて毎度お馴染みの挨拶が聞こえる。そのまま食器の乗った盆を持ってベッドから降りようとするので「私がやりますから」とやんわり止めて盆を受け取った。イチは不満そうに眉を寄せている。
「毎日してもらっているのに」
「貴方はその時が来るまでは何もしなくて良いんですよ」
「……じっとしているのは落ち着かない」
「仕方ないですね」
棺は溜息を吐いてイチが好きな様にさせておく。イチが棺の後を付いて歩くのはもう毎日の事で、ただこうして歩くだけなら良いかと許していた。落ちた体力も筋力もこの程度で戻るものでは無い。疲れがほんの少しでも見えたなら背負うなり抱き上げるなりしていたし、イチもそれに抵抗しない。イチの中でこれが当たり前になる様に棺が仕向けた結果だった。
あ、とイチが後ろで小さく声を上げる。前から反世界が歩いて来たからだ。棺は頭を下げて、イチは反世界をただじっと見ていた。反世界はイチを見つめて、それから首に手を伸ばした。首筋をつ、と撫でる。それだけ。イチも大人しくしている。そういうものだと学んでいるからだ。反世界はいつもならここで何も言わずにまた去って行くのだが、今日は違った。視線で呼ばれている事が分かり、棺はイチに部屋に戻っておく様言った。わかった、と大人しく従うイチに、半年前の面影は無い。人間はこんなにも簡単に変わってしまうのだなぁと思った。
今から三ヶ月前、もう貴方は魔女に捨てられたのだと、そんな魔女達の事は忘れてしまえば良いと言った後。ぱたりと気絶する様に眠りについたイチは、すぐ後に高熱を出した。40度近い体温は人間にとっては高熱だろう。数日間イチは魘され、固形物を受け入れる事も無く、無理に飲ませた水分は8割戻された。ようやくその熱が収まると、イチの記憶は混濁していた。山で暮らしていた事、魔法に関する知識は微かにあったが、デスカラス達と出会った事は忘れていた。というよりも、奥底に押し込めたのかもしれなかった。なんにしろ、棺が思い描いていた通りになったのだ。
「貴方は最初こそ魔女に保護されていたのですがね。捨て置かれてしまったのですよ」
「そうか。……また、そうなったんだな」
また、と呟くイチは悲しげな目をしていた。何かに失望している様にも見えた。
「えぇ。貴方を攫う様に協会に連れて行ったり、かと思えば生贄にしようとして。最後には身勝手に捨て置いた。結局貴方は良い様に使われていた様ですね。そこを、反世界様が、助けてくださったのですよ」
「……はんせかい」
名前を繰り返すイチには、反世界の記憶も無いらしかった。実際反世界の前に連れて行った時も「助けてくれた、と聞いた。ありがとう」となんの疑いもなく反世界を見上げて言っていた。反世界はといえば、最初こそ不快そうに眉を顰めていたが、それから少し考える素振りを見せて。
「礼は良い」
とだけ言った。
棺はそれから、イチに教え込んだ。魔女達は自分達の敵だという事。イチを捨てたのはある一人の魔女だという事。このままでは魔女達の生贄にされてしまう事。イチは素直にそれを信じ込んだ。魔女達への忌避感を抱えさせられたまま、棺と反世界に信頼を寄せて行った。基本的にはイチはベッドの上で大人しく過ごさせている。移動する際には基本的に足は使わせずに棺が抱えて移動していた。だが偶には歩きたい様で、反世界や棺の後ろを付いて歩く事もあった。その姿は何処となく雛鳥を思い出し、大人しく従順なその様は捨てられぬ様に懸命に振る舞っている様にも見えた。まぁ、少しでも体力はあった方が良い。イチにしてもらう事にはそれなりに必要だからだ。
「明日、あの魔女をイチの手で始末させます」
反世界と棺だけの空間で。跪きながら明日の事を話すと、反世界は「そうか」とだけ言った。
イチを攫って来てから半年。明日、デスカラス達が赴いた街に棺はイチを連れて降り立ち、デスカラスをイチに殺させる。イチ自身に、あの短剣で、あの魔女の心臓を貫かせるのだ。そうすれば例え記憶を思い出したとしても元の場所には戻れないだろう。イチがした事を責め立てて、赦しを与え、イチの居場所を此方側に固定させる。
「それでは、イチにこの事を伝えて来ます」
「ああ」
反世界に頭を下げて空間を出る。イチの部屋に入ると、彼はベッドの上で体を丸めて眠っていた。が、棺の足音でぱちっと目を開ける。
「棺。どうした?」
「明日は外に出ましょうか。貴方を捨てた魔女を見つけたんですよ」
イチが目を見開く。棺はイチの腰にある短剣をす、と指差した。
「イチが、その魔女を、殺すんです。出来ますね?」
「……ころす」
そう繰り返したイチの表情は不安げだった。右に左にと視線が泳いで落ち着きが無い。棺はイチの手をそっと握る。
「その魔女が貴方に敵意を抱くかは分かりませんから、貴方の中の決まりに反するかもしれません。ただ、その魔女は、少なくとも私には敵意も殺意も抱くでしょうから。その場合、ちゃんと攻撃出来ますか?」
「それ、は……できる、と思う。棺が攻撃されている、なら」
「なら大丈夫ですね」
痩せて小さくなった身体を抱き寄せて、大丈夫、大丈夫と繰り返しながら、頭を撫でた。
「大丈夫。貴方なら出来ます。貴方ならあの魔女を殺せる。そうすれば、反世界様も沢山褒めてくださる」
「……棺。そうすれば、おれは、もう」
「はい?」
「…………すてられない?」
その問いかけは、とてもとても小さな声だった。
「棺も……反世界も。あまりにも死を纏っているから、きっと、人間にとっては良くない存在なのだと、俺は正直思っている」
「……」
「けど、……けど。それでも反世界が、俺を助けてくれて、棺は、俺の面倒をよく、見てくれてる、……人間の、敵なのだと、しても、俺は、もう、すてられる、のは」
棺は。口角が上がるのをどうにか堪えながら、勿論、と答えた。腕の中で安心した様に体から力が抜ける。なんて滑稽で、哀れな存在なんだろう。
「私達は、貴方を捨てたりしませんよ」
「さて。では行きましょうか」
次の日。棺の隣に並んだイチは腰の短剣を確認して頷いた。もうあの魔女達は街に来ているだろう。特に何かがある様な街でも無い、ごく普通の街だ。舞台になる場所など何処でも良かった。何処だろうが結果は変わりないのだから。
しゃん、と、音が聞こえたのはその時だった。振り向くとそこには反世界が居た。棺に杖を渡し、それから。
「……おお?」
イチに白い羽織と、白い笠を被せた。揃いともまた違う、反世界と似た様な格好。イチはぱちぱちと瞬きをして、笠に触れ、羽織に触れ。
「ありがとう。似合うか?」
嬉しそうに反世界に尋ねた。ああ、とだけ返した反世界は、確かに、微かに、たのしそうだった。嗚呼、この人間を攫って来て良かった。精神を壊して、偽の記憶を植え付けて良かった。反世界様が楽しそうで、嬉しそうで、棺も同じ気持ちだった。
「さぁ、イチ。行きましょうか」
「ああ。行って来ます!」
振り返って手を振るイチを、反世界はただ見つめていた。
どうして気付かなかったのか、と、いつまでも考える。考えても意味の無い事なのですぐに頭から追い出すが、次の日にはまた考えてしまう。どうして気付けなかったのか、と。がたごとと揺れる荷車の中は重たい沈黙に満ちていて、それは今に始まった事では無かった。半年前のあの日から、ずっと、各々が後悔をして、意味の無い事ばかり考えている。堂々巡りだ。
今から半年前。ごく普通の日の筈だった。その日は宿屋に空きがあって、一人一部屋が与えられて。揃っておやすみを言って別れて、次の日の朝には揃っておはようを言えた筈だった。
イッちゃん遅いね珍しい、起こしてくる、とゴクラクがイチの部屋に行って。真っ青な顔で、イッちゃんが居ない、と戻って来た。部屋は確かに無人で、窓は鍵が閉まったままであったから窓から外に出た訳では無さそうで、宿の何処を探しても見つからなくて、ゴクラクとクムギが外に出て探し回ったが何処にも居なくて、見つからなくて、微かに感じたおかしな魔力が棺のものだと気が付いて、デスカラスの背中に冷たい汗が流れて行った。反世界の魔法の陣営にイチが攫われた。仮定の話ではあったが殆ど確定だと思われた。手掛かりはゼロだった。見つかる訳が無かった。反人類魔法に反世界の魔法の居場所を知らないか聞いて周り、魔法を狩る、そんな遠回りにしか思えない、遠回りにもなっていない無駄な足掻きの様な事を繰り返すしか無かった。
訪れた街でイチを見ていないか尋ねて周った。当たり前の様に誰もイチを見ていなかった。
これまで狩って来た魔法達も知らなかった。むしろ自分達の方が反世界の魔法の居場所を知りたいくらいだと吐き捨てる魔法も多かった。
一番最初にその弱音を吐いたのはどちらだったっけ。案外ゴクラクの方だったかもしれない。もし、もしも、イチが。その先は聞かずとも分かった。誰もがきっと最悪の想像をしていた。師弟血判状の真実を知っているのはデスカラス、そしてマネーゴールドとシラベドンナ以外には居ない。そう考えてしまうのも仕方ない事ではあった。──イチが未だに死んでいないのは、デスカラス自身がよく分かっている。それでも師弟血判状の事を話す訳にはいかないから。
「大丈夫だ」
デスカラスは懐から石を取り出して、クムギとゴクラクに見せた。真っ赤な模様が火の様に揺らめいている不思議な石だった。それはただのインテリアで、決まった効力など無い物だけれど、二人をほんの少しだけでも安心させる為に嘘を吐いた。
「ここにイチの魔力を込めてある。もしイチが死ねば、この石が割れる様になってる」
「いつの間に、そんな……」
「アイツ危なっかしいからさ、前に無断で勝手に作った」
「えぇ……」
「で、でも、それじゃあ、この石が無事って事は」
「少なくとも命はある。最悪の状態にはなってない。……だから大丈夫」
後半の言葉は、殆ど自分に言い聞かせていた。納得した様に息を吐く二人を横目に石を仕舞う。
デスカラスが生きている、だからイチは死んでいない。それは紛れも無い事実だ。あの魔法達なら、殺すのならただ殺すのでは無く、その瞬間を自分達に見せ付ける筈だ。だからといって、イチが無事かは分からない。なんなら無事では無い確率の方が高いだろう。あの魔法達がイチを攫って何もしていないなんて思えない、あり得ない。何か、途轍もなく、嫌な事を、惨い事をしている可能性なんて充分にある。それがどんな事かまでは分からないし、考えたくも無い。警戒しておくに越した事は無い。
「……イチ」
デスカラスは眼を閉じて、深呼吸をする。自分の命が不意に消されるかもしれない、それはとても恐ろしい事ではあったが、恐怖心は何処にも無かった。ただ自分の不甲斐無さと、イチを攫った魔法達への怒りだけで、頭の中は満ちていた。
こんな事をしても意味なんて無い。それはクムギもゴクラクも充分に分かっている事で、それでももしかしたらと諦める事が出来なかった。結局、やっぱり、この街でもイチは見つからなかったし、誰もイチの姿を見ていなかった。この半年間ずっとそうだった。どれだけ尋ねてもどれだけ探しても、イチは見つからない。二人並んでベンチに腰を下ろして、同時に溜息を吐く。
イチくん、どこに行ったんだろう。
イッちゃん、どこにいるんだろう。
そう口に出してしまいそうになる。イチが行方不明になってからもう半年。デスカラス曰く最悪の状態──イチが死んでいる、殺されている、その状態では無いのは間違いないらしい、けれど。心配で胸が苦しくて吐きそうだった。どうか、どうか無事で居てほしい。そう祈りながら、ただこうして無意味に探し回る事しか出来ないのが悔しくて仕方なかった。はぁ、ふう、と揃ってまた溜息を吐いて顔を見合わせる。
「宿、戻りましょうか」
「そうだね」
これ以上探しても、何をしても意味が無い事なんてとっくに分かっていた。反世界の魔法に関する情報はゼロとしか言えなくて、手掛かりなんて物は何処にも無い。無力である事が、こんなにもくやしい。ゴクラクは唇を噛んで立ち上がる。宿に戻って、また明日になれば協会へ戻って、何処かの反人類魔法を狩って、何か情報を得られれば良いのだけれどきっと何も得られなくて、それを繰り返して。いつになれば終わって、イチを見つけれるんだろう。クムギも同じ事を考えているに違いなかった。あの夜、どうして、なにも、気付けなかったんだろう。後悔ばかりが募る。暗く重たい気持ちを抱えたまま、それでも何か無いかと微かな希望を捨てられずに辺りを見回して。
「……イッちゃん?」
思わず名前がこぼれた。気のせいかと思った。真っ白な笠に真っ白な羽織、見た事の無い格好だったけれど、でも、あれ、あれは。
みまちがえる、わけがない。
「ゴクラクさん?」
「っ、イッちゃんがいる!!」
「え」
ゴクラクは耐え切れずに走り出した。ゴクラクの視線の先に居た少年を見て、クムギは固まった。人違いなんかじゃない、あれは、イチくんだ、と確信した。クムギも慌てて後を追おうとして、寸前で思いとどまった。イチに会いたい、けれど、でもやっぱりまずは報告をしなければ。デスカラスに、イチを見つけたと、伝えなければ。ゴクラクならイチに追い付いてくれる、だから大丈夫。遠ざかるゴクラクの背中に背を向けて、クムギは宿屋へと駆け出した。
堪え切れなかった。見間違いなんかじゃなかった。近付いていくに連れて確信に近付いていく、やっぱり、やっぱり、イッちゃんだ。ずっとずっと探していたイチが、すぐ前にいる。人混みに、消えようとしている。
「待って!!」
背中に追い付いてそう叫んで、手首を掴んだ。掴まれた事によって前につんのめったイチが驚いた顔で振り向いた。近くで見て、やっぱり人違いなんかじゃないと分かった。ずっとずっと探していたイチが目の前にいた。ゴクラクの心臓が歓喜と安堵で音を立てる。イチはぽかんとした顔でゴクラクを見て、それから。
眉を寄せて、訝しげにゴクラクを見上げた。
「誰だ?」
イチの表情から、目から感じるのは警戒だった。見知らぬ人間でも見る様な顔で、イチはゴクラクを見上げていた。
「俺の事、おぼえてない、の」
「そうだな。俺はお前の事を知らない。会うのも初めてだと思うが」
「……、っ」
どうして、イッちゃん、俺の事覚えてないの、どうして、そんな顔を。何か、なにかおかしい。心臓が、痛い。ゴクラクははくはくと口を開けて、空気しか漏れなくて。落ち着けと目を閉じて深呼吸をする。そうだ、イチは、反世界の魔法達に攫われた。……何も無い、なんて事、ある訳がなかったのに。
「ごめん、友達に……すごく似てたから」
「友達?」
「うん、今、行方不明で」
「なるほど。だからあんなに必死な顔だったのか」
ぱっと手を離す。真っ白な笠に真っ白な羽織は、あの魔法の事を思い出して胃の中がぐるぐると煮え立つ気分だった。イチは笠に触れながら「俺はイチという。お前は?」と、笑顔で尋ねて来た。
「俺はゴクラク。ねぇ、あっちでちょっと、話さない?」
「? ああ、良いぞ!」
木陰にあるベンチに、一人分の隙間を空けて並んで腰掛けた。イチは笠を取って「ここは涼しいな」と笑っている。改めて顔を見てみると、幾分か痩せた気がする。それに、さっき掴んだイチの手首を思い出す。あんなに細かっただろうか。
「……ねぇイッちゃん」
「イッちゃん?」
「今日って、何しにこの街に来たの?」
「俺達・・か? そうだな……人探し、というか……ある魔女を探していて」
「魔女?」
「そう。俺の事を捨てた魔女がこの街に居るらしいんだ」
「……すてた?」
「ああ」
「すてたって、なんで」
「最終的にそうした理由は知らん。知りたくも無い」
「イッちゃん、それ、誰から聞いたの」
「俺の事を助けてくれたま、……いや、ひと、がいて。色々教えてくれた」
「…………」
「ゴクラク?」
「ううん、なんでもない」
イチは、ゴクラク達の事を忘れて、自分が捨てられたと思っている。記憶が、書き換えられている、変えられている? 口の中がからからになっていく感覚がする。あの魔法達は、イチに、何をしたのだろう。何をすれば、こうなるのだろう。沸々と脳味噌が熱いのに、心臓は冷静だった。
「イッちゃん。その魔女を見つけたら、どうするつもりなの?」
ゴクラクの問いに、イチは無表情で瞬きを一つして。それから空を見上げた。
「そうしろ、と、言われた事はある。ただ、出来るかどうかはまだ、わからない。出来ると思う、とは、言ったが」
「……何をしろって、言われたの」
「流石に言えないな」
イチは苦笑したが、なんとなく、察する事は出来た。出来てしまった。
「それが出来なければ俺はきっとまた捨てられる」
「イッちゃん、」
「けど、それが出来るかどうか、本当は分からないんだ。昨日は出来ると言ったが。俺の中には決まり事があって、それに、逆らう事はしたくない。でも」
ぎゅう、と胸を押さえるイチは苦しそうだった。ゴクラクが思わず背中に手を添えるより先に、あ、とイチがぱっと顔を上げる。
「すまない、一緒に来てる……ひとが居て」
「うん、分かった。俺こそ急に引き止めちゃってごめんね」
「いや、話せて楽しかった! じゃあな、ゴクラク」
ひらりと手を振って、イチは駆けて行ってしまう。その背中が向かう先には、一人の男がいた。にこにこと笑っている、というより笑顔を張り付けている様に見える不気味な男。隣に並んだイチの肩に手を置いて何か、親しげに話している男の手には杖が握られていた。あの、杖は。
「……ッ」
ばち、と視線が交差した。男はゴクラクと目が合って、確かに、わらった。嘲笑、勝ち誇った様なその笑みに、一気に頭に血が昇る。
「……クソ魔法が」
これだから、嫌いなんだ、反人類魔法というものは。握りしめた拳からぽたぽたと血が流れる事に気付かないまま、ゴクラクは宿に戻る為に走り出した。一刻も早くデスカラスに報告をして、この街の住民を避難させて、そして、なにより。
イチを、助けなければ。
最大級魔法警報が発令されたのは、実に半年ぶりだった。反世界の魔法が所持している杖を持った男が、その街に居ると判明したからであった。たとえ杖一本だとしても、被害は計り知れない。
張られた結界の中には、その街に偶然・・滞在していたデスカラスとゴクラクがその場に残り、クムギは結界外で記録を付ける事となった。
住民の避難は迅速に行われた。まるでそうなる事を仕向けられているかの様に、スムーズに。
避難を終えてすぐに、その男は姿を現した。まるでタイミングを見計らっていたかの様だった。
「イチは何処だ」
怒りを宿した目でデスカラスが問うた。棺は「何処でしょうね」と楽しげに笑うだけだ。
「そんなに知りたいのなら、彼を使って無理にでも聞けば良い。……ああ、したくても出来ませんか。私の魔法を前に見ていますしね」
「……」
「さあ、どうします?」
棺は楽しそうにそう言った。舌打ちをして、デスカラスはす、と杖の切先を棺に向ける。無駄だというのに、と笑いながら口を開けて──後方から棺の首を狙って繰り出された足を手で止めた。ゴクラクが身を潜めていた事には気付いていたから不意打ちにもならない。ゴクラクは舌打ちをして、それから指先に唇を一つ落として。ぱぁん、と手を打ち鳴らした。びりびりと空気が揺れる中、デスカラスの口が確かに、静かに動いた。「”告解ゴルコンダ”」、と。現れた魔法に体を羽交い締めにされ、口を開かされる。
『イチの居場所は何処だ』
ああ、予想通りの問いだと棺はわらった。
「【魔女の後ろに居る】」
「……は、」
棺の答えに、デスカラスは反射的に振り向いた。短剣を振り翳したイチが、デスカラスの心臓を目掛けて屋根から飛び降りていた。白い笠と、白い羽織。反世界の魔法を思い出して、吐き気がした。
刃の切先が触れる直前に、デスカラスはイチを籠亀の中に閉じ込めた。が、その魔法はすぐに姿形を変滅させてしまった。消え去った籠からイチが立ち上がって、また、短剣をデスカラスに向けた。
「イチ、」
デスカラスは気付く。刃先がふらふらと揺れている。イチは肩で呼吸をしている。デスカラスの知っているイチはこれくらいで疲弊したりはしない。よく見ると顔色は前よりも白く、何よりも痩せていて。クソ、と吐き捨てた。
「イチに何しやがったお前」
「ただ保護をしただけですよ」
「ンな訳あるかよ」
デスカラスに刃を向けている事も、敵意のこもった視線を向けている事も、何もかもおかしい。その理由は知っている。ゴクラクから報告を受けた時に、記憶を変えられている事は聞いている。魔女に──デスカラスに、敵意を向ける様に仕向けられている事も。
イチは深呼吸して、またデスカラスに向かってくる。動きはデスカラスの記憶の中よりずっと鈍い、避ける事自体は魔法無しでも出来る。けれど、それでは意味が無い。
「イチ、大丈夫。貴方ならやれますよ」
「うるせぇ黙ってろ!!」
優しく穏やかに語りかける棺に怒鳴り返した。何が大丈夫だ、貴方ならやれる、だ。させてたまるかそんな事。二人の邪魔すんじゃねぇよ、と、ゴクラクが低い声で言ったのが聞こえた。棺の足止めをゴクラク一人にさせるのは無茶な気もしたが、あと少し、ほんの少し時間を稼げば援軍が来る。耐えてくれと願いながら、デスカラスはイチに語りかけた。
「イチ、あいつらに何をされた?」
「何も」
「そんな訳あるかって言ってんだよ、そんな痩せて、体力だって! 前はもっとあっただろうが!」
「前の事なんか知らない。覚えてない」
「あ?」
「俺は反世界に助けられた、棺にも、沢山、世話をかけた、だから」
「だから私を殺すってか? そう仕組まれただけだろ、そういう話を吹き込まれただけだろ! 変だって、なんか違和感あるとか思わんかったんか!?
だいたい、イチ、お前、私を殺せんのか。私だけじゃない、ゴクラクだって。一度でもお前に殺意なんか向けたか!? 向けてないだろ!」
「……」
イチの中にある「死対死」を、デスカラスはよく知っている。デスカラスもゴクラクも、イチに殺意なんて向けていない。敵意すらも。そんな状態で、イチがデスカラスを殺すなんて出来る筈が無い。仮に出来たとして、それはイチにとって、途轍もないストレスになる。イチもそれを分かっているのか、顔を歪めて呼吸を荒くしている。
「けど、でも、お前を殺さないと、俺はまた」
「また、なんだよ」
「……すて、られる」
「……はぁ!?」
捨てられるって、なんだ、なんの話だ。
「魔女達は、……お前は、俺を、捨てたと」
「何の話だよ、そんな事する訳無いだろ! イチ、どんな話吹き込まれたかはもう分かった、分かったから。落ち着け、落ち着いて、よく、思い出せ。
私は、イチの、なんだ?」
「…………」
は、は、と呼吸を整えて、イチは刃先を目の前の魔女に向けた。自分を捨てたと、棺から教えられた魔女に。その魔女が語りかけて来た、問いかけて来た言葉を反芻する。あの魔女はイチを捨てた張本人で、自分は生贄にされようとしていて、反世界達が助けて、くれて、それで、
それで。
『私と、家族になろう』
ふ、と、聞こえた声があった。いつもならそんな事しないのに、食事を分けてくれた魔女が話し出した、みらいのはなし。家族になろうと、言ってくれて、居場所を、家を、与えて、くれた。
透明な水の中に絵の具が落ちた様に、じわりと、頭の中で光景が広がっていく。記憶が甦っていく。家族になろうと言われて嬉しかった事、贈り物をした事。買い物を教えてくれた、魔法の事をいつも教えてくれる、一生懸命な少女の事。一緒に魔法をぶん殴って、狩りで初めて、あそこまで背中を預けられた青年の事。他にも沢山、沢山のことが、一気に頭に溢れて。
「イチ?」
「…………あれ。くむぎ、は」
「ムギちゃんなら今記録中。ゴクラクは、アイツを足止めしてくれてる」
イチはきょろ、と辺りを見回す。どこかぼんやりした顔で、瞬きをして。
「デスカラス」
焦点があった瞳がデスカラスを見た。向けられていた短剣がゆっくりと降ろされていく。何処か困惑した顔で、イチはもう一度デスカラスの名前を呼んだ。
「思い出したか?」
「あぁ、……おもいだした」
「よし。イチ、」
手を差し伸べようとして、枯れ枝が折れるのによく似た音が響いた。イチが羽織っていた白いそれが、変滅していた。まるで細い骨の様に、枝の様に変滅したそれがイチの手を包んで、刃の切先をイチの首に向ける。ざぁ、と、血の気が引いた。
「イチ!!」
その刃がイチの首を貫く前にと、デスカラスは駆け出した。魔法を使おうとするより先に、咄嗟に足が動いていた。勝手に動いた己の手に呆然としているイチの首に、刃が迫って。唐突に、くる、と、切先が反対を向いた。羽織がくん、とイチの身体を前に引っ張って、つんのめったイチの身体を、デスカラスは反射的に受け止めて。
脇腹に、熱さを感じた。
「……、っ、てェ……」
そこを見ると、とてもとても綺麗に、イチの短剣が刺さっていた。イチが青い顔で柄から手を離す。デスカラスはそこを押さえながら蹲る。ぼたぼたと、赤い血が地面に落ちていく。よろめきながら後ろに後ずさったイチにとん、とぶつかる男がいた。棺は優しく微笑みながらイチの肩にそっと手を置いた。
「ぁ、」
「よく出来ましたね、イチ。貴方が、あの魔女を、刺したんです」
「イッちゃん、イチ!! そいつの話なんか聞かなくて良い!!」
ぼろぼろで、それでもまだ立ちあがろうとしているゴクラクがそう叫んだ。けれど。
「ご、くらく、でも、おれが」
「そう。貴方が刺した。貴方が、あの魔女に短剣を突き刺したんです」
「おれ、が」
「よく出来ましたね、本当に。アレは放っておけば直に死ぬでしょう。反世界様もお喜びになられる。イチ、貴方のお陰です」
そっと頭を撫でられる。棺に、そして反世界にそうされる事を望んでいたイチはもう居ない。だから跳ね除けたくて、けれど、出来ない、だって、おれが。
「記憶が戻ったのですね」
耳元で、棺が囁いた。
「貴方が刺したのに、あの魔女が死ぬのは貴方のせいなのに。記憶を思い出したところで、今更、戻れるとでも?」
どくどくと、耳の奥で心臓が鳴っている。イチの手に残っているのは、真っ赤な血と、肌を貫いたあの感触。
「さぁ、帰りましょうか、イチ。
貴方の帰る場所は、もう、あそこだけですから」
「おい、勝手に殺すなよ、クソ魔法が」
ぱきん、と棺が凍る。その寸前で、イチはゴクラクに手を引っ張られて引き寄せられていた。棺は当然の様に自分を凍らせている氷をぱきんと割っている。
「遅ぇよトゲちゃん。また迷ってた?」
「まさか。私は迷った事などありません」
デスカラスの脇腹に布を当てて呪文を唱えたトゲアイスが、杖を構えて棺と向き合った。ふー、と息を長く吐くデスカラスの額には汗が滲んでいる。
「私は死んでねぇぞ」
「しぶといですね。虫の様だ」
「はぁ〜〜〜? こんな美少女に対して虫とは何だてめコラ。……イチ」
デスカラスが脇腹を抑えながらゆっくりと立ち上がる。イチを見つめる表情は、とても、優しかった。
「イチ、見ての通り、私は大丈夫だ。最強魔女のデスカラスちゃんが、こんくらいで死ぬとでも思ったか?」
「けど、俺が、刺して」
「刺したのはその気味悪い羽織りだ。脱げ脱げ」
ゴクラクがイチから羽織を剥ぎ取って棺に向かって投げた。羽織を受け取った棺は肩を竦めて、イチを見た。
「魔男のイチ。忘れてはなりませんよ、貴方は生贄であるという事。魔女達に利用されているという事を」
「ウチのに変な事吹き込むんじゃねぇよ」
「……私達はいつでも、貴方を待っていますから」
ず、と空間に穴が開く。棺はそこに入って、すぐに消えてしまった。沈黙が流れて、トゲアイスがふっと力を抜き、ゴクラクは息を吐いた。デスカラスはイチに向き直り、笑って手を差し出した。
「イチ。私は、イチの、なんだ?」
「……家族、……かぞくだ」
「そう。私達は家族なんだ。捨てる訳ないだろ。ずっと一緒にいる。私達が、イチが帰ってくる居場所になるんだ。だから、大丈夫。
帰って来い、イチ」
イチは瞳を揺らして、未だ青い顔色のまま、それでも手を伸ばして、デスカラスの手を取った。酷く冷えている手だった。
「おわ」
「イッちゃん、っ」
糸が切れた様に、イチの体が崩れ落ちた。慌ててゴクラクが支えて、記憶より軽くなった身体に唇を噛む。
「……とりあえず、デスカラスとイチ、ゴクラクはまず応急処置を。本格的な治療は協会に戻ってからです。私は街の修復作業の人員を集めます」
「分かった。……歩ける?」
「いけるいけ、あっ、痛ててて、痛いわ普通に」
「でっ、デスカラス様! これっ痛み止めです、止血剤とタオルもあります! 応急処置しますっ、ゴクラクさんも!!」
「ありがとうクムギちゃん」
「……う、うあ……イチくん、いきてたぁ……」
クムギがそう言って、ぼろぼろ涙を溢した。
ふ、と意識が浮上する。随分と久しぶりに見た、見覚えのある天井に、まだ夢の中かとイチは思った。顔を覗き込んで来たデスカラスの姿を見てもまだそうとしか思えなくて、ただ瞬きをするしか無かった。
「起きたか?」
「……おきた」
「よし。……おい、夢とか思ってんじゃないだろうな。現実だぞ」
「そうなのか」
「そうだよ」
イチはゆっくり身体を起こす。関節が所々痛んで、なんなら頭も痛いし体は重たい。デスカラスの手が額に当てられた。
「ん、下がったな。初めて見たわ39度8分とか」
「……熱、出てたのか」
「そうそう。三日くらい魘されとったわ」
イチが眠っていたベッドのそばにがたんと椅子を持ってきて腰掛けるデスカラスは、いつも通りに見える。その脇腹に、思わず目がいってしまう。イチの視線に気が付いたデスカラスは「はんっ」と笑った。
「大丈夫つったろ」
「けど、俺は、デスカラスの事を刺してしまった。いくら謝っても済む事じゃ」
「……これは後で分かった事だけどな。傷口は浅かったし、致命傷じゃなかった。無意識にそうなる様にしたんだろう、ってさ」
「え」
「なぁ。イチは私を刺した事、後悔してるし、反省もしてるし。申し訳なくも思ってるだろ」
「……それは、当たり前の事だと思うが」
「うん。逆の立場で考えたら私もまぁそうなるだろうな。いくら私が大丈夫だって言っても、納得出来る問題でも無いんだろ。だったらもう、そのまんまで良い。
事実としてあるのは、イチは私を殺す気なんて無かったし、ああなったのは反世界の魔法の羽織のせいだし、私は今生きててぴんぴんしてる、って事。私は、まったく怒ってない、って事。それだけはちゃんと覚えとけよ」
ぴ、と指を差される。イチは頷くしか無かった。よし、とデスカラスも頷いて。
「イチ」
真面目な顔になって、イチと向き直った。
「悪かった。申し訳なかった。本当に、ごめん」
「……え」
「助けに行くのが遅かった。いや、助けに行く事すら出来てなかった。そのせいで、傷付けた。身体だけじゃなく、心も。気付けなくて、何も出来なくて、何もかも遅かった。今回イチがこうして、思い出してここに居るのは、運が良かったからだと私は思ってる。何回謝っても足りないくらいだと、思ってる。
イチ。助けるのが遅くなって、本当に、ごめん」
デスカラスは項垂れながら手を取った。微かに震えている手だった。イチは首を横に振る。
「怒ってない、……俺は、もう、大丈夫だ」
「そっか」
「ああ」
「……本当に、良かった」
そっと、抱き寄せられる。よかった、と、デスカラスが繰り返しながら頭を撫でる。その度に、胸の奥底が暖かくなった。
こんこん、とノックの音がして、扉が開く。入って来たのはゴクラクとクムギだった。デスカラスが身を離して、二人から荷物を受け取っていた。見ると飲み物と食べ物の様だった。何かまでは分からなかった。
「おはようイッちゃん」
「おはよう、イチくん。調子、どうかな」
「調子は、まだ少し怠いが大丈夫だ」
「よかった!……よかったぁ……」
クムギの目尻にじわりと涙が浮かぶ。その涙を拭って、クムギはイチに笑いかけた。ゴクラクもイチの頭をぽんと撫でる。
「イチ」
「イチくん」
「イッちゃん」
──おかえり、と、三人の声が揃う。その言葉が、表情が、イチの胸の中に落ちて、暖かく広がっていく。
「ただいま」
返事をすると同時に、目の前がじわりと滲んだ。
「構わないのですか?」
「ああ。……あの魔女を刺した、その事に変わりは無い。いつまでも残り続けるだろう」
「そうでしょうね。私達といた期間に、酷い事は何も無かったのも事実ですから」
「……いずれまた、釘を刺しに行く」
「かしこまりました」