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この撤退が、夜哭きの森だけでは生き残れないという現実を全員へ突き付けることになることを、その時の俺はまだ知らなかった。
集落は慌ただしかった。
つい先程まで穏やかな朝だった場所とは思えない。
住人達は必要最低限の荷物だけをまとめ、子供達を起こし、魔獣達を誘導している。
誰も文句は言わない。
だが誰もが悔しそうだった。
それも当然だろう。
ここは彼らの家だ。
何年も掛けて築いてきた居場所なのだ。
それを捨てる判断が簡単なはずがない。
「予紬さん」
しゆらが小さく呼ぶ。
振り返ると、シエルを抱えたまま心配そうな顔をしていた。
視線の先は千代だ。
肩の傷は深くはない。
だが血はまだ止まっていない。
「見てくる」
そう言って歩き出す。
千代は集落の入口付近で住人達へ指示を飛ばしていた。
怪我をしているとは思えないほど普段通りだ。
だが肩を押さえる左手には力が入っている。
無理をしているのは明らかだった。
「千代」
声を掛ける。
千代は振り返った。
「なんじゃ」
「治療する」
即答すると、千代が露骨に嫌そうな顔をした。
「後でよい」
「よくない」
「この程度どうということは」
「血が出てる」
「出ておるな」
「治療する」
「解せぬ」
そう言いながらも抵抗は弱い。
以前ならもっと強く拒否していた気がする。
その辺りは少し信頼してもらえているのかもしれない。
近くの切り株へ座らせる。
服を少しずらすと、傷口が見えた。
思ったより深くはない。
だが普通の刃傷ではなかった。
「これ」
思わず眉をひそめる。
傷口の周囲に僅かな黒ずみが残っていた。
魔力の流れを乱す類の兵器かもしれない。
千代も気付いていたのだろう。
「嫌な感じがするじゃろ」
「そうだな」
応急処置をしながら答える。
研究所でも似たような資料は見たことがあった。
対魔装備。
魔力を持つ存在へ特化した兵器。
完成していたとは思わなかったが。
「厄介ですね」
いつの間にか隣へ来ていたしゆらが呟く。
「うむ」
珍しく千代も素直に頷く。
「昨日までとは別物じゃ」
その声には苛立ちが混じっていた。
自分が傷付いたことではない。
森が突破されかけたことへの怒りだろう。
治療を終えた頃、大和がこちらへ歩いてきた。
その姿を見た瞬間、千代の表情が少しだけ緩む。
本人は隠しているつもりなのだろうが、周囲には完全にバレていた。
「大和様」
「痛むか」
短い言葉だった。
千代は一瞬だけ言葉に詰まる。
そして。
「別に痛くはない」
どう見ても強がりだった。
しゆらが小さく視線を逸らす。
ルカなどは吹き出しそうになっている。
大和は気付いているのかいないのか、しばらく千代の肩を見る。
そして。
「無理はするな」
静かに言った。
千代が黙る。
耳が少し赤い。
だが今は誰もそこへ触れなかった。
状況が状況だ。
大和もすぐに表情を戻す。
「避難経路は確保した」
その一言で空気が変わる。
集落の長としての顔だった。
住人達が集まってくる。
俺達も自然と輪へ加わった。
「南西へ移動する」
大和が地面へ簡単な地図を描く。
「夜哭きの森のさらに奥だ」
「集落があるのか?」
俺が尋ねる。
大和は首を横へ振った。
「ない」
その返答に何人かの住人が表情を曇らせる。
つまり避難場所ではない。
一時的な退避地点だ。
「どれくらい持つ」
今度は千代が聞いた。
大和は少し考える。
「長くはない」
誰も喋らない。
予想はしていたのだろう。
「人間が一度来た」
大和は続ける。
「二度目も来た」
森の風が吹く。
遠くで魔獣が鳴いた。
「なら三度目も来る」
その言葉が重い。
反論できる者はいなかった。
実際、その通りだからだ。
迷い霧だけに頼る時代は終わりつつある。
誰も口にはしない。
だが全員が理解している。
「夜哭きの森だけでは足りぬか」
年老いた半魔が呟く。
大和は答えない。
答えないまま、遠くの森を見つめている。
俺もその方向を見る。
木々の向こう。
さらにその先。
人間の街があり、軍があり、世界がある。
夜哭きの森は広い。
だが世界はもっと広い。
そして敵は、こちらが思っていたより遥かに早く変わり始めていた。
その時だった。
集落の外れから慌てた声が響く。
「長!」
見張りの半魔だった。
息を切らしている。
嫌な予感がした。
全員の視線が集まる。
半魔は一度息を整えると、険しい顔で言った。
「人間ではない」
その言葉に場が静まる。
「なら何じゃ」
千代が尋ねる。
半魔は森の奥を指差した。
そして。
「森の魔獣達が集まってきています」
その報告に、その場にいた全員が顔を見合わせた。
人間ではない。
だが安心できる話でもない。
夜哭きの森の魔獣達は住人達と共存しているとはいえ、それは互いに理解し合っているからだ。もし何か異常が起きているのなら、決して軽視できるものではない。
「どこじゃ」
千代が尋ねる。
「南西です」
見張りの半魔が答える。
「避難予定地へ向かう道の途中です」
今度は大和が立ち上がった。
その動きに迷いはない。
「見に行く」
短い言葉だった。
だが誰も反対しない。
むしろ住人達の表情には緊張が走っていた。
避難経路に異常があるなら確認しないわけにはいかない。
「儂も行く」
千代が即座に言う。
肩を負傷しているとは思えない勢いだった。
当然のように却下される。
「駄目だ」
「なぜじゃ」
「怪我人だからだ」
「この程度」
「怪我人だ」
即答だった。
千代が言葉に詰まる。
周囲の住人達が視線を逸らし始める。
誰も助けない。
完全に味方がいなかった。
「儂は戦えるぞ」
「知っている」
「なら」
「怪我人だ」
「解せぬ」
本日何度目か分からない言葉だった。
隣でルカが肩を震わせている。
しゆらも口元を押さえていた。
千代は不満そうだったが、それ以上言い返さなかった。
言い返しても無駄だと分かっているのだろう。
「俺も行く」
そう言うと、大和がこちらを見る。
少しだけ考えるような間があった。
「分かった」
許可が出る。
結局、俺と大和、それから数人の半魔と魔獣で様子を見に行くことになった。
森の中は静かだった。
だが静かすぎた。
鳥の声が少ない。
風の音も妙に遠い。
代わりに聞こえるのは、木々の間を移動する何かの気配ばかりだ。
しばらく歩く。
すると最初に異変へ気付いたのは同行していた魔獣だった。
狼型の魔獣が足を止める。
耳を立てる。
鼻を鳴らす。
そして森の奥を見た。
俺達も同じ方向を見る。
その瞬間だった。
思わず息を呑む。
いた。
一頭や二頭ではない。
魔獣だ。
大量の魔獣がそこにいた。
狼型。
角鹿。
大型の熊に似た個体。
見たことのない鳥型の魔獣までいる。
しかも夜哭きの森の個体ではない。
毛並みも。
角の形も。
体格も違う。
明らかに別の場所から来ていた。
「なんじゃこれは……」
同行していた半魔が呟く。
無理もない。
数十頭はいる。
いや。
もっとだ。
森の奥にも影が見える。
百頭近いかもしれない。
だが奇妙なことに敵意は感じなかった。
魔獣達は唸らない。
威嚇もしない。
ただ集まっている。
そして。
どの個体も疲れていた。
毛並みが乱れている。
傷がある。
痩せている。
長距離を移動してきたようにも見えた。
「逃げてきたのか……?」
思わず呟く。
すると近くにいた老いた角鹿がこちらを見る。
しばらく見つめた後、そのまま視線を逸らした。
敵意はない。
だが余裕もない。
そんな感じだった。
大和が静かに前へ出る。
すると周囲の魔獣達が道を開いた。
まるで最初から知っていたかのように。
その光景に半魔達がざわつく。
だが大和は気にしない。
しばらく魔獣達を見渡したあと、小さく目を細めた。
「北か」
その言葉に何人かの半魔が反応する。
「分かるんですか」
俺が尋ねる。
「毛並みだ」
大和は答えた。
「北方森林群の魔獣が多い」
その名前は初めて聞いた。
だが大和達にとっては違うらしい。
住人達の顔色が変わっている。
「ありえぬ」
後ろの半魔が呟く。
「遠すぎる」
「何があった」
誰も答えられない。
答えを持っていないからだ。
だが。
その時だった。
一頭の鳥型魔獣が空から降りてくる。
羽は傷だらけだった。
息も荒い。
それでも必死に飛んできたらしい。
魔獣は大和の前へ降り立つと、そのまま力尽きるように座り込んだ。
周囲が静まる。
鳥型魔獣は震えていた。
恐怖しているようにも見える。
そして。
ゆっくりと森の北側へ顔を向けた。
その仕草だけで十分だった。
何かが起きている。
夜哭きの森だけではない。
もっと遠くで。
もっと大きな何かが。
森の空気が重くなる。
大和はしばらく北を見つめていた。
その横顔から感情は読めない。
だが一つだけ分かることがあった。
夜哭きの森の問題は、もう夜哭きの森だけの話ではなくなり始めていた。
コメント
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第25話、お疲れさまでした。千代の「解せぬ」と大和との「怪我人だ」のやり取り、思わず笑っちゃいました。周りのみんなが気配を消して見守る空気感が絶妙で、大和の短い言葉に隠れた気遣いにじんわりしましたね。後半、別地域から逃げてきた魔獣たちの描写が生々しくて、夜哭きの森だけじゃない広がりを見せ始めた不穏感がぐっときました。次がすごく気になります!