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ちひろの朝は、洗面台の鏡の前で始まる。
鏡に映るのは、色素の薄い、絹のような髪を持った、中性的な少年だ。彼は丁寧に髪を整え、お気に入りのヘアピンを二つ、前髪に留める。そして、首元には黒いチョーカーを。それは彼にとって、自分自身を繋ぎ止めるためのささやかな儀式だった。
最後に、彼は鏡の中の自分に向かって、口角を吊り上げる。
「よし、今日も大丈夫」
完璧な、誰からも愛される「可愛い男の子」の笑顔。それが完成して初めて、彼は家を出ることができる。
家の中は、いつも静まり返っている。父親はちひろが幼い頃に出ていき、母親は夜勤明けで眠りこけているか、あるいは不機嫌に煙草を燻らせているかのどちらかだ。ちひろへの関心は、彼が「手のかからない、見栄えの良い人形」である限りにおいてのみ、保たれていた。
「行ってきます」
返事のない玄関に声をかけ、ドアを開ける。一歩外に出れば、そこは戦場だ。
学校。そこはちひろにとって、巨大な胃袋のような場所だった。油断すればすぐに消化され、存在を消されてしまう。
教室に入ると、すでにいくつかのグループが出来上がっていた。ちひろはその間を、すり抜けるように自分の席へと向かう。
「おはよう、ちひろ!」
声をかけてきたのは、クラスの中心グループにいる女子生徒だ。
「おはよう」
ちひろは、今朝鏡の前で作った笑顔を完璧にトレースして返す。
「ちひろって本当、癒やし系だよねー。女子より可愛いんじゃない?」
「そんなことないよ」
謙遜しながらも、彼は心の中で安堵の息をつく。この「癒やし系」というポジションこそが、彼の生存戦略だった。誰の脅威にもならず、誰からも好かれる。そうしていれば、胃袋に飲み込まれずに済む。
しかし、その戦略は、ある日突然、脆くも崩れ去った。
きっかけは、些細なことだった。クラスのリーダー格である男子生徒、健斗が、ちひろのヘアピンに目をつけたのだ。
「おい、ちひろ。お前、男のくせにそんなもんつけて、お釜かよ」
健斗の言葉に、教室が静まり返る。次の瞬間、ドッと笑いが起きた。
ちひろは、凍りついた。笑顔が張り付いたまま、動けない。
「いや、これは……」
「見せろよ、その女子みたいなピン」
健斗はちひろの髪を乱暴に掴み、ヘアピンを無理やり引き抜いた。頭皮に痛みが走る。
「やめて……!」
「あはは、マジで女子みたいな声。おい、こいつのチョーカーも外してみろよ。何隠してんだ?」
健斗の取り巻きたちが、ちひろを取り囲む。彼らの目は、好奇心と、自分より弱いものを踏みつけにする悦びに満ちていた。
ちひろは、必死で抵抗した。チョーカーだけは、外されたくなかった。そこには、母親にヒステリックに首を絞められた時の、消えない痕があるからだ。
「やめて、お願い、やめて!」
彼の悲鳴は、クラスメイトたちの笑い声にかき消された。誰も助けてくれない。彼を「癒やし系」ともてはやしていた女子生徒たちも、今は健斗たちの顔色を伺いながら、遠巻きにクスクスと笑っている。
「……汚い」
健斗が、ちひろの首元の痕を見て、顔をしかめた。
「何これ、病気? うわ、うつるんじゃねーの?」
その言葉を合図に、暴力はエスカレートした。彼らはちひろを「病原菌」扱いし、教科書を隠し、机に落書きをし、トイレで水をかけた。
ちひろは、それでも笑い続けた。
正確には、笑顔を浮かべることしかできなかった。泣き叫べば、もっとひどいことをされる。怒れば、もっと笑われる。彼に残された唯一の防衛本能は、感情を殺し、仮面を被り続けることだった。
「ごめんね、僕が至らないから……」
水をかけられた頭を下げ、濡れた顔で微笑む。その姿は、周囲の歪んだ欲望をさらに刺激した。
家では、母親のネグレクトと精神的虐待。学校では、クラスメイトからの壮絶ないじめ。
ちひろの心は、少しずつ、着実に、硝子細工のようにヒビ割れていった。彼は、夜、自室の鏡の前で、昼間よりもずっと長く、自分の笑顔を確認するようになった。
「……まだ、大丈夫。僕は、まだ、壊れてない」
鏡の中の少年は、青白い顔で、血を流しているかのように口角を歪めていた。