テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
85 ◇理由を訊き忘れた
哲司との逢瀬から帰宅後、入浴をして陶酔から覚めた頃、当然思いを馳せる
べきあることに気がついた。
それは―――
哲司の離婚事由について、だった。
昼間、話を聞かされた直後は舞い上がり、哲司が独り身であったことに感謝したいぐらいに思っていたのだけれども……。
『それが昨年離婚してるんだ』と聞いた時に、理由を訊いておけばよかった。
次に会った時に訊くべきか、はたまた訊かざるべきか。
悶々と悩むばかりで、雅代にはどうすることが最善なのか、結論が出せなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日はいつもより2時間ほど仕事が早く終われた。
寮に向かい歩いていた時だった。
背中越しから声がした。
「雅代ちゃ~ん、お疲れさまっ」
呼び方で誰なのか一瞬で分かった。
おばさんの自分のことをちゃん付けで呼んでくれる人なんて1人しかいない。
私は呼んでくれた人の顔を想像しながら振り向いた。
「絹さん、こんばんは。今日はお休みだったんですね」
「そうよ。命の洗濯ザバザバしてたわよ。今ね、買い物の帰りなの。
もうそこまでだけど、話しながら一緒に帰りましょっ」
「はいっ」
「雅代ちゃんって、確か哲司さん繋がりでここに来たのよね?」
「ええ、哲司さんとは実家が近所で所謂幼馴染っていうやつなんです」
「幼馴染かぁ~、なんかいいわよね。ふふっ。
私は哲司さんとは面識がないからどんな人なのかぜんぜん分かんないけど
やさしい人なんでしょうね」
「はい。特に昨年再会してからは……」
「雅代ちゃんは、その~知ってるのかしら? 温子さんとのこと……」
「あーっ、もしかして絹さんはふたりの関係を知ってるんですか?
哲司さんがこちらの仕事を紹介してくれた時から気になってたんです。
伝手ってどなたの伝手だったんだろうって。社長なのか奥さんの温子さんな
のか、それとも誰か他の人なのか……って」
「そっか。やっぱり知らなかったのね。哲司さんが頼ったのは元奥さんの
温子さんよ、きっと」
「元奥さん? って……えっと哲司さんの離婚した奥さんって温子さんのことなんですか? 私、哲司さんが離婚したことも昨日までちっとも知らなくて」
「あらまっ……。その時に哲司さん、別れた相手のことは何も話さなかったのね」
「はい。後で離婚した理由を訊けば良かったって思ったんですけど、離婚の話を聞いた時は気が動転していて思いつかなかったんですよね~」
そんなふうに絹に話をした雅代は、流石に哲司からプロポーズされたことまでは話せなかった。
そして哲司の離婚した奥さんがよもや温子だったとは想像したこともなかったため、絹と話しながらも心ここにあらずの状況に陥った。
「幼馴染の雅代ちゃんにも流石に相手が誰でどんな理由で別れたかなんて話せなかったのね~」
-1106-
――――― シナリオ風 ―――――
〇製糸工場/寮/共用の浴場・夜
入浴後湯上がりの雅代。
自室に戻り畳に腰を下ろし、ぼんやり天井を見つめる。
雅代(心の声)
「……哲司さんの離婚の理由。
舞い上がって、訊くのを忘れてしまった。
次に会った時に……訊くべき? それとも……」
胸に手を当て、悶々とする。
障子の外で、虫の音が響く。
〇製糸工場から少し離れたところにある寮へ帰る道すがら
翌日、仕事が早めに終わった夕暮れ時
買い物袋を抱えた絹が声をかけられる。
絹「雅代ちゃ~ん! お疲れさまっ」
雅代「絹さん、こんばんは。今日はお休みだったんですね」
絹「そうよ、命の洗濯ザバザバしてきたの。
ちょうど帰るところ、一緒に歩きましょ」
並んで歩き始める。
◇道中の会話
絹「雅代ちゃんって、哲司さん繋がりでここに来たんでしょ?」
雅代「ええ、実家が近所で……幼馴染なんです」
絹「まぁ~、幼馴染! いいわねぇ。
私は哲司さんとは面識がないけど……優しい人なんでしょ?」
雅代「はい。特に昨年再会してからは……」
絹「ねぇ……温子さんとのこと、知ってる?」
雅代、立ち止まりかけて振り向く。
雅代「えっ……ご存じなんですか?
ずっと気になってたんです。
誰の伝手でここに来られたんだろうって……」
絹「それはね、きっと元奥さんの温子さんよ」
雅代「元奥さん……?
えっ、哲司さんの離婚した奥さんって……温子さんだったんですか?」
絹「そう。あら、やっぱり知らなかったのね?」
雅代、顔色が変わる。
動揺しながら歩を進める。
雅代「私、哲司さんが離婚したことも昨日までちっとも知らなくて……」
絹「その時に哲司さん、別れた相手のことは何も話さなかったのね」
雅代「後で離婚した理由を訊けば良かったって思ったんですけど、その時は
思いつかなくて……」
雅代(N)「そんなふうに絹に話をしたものの、流石に哲司からプロポーズされ
たことまでは話せなかった」
絹「理由が理由だから、流石に別れた理由までは話せなかったのね~」
雅代(N)「絹の話しぶりに不安が広がるばかりで、どんな顔をしてこの先の話
を聞けばいいのか分からなかった」