貧乏暇なしこそ至福という。日向誠が副業の間につま弾いたラブソング。それが大物チューバ―のBGMに採用され配信の売り上げで食費と光熱費は稼げるようになった。電撃結婚がなし崩し的に決まり式場の予約や結納など名曲メドレーのような毎日だった。アーニャは仕事を休み(本人は産休明けに舞台へ復帰したい)今日は花屋、明日は髪結いという足の踏み場もないスケジュールをこなしている。そんななか壁の街から謎の結婚案内状が届いた。幸いアーニャに見つかる前に受け取ったが日向厳はこわばった。差出人はかつてのバンド仲間で通称「コンクリ女」だ。アーニャの一個下で同じ女子高の出身だ。日向は自分の音楽性が壁の街に固着する理由はコンクリ女との関係を清算できてないからだと悟った。
かつて彼はアーニャの紹介でコンクリ女と情の通わぬ一夜を過ごした。作詞作曲に行き詰まった彼を見かねて刺激になればと畑違いのロッカーを紹介した。ベッドは刺激が強すぎた。日向は再起動に成功したが二度と御免だと思った。自分にとって行きずりの相手だったがコンクリ女は本気の交際を望んでいたようだ。その後、目立ったアプローチもなく関係は自然消滅したと思われた。
しかしコンクリ女が泣いているというエピソードをアーニャから聞いた。日向は思春期にありがちな情緒不安定だと一笑に付したがコンクリ女はリストカットをした。その後、死んだと思われたが音楽出版社の御曹司と交際を始めたという。
コンクリ女は宴席に日向夫婦を招きたいというが、壁の写真が同封されていた。
「ファンキー鉄板対決でケリをつけようってか」
日向はよく知っていた。壁の街には巨大な銅鑼の残骸がある。それを叩いて鳴らすものはいるが未だにファンキーな音楽にできた者はいない。誰が何の目的で設置したか知らないが拍手喝采された者は幸せになるという。ただ鉄板が溶けるほどアツい演奏がなされたらしく銅鑼はいびつな形をしている。ザ・エーテルズ、キュイーン、パンク・ドロイド、マッド女など錚々たるメンバーが挑んで斃れた。その成果は評価されたが音楽はファンキーでない。
鉄板の演奏テクでは足下に及ばずセメントで固める様に魅了する必要がある。そこまで攻める実力派はコンクリ女ぐらいのものだろう。ベランダからガレージに飛び降りると金ラメのステージ衣装が翻っていた、「あの女は危険よ。」「俺と組むな」日向はピアノをひっさげて一人でバトルに向かうが「私にも弾かせて」とアーニャが縋る。
日向夫婦はファンキー鉄板とかしの対バンに勝利できるのか考えるだけ無駄だ。リズムの一拍目に強烈なアタックを込め、アーニャのギターが16ビートで畳みかける。対するコンクリ女は重厚なメロディーで畳みかける。だがサビを織り込もうがBメロを含めようが旋律は鼓膜を震わせる一瞬とその余韻が心地よいのであって流れてしまえばそれっきりだ。日向夫婦は小気味いいカッティングで洪水に切り込んだ。最後はドガズババンとホール近辺を揺らしてキメた。銅鑼は繊月のようにやせ細っていた。新郎は失禁し新婦は担架で退場した。
壁の街に眠る巨大な陰謀を握るコンクリ女との一夜が終わるとアーニャと共にコンクリ女のもとを離れて帰宅した。そのままアパートに帰り、倒れ込んだ。翌朝、日向は目覚めるなりアーニャが眠る玄関に入った。「俺たち…勝ったのか?」アーニャは首を十字に振った。「おい、どっちなんだ?」アーニャを揺さぶるうちにどこかで打楽器が鳴った。「そうか…」日向は朝日に目を細めた。
アーニャは翌朝から何か言いたげだが今は我慢しておいてほしい。また会いたい。その時にアーニャにコンクリ女のこれまでを謝るために、またコンクリ女のもとに行けるのだろうか。日向は疑問に思う。やはり鉄板が仮死状態から復活した。言うまでもなく御曹司の仕業だ。錬金術師や魔鍛冶屋にたっぷり金を払って突貫したのだろう。高炉で鍛錬され装甲も重厚になっているはずだ。「これは銅鑼太鼓の出番だ」日向は身重のアーニャに出撃を命じた。コンクリ女は男には倒せない。おなかの鼓動が邪念のない防衛本能を発揮してくれる。攻めは最大の護りなり、だ。
バンド仲間に探りを入れた。御曹司の個人情報が山ほど出た。どれも悪い噂だ。余程嫌われているのだろう。奴をタダで売りたい人間だらけで助かった。日向はライブのチケットを売り捌き、手薄になったライブハウスに潜入することにした。当日、コンクリ女はいつも通りだった。
ドラムセットは頑丈で、鍵盤楽器は鈍く光り、ベースは存在感があり、ギターは野太く、キーボードは控えめな音を出し、ボーカルは喉が枯れていた。アーニャがステージに上がるとコンクリ女は「あの娘、どこのバンドの人なの? うちのレーベルの所属じゃないよね」と尋ねた。
「お前、気づいてなかったのか」日向はコンクリ女を睨んだ。
「えっ、誰のこと」コンクリ女は動揺している。「まぁ、いい。今日は特別ゲストがいる。こいつら全員ぶっ飛ばすから覚悟しろ」日向は言った。アーニャは静かに語り始めた。「私はかつてあなたを救えなかった。だからあなたの心を救うために、この子のために戦うわ。今日だけは私の演奏を聴いてほしい」アーニャは深呼吸するとマイクスタンドに手をかけた。日向はピアノに指を走らせる。アーニャはギターをかき鳴らし、日向はシンセサイザーを弾き鳴らす。そして、アーニャは歌い始める。「I love you」アーニャの澄んだ歌声が会場に響く。
「君を愛してる」日向のピアノが伴奏する。「愛してる」アーニャは歌った。「ずっとそばにいるから」日向のシンセが音色を変える。「君が好きだ」アーニャのギターが音を紡ぐ。「僕と一緒にいてくれ」日向のピアノがメロディーを奏でる。「君の笑顔をもっと見たいんだ」アーニャの歌が響き渡る。
「君のいない世界なんて考えられないよ」日向はピアノにメロディを刻み続ける。「僕はもう迷わない」アーニャの魂を込めた歌が会場を震わせる。「僕の全てをあげる」日向の情熱的なピアノが旋律を重ねる。「君への想いをいつまでも忘れない」アーニャのギターがうねりを上げる。「君は永遠に僕のものだ」日向のシンセサイザーが雄叫びを上げた。アーニャは歌った。「I love you, I’ll be with you」日向は叫んだ。
「Yeah!」「Wow!」「Fooo!!」観客が湧いた。アーニャは一礼した。日向はピアノを弾いた。「みんな、ありがとう」「最高だったぜ」「アンコール! アンコール」「また聴きたい」アーニャは汗を拭って微笑むと「またいつか必ず歌うわ。その時は、よろしくお願いします」と頭を下げた。
「俺と組め」日向はアーニャの手を取った。「えぇ」アーニャは涙を浮かべて、しかし、はっきりとした口調で答えた。日向は悩んだ。自分が父親になる資格があるかと。しかし、日向が悩みに悩んでいるとアーニャが「赤ちゃんの名前はどうしようか?」と話しかけてきた。日向は「俺が決めていいのか」と問うとアーニャは「もちろん」と答えた。日向は考えた。自分とアーニャの子供の名前。それは……。
翌日、日向は病院に電話した。「はい、わかりました。出産予定日は来年の1月ですね」日向は電話を切るとアーニャに報告した。「女の子だってさ」アーニャは「名前は決まったの」と聞くと日向は「ああ、決めた」と言った。アーニャは「どんな名前なの」と聞いた。日向は「アーニャと俺の子なら……」
アーニャは「うん、聞かせて」と言うと日向は「『ミューズ』だ」と告げた。
「ミューズ……素敵な名前ね」
アーニャは涙を流した。「なんだよ、泣くなよ。まだ生まれたわけじゃないぞ」日向は慌てた。「そうだけど嬉しくって……」アーニャは泣きながら笑った。
日向はアーニャを抱き寄せた。「私達、パパとママになれるのね」アーニャは呟いた。日向はアーニャの頭を撫でると「そうだな。一緒に頑張ろうな」と笑った。アーニャも笑うと「うん、頑張って元気な赤ちゃん産むわ」と答えると日向にキスをした。こうして、日向とアーニャは夫婦になった。壁の街に新たな伝説が生まれた。日向はライブを終えて帰宅した。玄関に入るとアーニャが待っていた。「おかえりなさい」アーニャは出迎えた。「ただいま」日向は靴を脱いでアーニャの肩を抱いた。「お疲れ様」アーニャは優しく囁くと日向の頬に口づけした。「おう、ありがとな」日向も返した。二人は寝室に入るなりベッドに倒れ込んだ。「ねぇ、シャワー浴びなくていい?」
アーニャが尋ねたが日向は「大丈夫だろ」と言って唇を重ねた。それから二人は愛し合った。翌朝、日向は目覚めた。隣ではアーニャが眠っている。日向はそっと起き上がり服を着替えた。
アーニャは妊娠8ヶ月目だ。今年中に産まれるかもしれない。長女《ミューズ》がつかまり立ちするころ一本の電話があった。コンクリ女からだ。
負けたあと破局したかと思いきや壁の街で宜しくやってるという。「今頃、何の用だ?」「夫のDVがひどいの」「そう。俺達には関係ないね。助けてやる余裕もない」日向はけんもほろろだ。「ゆでガエルのつがいは鈍感なのね」「何を言いやがる。切るぞ!」「切ればいいわ。岳父は壁の街の代議士よ。貴方の自治体も巻き込んで音楽を取り締まろうとしている。私は貴方達と縁があるから夫を制止したわ。でも」
「泥船に乗ってるのは俺たちってか!」