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夜哭きの森の問題は、もう夜哭きの森だけの話ではなくなり始めていた。
北方森林群。
その名前を聞いた時の住人達の反応は、人間軍が攻めてきた時とは少し違っていた。
恐怖というより戸惑いに近い。
そこにいるはずのない魔獣達が目の前にいるという事実が、彼らの常識を静かに揺るがしていた。
俺自身、その感覚はよく分かった。
傷だらけの鳥型魔獣は大和の足元で荒い息を繰り返している。羽根の隙間には乾いた血がこびり付き、長い距離を飛び続けてきたことが一目で分かる状態だった。
その姿を見ているうちに、周囲へ集まっている魔獣達も同じなのだと気付く。
毛並みは乱れ、身体には無数の傷が残り、疲労で立っているのも辛そうな個体までいる。住処を離れて移動してきたというだけでも異常なのに、これだけの数がまとまって行動している時点で普通ではなかった。
「北方森林群には集落もあったはずじゃ」
千代が険しい顔で呟く。
「儂も行ったことがある訳ではないが、昔から話だけは聞いておる。夜哭きの森ほど大きくはないが、半魔と魔獣が共に暮らしておったと」
その言葉に周囲の住人達も顔を曇らせる。
誰も否定しない辺り、本当に存在する場所なのだろう。
「何があったんだろうな」
ルカがぽつりと漏らす。
普段ならもっと気楽な声を出すはずなのに、さすがに今は空気を読んでいるらしい。
「分からぬ」
千代は短く答えた。
「じゃが、良いことではあるまい」
その視線の先では、角鹿の群れが疲れ切った様子で地面へ伏せている。狼型の魔獣も警戒こそしているが、威嚇する余裕すらないようだった。
大和はしばらく魔獣達を見渡していたが、やがて静かに立ち上がる。
「進む」
短い言葉だった。
「避難先へ向かう」
誰も反対しなかった。
ここで立ち止まる訳にはいかない。
人間軍がいつ追い付いてくるか分からない以上、避難を優先するべきなのは明らかだった。
ただ予想外だったのは、その時だった。
最初に動いたのは北方森林群の魔獣達だった。
狼型の魔獣がゆっくり立ち上がる。
続いて角鹿が動く。
熊に似た大型個体も重そうな身体を起こした。
そして、その全てがこちらを見た。
「……付いてくる気か?」
思わず呟く。
返事がある訳ではない。
だが結果的に答えはすぐ出た。
避難の列が動き始めると、魔獣達も同じ方向へ歩き始めたのだ。
住人達の間にざわめきが広がる。
無理もない。
数十頭を超える魔獣が列へ加わろうとしているのだから。
「どうするんですか?」
しゆらが小さな声で尋ねる。
その腕の中ではシエルもじっと魔獣達を見ていた。
警戒している訳ではない。
むしろ何かを感じ取っているようだった。
大和は少しだけ考え込む。
だが結論は早かった。
「構わない」
その一言で決まった。
住人達もそれ以上は何も言わない。
大和が許可したというのもあるが、それ以上に魔獣達の様子を見れば敵ではないことくらい誰でも分かった。
彼らは襲いに来たのではない。
逃げてきたのだ。
それは夜哭きの森の住人達自身が一番よく知っている。
住処を失う苦しさも。
追われる恐怖も。
行く場所がない不安も。
つい昨日まで自分達が味わっていたばかりなのだから。
避難の列は再び動き始める。
その最後尾へ、北方森林群から来た魔獣達が静かに加わった。
奇妙な光景だった。
半魔達が歩いている。
子供達が歩いている。
魔獣達も歩いている。
その中には夜哭きの森の魔獣もいれば、北方森林群から逃げてきた魔獣もいる。
本来なら交わることのなかった者達だった。
だが今だけは違う。
全員が同じ方向を目指していた。
しばらく歩いた頃、不意にしゆらが足を止める。
「予紬さん」
「なんだ」
振り返ると、しゆらは少し離れた場所を見ていた。
そこには一頭の角鹿がいる。
かなり高齢なのだろう。
他の個体より動きが遅い。
足も震えている。
群れから遅れないよう必死に歩いているようだった。
しゆらはその姿を見つめながら、小さく眉を下げる。
「無理をしていますね」
その言葉に思わず苦笑した。
本当にこいつは変わらない。
追われている最中だろうと、自分より他人を気にする。
「そうだな」
「何とかできませんか?」
「できる範囲なら」
そう答えながら角鹿へ近付く。
その様子を見ていたシエルが腕の中から飛び降りた。
まだ子犬ほどの大きさしかない身体で角鹿の前へ向かうと、小さく鼻を鳴らす。
角鹿もゆっくり顔を下げた。
しばらく見つめ合う。
それだけだった。
だが次の瞬間、角鹿の表情が少しだけ和らいだ気がした。
まるで。
「大丈夫だ」
とでも言われたみたいに。
避難の列は森の奥へ続いていく。
その数は、気付けば出発した時よりずっと増えていた。
最初は夜哭きの森の住人達だけだったはずだ。
半魔達がいて、魔獣達がいて、子供達がいて、俺達がいる。
それだけだった。
だが今は違う。
列の後方には北方森林群から来た魔獣達が加わっている。
狼型の魔獣がいて、角鹿がいて、見たこともない鳥型の魔獣がいる。
その姿はどれも疲れ切っていた。
住処を失ったのだろう。
あるいは仲間を失ったのかもしれない。
詳しい事情は分からない。
だが、それでも歩き続けている。
その姿は少し前までの自分達と重なって見えた。
「予紬さん」
隣から聞こえた声に顔を向ける。
しゆらだった。
抱えていたシエルはいつの間にか眠っている。
よほど疲れていたのだろう。
小さな身体を丸め、しゆらの腕の中で静かな寝息を立てていた。
「どうした」
「少し不思議だなと思いまして」
しゆらはそう言いながら前方を見る。
視線の先には歩く半魔達と魔獣達の姿があった。
「何がだ」
「昨日までは知らない人達だったんです」
白い髪が風に揺れる。
「でも今は、一緒に逃げているんですね」
その言葉に少しだけ考える。
確かにそうだった。
千代と出会ったのも昨日だ。
大和と話したのも昨日。
夜哭きの森へ辿り着いたのも昨日。
それなのに随分長く一緒にいるような気がしてしまう。
「そうだな」
結局、それしか言えなかった。
しゆらは小さく笑う。
その横顔を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。
こんな状況だというのに不思議なものだ。
「疲れていないか」
「大丈夫です」
即答だった。
信用ならない。
しゆらは昔からそうだ。
無理をしていても大丈夫と言う。
研究所にいた頃からずっと変わらない。
「本当か?」
「本当です」
「怪しいな」
「本当です」
今度は少し頬を膨らませた。
だがその直後、足元の木の根へ躓きかける。
慌てて腕を掴む。
しゆらの身体が僅かによろめいた。
「ほら」
「……今のは偶然です」
説得力がなかった。
しゆら本人も分かっているのだろう。
耳が少し赤くなっている。
「少し休むか」
「大丈夫です」
「さっきも聞いた」
「大丈夫です」
「二回言ったな」
「大事なので」
真面目な顔で返してくる。
だがどこか楽しそうだった。
そんなやり取りをしていると、前方から妙なざわめきが聞こえてきた。
何事かと思って顔を上げる。
すると少し離れた場所で、千代が立ち止まっていた。
正確には。
立ち止まらされていた。
「だから大丈夫じゃと言うておる!」
「駄目だ」
「傷など浅い!」
「駄目だ」
「解せぬ!」
大和に。
周囲の住人達が遠巻きに見守っている。
いや。
見守るというより面白がっている。
千代は肩の傷を庇うように腕を組んでいるが、大和は全く譲る気がないらしい。
「治療した直後だ」
「もう動ける」
「知っている」
「なら」
「動くな」
会話になっていなかった。
ルカなどは完全に笑いを堪えている。
「また始まった」
「またなのか」
「たぶん」
何とも適当な返事だった。
だが住人達の反応を見る限り、珍しいことではないのだろう。
千代はしばらく抵抗していたが、結局大和に押し切られる。
不満そうな顔をしている。
だが本気で怒っている訳ではない。
その証拠に、大和が少し頭へ手を置くと急に静かになった。
周囲から視線が集まる。
千代もそれに気付いたらしい。
顔が赤い。
耳まで赤い。
「み、見るでない!」
その叫びで住人達から笑いが漏れた。
緊張していた空気が少しだけ和らぐ。
人間軍に追われている最中だというのに、こういう光景を見ると不思議と安心してしまう。
だが。
その穏やかな時間は長く続かなかった。
先頭を歩いていた魔獣達が一斉に足を止めたのだ。
狼型の魔獣が耳を立てる。
鳥型の魔獣が空を見上げる。
北方森林群から来た魔獣達まで同じ方向を見ていた。
その反応を見た瞬間、大和の表情が変わる。
千代も笑っている場合ではないと悟ったのだろう。
赤かった顔が一瞬で引き締まった。
「どうした」
俺が尋ねる。
だが答えたのは大和ではなかった。
先頭にいた狼型の魔獣が、低く唸ったのだ。
それは警戒だった。
敵意だった。
そして。
森のさらに奥から、何かが近付いてくる気配がした。
コメント
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ああもう、このエピソードめっちゃ良かった……! 逃避行の列に北方森林群の魔獣たちが加わってくる描写がすごく自然で、特に老いた角鹿が必死に歩いてるところが刺さったわ。しゆらが「無理をしていますね」って気付いて、予紬が助けに行く流れ、本当にこの二人の距離感が好き。シエルが角鹿と見つめ合った時の空気も美しかったな。 最後、狼型の魔獣が唸って次の展開を予感させる終わり方も最高。続き気になる🔥