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「私はコンプラガバナンスを唱えているが、それは日常の何気ない言動にこそ現れるものだと思っている」
後藤社長は、廊下に集まった社員たちをゆっくりと見渡した。
「皆が役割分担をして、会社を支えているんだ。それなのに、君は清掃員を軽視した。とても悲しいことだよ」
そう言って、後藤社長は残念そうに目を閉じ、静かに首を横に振った。
その隣では、妻の後藤さんが腕を組み、龍彦を睨みつけている。
「私たち夫婦は清潔好きなの。汚い物を見ると、どうしても綺麗にしたくなる性分なのよ!」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていなかった。
普段から、会社の内部を自分の目で見ていたのだろう。
清掃員だと思い込み、横柄な態度を取った龍彦は、知らないうちに自分の本性をすべて晒してしまったのだ。
「ち、違うんです!」
龍彦が慌てて両手を振った。
「わ、私は仕事に集中すると、周りが見えなくなる性格でして。その……本当に申し訳ありませんでした!」
窮地に立たされた龍彦は、突然その場で土下座を始めた。
「えっ……」
あまりにも突然の行動に、周囲から戸惑いの声が漏れる。
廊下に額をつけ、何度も頭を下げる龍彦。
けれど、後藤社長は顔色ひとつ変えなかった。
「雨森くん」
静かな声に、龍彦が顔を上げる。
「私は、人前での土下座は不愉快極まりないのだよ」
「……え?」
「そんなことをするくらいなら、普段から誠意をもって人と触れ合いなさい」
社長はもう、龍彦を見ることすら嫌になったのだろう。
ゆっくりと視線を外し、後藤さんへと向けた。
「必ず心を入れ替えます!」
龍彦は這うようにして顔を上げた。
「どうか、今回のことだけは……大目に見ていただけないでしょうか!」
必死の形相で叫ぶ龍彦。
後藤社長はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうだな。今回のことを考慮して、君にはふさわしいポストを準備しよう」
「あ、ありがとうございます!」
龍彦の顔が、ぱっと明るくなった。
「できれば……内定しているポストのままでお願いできればと……」
反省したばかりだというのに、自分から希望を口にする龍彦。
後藤社長は眉を上げ、口をへの字に曲げた。
「君は……すごいな」
「……?」
「きっと仕事で疲れているんだ」
「あ、はいっ! お気遣いありがとうございます!」
龍彦は社長の言葉を都合よく受け取り、精一杯の笑顔を浮かべた。
けれど、後藤社長の表情はすぐに真顔へ戻った。
顎に指を当て、少し考えるような仕草をする。
「そうだな。空気が綺麗なところで、ゆっくり癒されたほうがいい」
そして、淡々と告げた。
「不栄支社が適任だな」
社長は目を細め、何度も頷いた。
「……え?」
龍彦の笑顔が、ぴたりと止まった。
「不栄……支社?」
その名前を聞いた瞬間、周囲から小さなどよめきが起こった。
不栄支社。それは僻地勤務であり、仕事で大きな失敗をした社員が送り込まれることで有名な支社だ。
つまり──島流し。
その意味を理解した龍彦の口が、ゆっくりと開いていく。
「そ、そんな……」
さっきまで浮かべていた笑顔は消え、顔から血の気が引いていった。
人事部への異動、その先に描いていた自分の出世街道が、一瞬にして崩れ落ちたのだ。
「時間を取った。第2営業部の視察をすることにしよう」
後藤社長は、それ以上龍彦に構うことなく、彼の横を何事もなかったかのように通り過ぎていった。
廊下に残されたのは、へたり込んだ龍彦と、大勢の社員たち。
「俺の出世が……人事部への……」
シャツはすっかりヨレている。
龍彦は床を見つめたまま、うわ言のように呟いていた。
誰一人として、彼に寄り添おうとする者はいなかった。
だが、ここでも、朝倉くんは朝倉くんだった。
彼はゆっくりと龍彦のところまで歩いていくと、その隣に腰を下ろした。
(朝倉くん……?)
私は息を飲んだ。
いったい、何をするつもりなのだろう。
朝倉くんは表情を変えなかった。
そして、静かに口を開く。
「雨森さん。自分の言動には用心してくださいと、忠告したでしょう」
「……あさくら……」
龍彦が、壊れた人形のように首を動かした。
ぎこちなく朝倉くんを見上げる。
その目には、もう光がなかった。
漆黒の絶望だけが、そこに浮かんでいた。
そのときだった。
ギャラリーの奥から、突然、ハイヒールの音が響いてきた。
カツ、カツ、カツ、音とともに姿を現したのは、眉を吊り上げ、肩を怒らせた野々宮さんだった。
「雨森さん、どういうこと?」
野々宮さんは龍彦の前まで来るなり、荒々しく胸ぐらを掴んだ。
「不栄支社に異動なんて聞いてない! 私、もう退職願を出しちゃったのよ。どう責任を取る気よ!」
彼女も、今までの一部始終を見ていたらしい。
龍彦は呆然と野々宮さんを見ていたが、胸ぐらを掴まれたことで、ようやく我に返った。
「……うるさい!」
龍彦は腕を振り払い、野々宮さんを突き飛ばした。
「きゃっ!」
野々宮さんが廊下に倒れ込む。
心を入れ替えると言ったばかりの龍彦は、倒れた彼女に手を差し伸べようともしなかった。
「人に寄生するな!」
「言い寄ってきたのはそっちでしょ!」
野々宮さんも立ち上がり、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「仕事だって無能だったくせに! 私を騙したわね!」
「俺だって、お前なんか……!」
二人の怒鳴り声が廊下に響き渡る。
さっきまで社長の前で土下座をしていたことなど、すっかり忘れてしまったようだった。
野々宮さんが再び手を上げようとした、そのとき──
二人の間に、一本の掃除モップがすっと割り込んだ。
「……!」
二人の動きが止まる。ゆっくりと顔を上げる。
そこには、呆れた表情でモップを構える後藤さんが立っていた。
「あなたたち、もう止めなさい」
後藤さんは二人を交互に見た。
そして、まず龍彦に視線を向ける。
「真面目に仕事を続ければ、運もまた開けるわ。不栄支社で頑張ってきなさい」
優しい言葉だった。けれど今の龍彦には、その言葉さえも胸に突き刺さったのだろう。
「……はい」と力なく項垂れる。
続いて、後藤さんは野々宮さんを見る。
「それとあなた。誰かに寄りかからず、自分の力で地道に頑張りなさい」
「……っ」
野々宮さんは顔を真っ赤にして、悔しそうに奥歯を噛みしめた。
やがて勢いよく立ち上がると、ハイヒールを大袈裟に鳴らしながら、その場を去っていった。
プライドの高い彼女が、この会社に居続けるのは難しそうだった。
思いもよらない波乱は、ようやく終結した。
社員たちもそれぞれ何事もなかったかのように職場へ戻っていく。
廊下に残されたのは、静けさと、すっかり打ちのめされた龍彦だけだった。