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通用口の隙間から、梗一郎はするりと身を滑らせた。
「先生、こんなところでお会いできるなんて。今日は休講だったので残念だなって……先生?」
やあ、風邪はどうだい──なんて、いつもの調子で返してくれるかと思いきや、蓮は小動物のように周囲をキョロキョロと窺い始めた。
「き、効かないんだよっ」
「……効かない、とは?」
ブンッと音たてて蓮はこちらを振り返った。
ただし、梗一郎を見てはいない。
視線は遠くを泳いでいた。
「はわわ……。人って字を書いて、それを飲みこむと緊張しないっていうから。やってみたけど全然で。よく考えたら効くわけないんだよ。そんなマジナイが」
「はぁ……」
「人のことは、畑に転がってるジャガイモって思えっていうけども。でもジャガイモは地面の下にできるから、状況が分からなくて」
「はぁ……?」
蓮は独りよがりにまくしたてる。
一体いつ息継ぎをしているのかと思うくらいの早口だ。
どうやら見えてきた──梗一郎が小さく頷いたのは、バックヤードに貼られた予定表に二日に渡って「なんとか史学会」と書かれていたのを思い出したからだ。
「なんとか」の部分はどうしても思い出せないのだが、今は些細な問題である。
「先生、……史学会に出席されるんですね。大丈夫ですか?」
「だいじょうぶなもんか!」
蓮はそこだけ、やけにはっきりと声を張り上げた。
「一夜漬けで論文なんて書けるわけなかったんだよ。こんな立派なところで俺の書いたものなんてゴミみたいなものだよっ……」
「先生? 先生落ち着いて」
「馬鹿にされるだけじゃない。めちゃくちゃ怒られるに決まってるんだ。日本史を馬鹿にするなって、偉い先生にこっぴどく怒られて仕事もクビになってアパートも追い出されて……」
「先生、大丈夫だから落ち着いて……」
躊躇ったものの、梗一郎は蓮の両肩をつかんだ。
揺すってみたら「ハッ!」なんて息を呑んでいる。
「お、小野くんじゃないか。君も俺を馬鹿にしにきたのかい」
「そんなわけないじゃないですか。先生、しっかりしてください」
蓮の狼狽えっぷりに、梗一郎は唇を噛んだ。
アンケートの集計作業中に、今度学会があると言っていたじゃないか。
論文が間に合わないと焦っていた姿を思い出す。
研究発表の機会がめぐってきたものの、思うような準備ができなかったということは容易に推察できた。
モブ子らの異様に分厚いレポートに時間を食われたせいだと、今さら言っても詮無いことだ。
しかも蓮は手汗を彼女らにからかわれるくらい、ひどく緊張する性質である。
先程かすかに触れた指先は冷たく、色を失っているではないか。
「す、すまないね。小野くん。君はバイトかい? 一体いくつ掛け持ちしてるんだい。やっぱり貧乏なのかい」
何気に失礼である。
しかし震える声で、蓮は何とか落ち着きを取り戻そうとしているのだと思われた。
ならばと梗一郎は話を合わせる。
ハラハラしながらも、先生の緊張が少しでもほぐれるならばと声は努めて明るいものだった。
「荒物屋とスーパーの早朝品出しと、ホテルの備品係、あとはうーばーいーつを始めました。夏休みは単発で設営のバイトでも入れようかなって思ってます」
「そっかそっか、ほんとに働き者だねぇ」
連の声がほんの少し柔らかくなったろうか。
──もう一息だ。先生をリラックスさせてあげなくては。
梗一郎は唇の端に力を入れて、ぎこちない笑顔を作ってみせた。
「そうだ。鳥獣腐戯画展でキューレーターの説明ツアーがあるんですけど、最終日に予約がとれたんです」
「ホゥ、それはいいねぇ」
「先生からは誘わないって仰ってたから。だからその……僕から誘ってもいいですか?」
「ホホゥ、それはいいねぇ」
「先生?」
何となく嫌な予感はしていた。
蓮の目は焦点が合っていないし、返事は生返事だ。
いつもノホホンとしている彼のこんな表情は初めて見る。