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実際には車の運転もあるし、と今日は飲むつもりなんてなかった想なのだが、夕方に公宣がアパートまで迎えに来て、「今夜は美味い酒も買って来てあるからな? せっかくだし二人とも飲めよ?」と誘ってくれた。
元々酒は嫌いな方ではない想は、結局父親の言葉に甘えて端から車をアパートに置いて来てしまった。
結葉の方はと言うと、あまりアルコールは得意ではなかったけれど、楽しい雰囲気に押されたのだろう。
気が付けば甘めのスパークリングワインのフルボトルを、女性陣三人で空にしてしまっていた。
公宣と想は、出だしこそビールだったけれど、いつの間にか日本酒談義に花が咲いていて、会がお開きになる頃にはみんな楽しくほろ酔い気分。
結葉は想とともにホワホワとした気持ちでタクシーに乗り込んで、つい今し方アパートまで戻って来たところ。
***
「ホントお腹いっぱぁーい」
想が玄関の鍵を開ける間、結葉が隣で無邪気な声を上げる。
お酒の効果だろうか。
幼い頃みたく警戒心の抜け落ちた結葉に、ドアノブに手を掛けながらチラリと視線を流したら、上気した頬がいつもに増して彼女の可愛さを引き立てているようで、ちょっぴり目のやり場に困ってしまった想だ。
それを誤魔化したくて、まるでエスコートでもするかのように扉を開けて「お先にどうぞ」と視線だけで促したら、「想ちゃん、ありがと……」と軽く頭を下げて、結葉が中に入る。
「雪日ぅ〜、たらいまぁ〜」
扉を抜けるなり、死角になっていて見えないはずの愛ハム雪日に律儀に帰宅した旨を伝える辺りが結葉らしくて、想にはこの上なく好ましく思えてしまう。
ずっと一人で暮らしていたこのアパートで、「ただいま」や「お帰りなさい」の挨拶が飛び交う日がくるだなんて思いもしなかったから。
これからは結葉と自分のどちらが先に帰宅していたにせよ、そういうのを言い合えるんだと思うと、何だか凄くいいなと嬉しくなってしまった想だ。
自分のすぐ前でお行儀よく脱いだ靴を揃えて端に寄せた結葉が、ふと立ち上がった瞬間。
彼女の長い黒髪からふわりと甘やかな香りが匂い立つ。
「結葉……」
想は思わず後ろから結葉の小さな身体をギュッと抱きしめてしまっていた。
「想、ちゃっ……?」
想の指先が自分に触れたと同時、ビクッと身体を跳ねさせた結葉が、恥ずかしそうに身体を縮こまらせる。
その反応がとても初々しい感じがして、想の激情に更に薪を焚べてきた。
結葉の長い髪の毛をサラリと横に流して首筋に唇を寄せると、わざと熱い吐息を吹き掛けるみたいに「結葉」ともう一度切なく彼女の名前を呼びかけて、その声に反応したみたいに結葉が小さく肩を震わせて耳まで真っ赤にするから、想はもっともっと彼女を照れさせたくなる。
「結葉、その反応、可愛すぎだろ」
ついでに言わなくても良いのに思わず本音をダダ漏らしてしまった。
「結葉……」
ずっと長いこと、キスさえままならないままに形式だけの〝恋人〟と言う関係を貫いてきた想と結葉だ。
本当は名前を呼んだ先の、今一歩踏み込んだ関係に「このまま進んでもいいか?」と聞いてしまいたかった想だけれど、言おうとしたら喉の奥に言葉が引っ掛かってうまく声に出せなかった。
幼馴染みという期間が長すぎたのがいけないのか、はたまた結葉の離婚の傷がどこまで癒えているのかイマイチ推しはかれないのが敗因か。
結葉に触れようとするたび、まだ早いんじゃないかという躊躇いが先んじて、情けないことに想はどうしてもあとほんの少しの距離が詰められない。
結葉が結婚していた時、彼女の意思とは関係なく力でねじ伏せられ、蹂躙されて来たことは、はっきり言われなくても何となく分かった想だ。
もちろん、想だって健全な成人男性。
好きな女性に触れたいと言う気持ちは物凄く強い。
強いのだけど――。
その欲を一方的に結葉に押しつけることだけは、絶対にしたくなかった。
*
想が自分の名を呼んだきり、辛そうに眉根を寄せたのを見て、結葉はキュッと胸の奥が締め付けられるような切なさを覚えた。
想はいつだって結葉の気持ちを最優先してくれる。
偉央だって付き合っていた頃はそうだったことを思うと、この先に踏み込んだらもしかしたら、という怖さがゼロとは言えない結葉だ。
でも――。
想のことは幼い頃からずっと見てきて、誰よりも知っているつもりだったから。
想に限って言えば、関係性が変化したからと言って偉央のように豹変してしまうことは絶対にないとも思える。
そもそも偉央は新婚旅行に行く前辺りから既に支配者としての片鱗を覗かせていた。
新婚旅行の準備に際して、偉央と一緒に水着を買いに行った時に感じた違和感をふと思い出した結葉は、想との買い物ではそんなことを感じたことなんて一度もなかったことに思い至った。
逃避行の末に遠方のショッピングモールへ服を買いに行った時だって、想は結葉の好みに一〇〇パーセント寄り添ってくれたのを思い出す。
偉央は口調こそ柔らかかったけれど、水着だって結葉が選んだものを却下して自分の好みを押し付けてきた。
初めての営みにしても、結葉の戸惑いなんてお構いなし。ほぼ偉央の強引さに押し切られる形で最後までいってしまった気もする。
結葉はそういうこと自体初めてで、本当に性の知識に疎かったから、そんなものなのかなと思ってしまったけれど……。もしかしたら想とならもっと違った形で初体験が出来ていたのかも知れない。
想は、見た目こそ三白眼で目つきが悪い。その上金髪でやんちゃそうに見えるから誤解されがちだけど、幼い頃から今日に至るまで、一度も結葉に対して高圧的な態度を取ったこともなければ、何か意見を押し付けてくるようなこともなかった。
常に結葉の意見を聞いてくれて、迷えば根気よく答えを出すまで待ってくれる。結葉を尊重してくれる。
結葉は、そんな想しか思い出せないのだ。
「想ちゃん、私……もう、大丈夫……だよ?」
結葉は想の腕の中でくるりと向きを変えると、すぐ傍に立つ想をじっと見上げた。
結葉が告げた「もう大丈夫」が何を指しているのか吟味するように、想が彼女を抱く腕を少し緩めて目の前の結葉を見つめ返してくる。
結葉は、そんな想の頬にゆっくりと手を伸ばした。
靴を脱ぎ終わっている結葉は、玄関ホールの床上にいて、未だ靴を履いたまま土間に立っている想より十数センチばかり高い位置にいる。
無論、そのぐらいの段差では二六センチの身長差はゼロになりはしないのだけれど、いつもよりは気持ち想の顔に近い位置に立てている気がした結葉だ。
結葉は想の頬に片手を触れさせたまま、目一杯背伸びをする。
それでも厳しかったから、ほんの少し想の頬に添えた手で彼の顔を自分の方へ引き寄せた――。
目を閉じて、チュッと掠めるような口づけを想の唇に落とすと、にわかに恥ずかしさに苛まれて、照れまくってしまう。
それを隠したくて、結葉はすぐ眼前の想の胸元にギュッとしがみついた。
そうしていないと、きっと情けないほどに熱を帯びた照れまくりの顔を想に見られてしまうから。
「結葉」
だけど想は結葉が見せたくない顔を、どうしても暴きたいらしい。
力一杯しがみついた結葉の頭を優しく撫でると、「――なぁ結葉、頼むから顔を見せて?」と低めた声で優しく懇願してくるのだ。
「や、ヤダ……。絶対恥ずかしい顔してるもん」
イヤイヤするみたいに首を振ったら、想の胸元に顔をスリスリして甘えている感じになって、何だか余計に照れのドツボにハマってしまった結葉だ。
想はそんな結葉をギューッと抱きしめて腕の中に閉じ込めた。
「ヤバイ、結葉。俺、さすがにもう我慢できそうにねぇわ。――無茶苦茶勝手なん承知で言うな? ……俺、お前のこと、すげぇ抱きたい。優しくするって誓うから……。お願い、俺にお前の全てを奪わせて?」
想が心情を吐露するみたいに嘆願してくるから、結葉は想にしがみついたまま、「うん、いい、よ? 私も……想ちゃんと……したい……です。全部、もらって……下さい」とくぐもった声で答えた。
――長い間、待たせてごめんね。私の気持ちが追いつくのを待っていてくれて有難う、と思いながら。
前に一度ここで結葉と一夜を共にした時とは二人の関係性が大幅に変わってしまった。
あの時結葉は夫から逃げていていたとは言え人妻で、想は単なる幼馴染みのお兄ちゃんだった。
だが、今は曲がりなりにも恋人同士。
山波家にいた時は別々の部屋をあてがわれて各々がそこで寝ていたのだけれど――。