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ちひろの机には、毎朝新しい落書きが増えていた。
「死ね」「消えろ」「お釜」「汚い病原菌」
黒い油性マーカーで書かれた言葉の数々は、まるで彼の心に直接注ぎ込まれた黒いインクのようだった。最初はその言葉を見るたびに心臓が凍りつくような心地がしたが、一週間も経てば、彼は何も感じなくなっていた。
朝、教室に入ると、まず雑巾で机を拭く。それが彼の新しい日課になった。黒いインクは完全に落ちることはなく、机の木目に染み込んで、くすんだシミとして残る。
「おはよう、ちひろ。今日も熱心だねー」
健斗が、取り巻きを連れてやってくる。彼の声を聞くだけで、ちひろの胃が鉛のように重くなる。
「……おはよう」
ちひろは、雑巾の手を止めずに、口角だけを吊り上げる。
「おい、その顔、マジでムカつく。反省してんのか?」
健斗は、ちひろの雑巾を奪い取り、床に投げつけた。
「ごめんね、健斗くん。僕が至らないから……」
ちひろは、床に這いつくばって雑巾を拾う。背中に、強い衝撃が走った。
「あはは! 雑巾が雑巾拾ってる!」
健斗が、ちひろの背中を蹴り飛ばしたのだ。床に顔を打ち付け、鼻血が滴り落ちる。
「うわ、汚ねえ! 病原菌の血だ!」
クラス中が、爆笑に包まれる。誰も、助けてはくれない。かつて彼を「癒やし系」ともてはやしていた女子生徒たちも、今は健斗の顔色を伺いながら、遠巻きにクスクスと笑っている。
「……汚い」
ちひろは、床に落ちた自分の血を見つめながら、小さく呟いた。
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
家でも、安らぎはなかった。母親のネグレクトはますますひどくなり、最近では家に男を連れ込むようになった。ちひろは、自室に鍵をかけ、毛布にくるまって震えることしかできなかった。
「……お母さん、助けて……」
声に出せない悲鳴が、部屋の中に虚しく響く。
ある日、ちひろは屋上で、一人で弁当を食べていた。
(弁当と言っても、母親が買ってきたコンビニのパンだが)
屋上のフェンス越しに、街を見下ろす。全てが小さく、無価値に見えた。
「……ここから飛び降りたら、みんな、後悔するかな?」
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「……いや、違う」
ちひろは、自分の考えを否定した。
「みんなが後悔するんじゃない。僕がいなくなるだけだ。健斗たちは、明日も、明後日も、笑い続ける。僕がいなくなったら、新しいターゲットを見つけて、また同じことを繰り返すだけだ」
彼の中に、これまで感じたことのない、熱く、暗い感情が芽生えた。
それは、自分を虐げる者たちへの、深い、深い、憎悪だった。
「……許さない」
ちひろは、パンを握りつぶした。中身のクリームが、指の間から溢れ出る。
「健斗も、取り巻きも、黙って見てるだけの奴らも……全員、絶対に許さない」
彼の中で、何かが決定的に壊れた。
それまで彼を支えていた「笑顔の仮面」は、もう、ただの張り付いた皮でしかなかった。その下にあるのは、醜く、歪んだ、憎悪の塊だ。
ちひろは、自室の鏡の前で、自分の笑顔を確認するのをやめた。
代わりに、彼は、カッターナイフの刃をじっと見つめるようになった。
銀色に光る刃。それは、冷たく、無機質で、けれど、誰の感情も受け入れずに、ただ、そこにある。
「……綺麗」
ちひろはカッターナイフの刃を、自分の指先にそっと当てた。
何故あんな母親に助けを求めたんでしょうねぇ?