豪奢な造りの玄関ホール一角が、重苦しい空気に包まれていた。
「来たか……ローズ・ランデュシエ」
そう低い声で今のベロニカの名前を口にするのは、帝国の大貴族が一人アダム・ブラッド公爵――今日から夫になる男だ。
真正面に立つ男の濃い薔薇色の瞳が、見定めるように見下ろしてくる。冷ややかな赤の中に、プラチナブロンドの髪とピンクダイヤモンドの瞳を持つ女性が映っているのを見て、ようやく実感が体の内側にすとんと落ちてきた。
今の自分はランデュシエ王国王女、ローズ・ランデュシエなのだと。
そしてこの瞬間から、絶対に知られてはいけない入れ替わり結婚が始まるのだと――……。
***
見張り塔の螺旋階段を駆け上がって開けた場所に出る。ベロニカがぐるりと視線を巡らせると、その先に探している人物の後ろ姿があった。
「ようやく見つけましたよ、ローズお嬢様! もう、ここにいらっしゃったんですね」
脱力しながら早足で駆け寄った相手は、ローズ・ランデュシエ。
ここランデュシエ王国の王女であり、王城で侍女として働くベロニカの主人でもあった。
風で揺れるプラチナブロンドの髪を手で押さえ、ローズがゆっくりと振り向く。
「あら、バレてしまったわね」
甘く輝くピンクダイヤモンドのような瞳でベロニカを見て、ローズは悪戯が見つかった子どものように残念そうな顔をした。
「私を舐めないでください。お嬢様が行く場所といえば温室か裏庭の畑か、この見張り塔と決まってますから。というか、お茶を用意しに行っている間に突然いなくなるのはやめてください。心臓が止まるかと思いましたよ」
「ふふ、ごめんなさい。ベロニカの心臓を止めるつもりじゃなかったの」
「謝れば許してもらえると思っているんですか?」
「いつも許してくれるじゃない」
「……はぁ、まったく」
確かにそのとおりだった。ベロニカはローズに甘く、よほどのことがなければ怒ることはほとんどない。ローズもベロニカのことをよくわかっている。
「ねえ、こっちにきて」
仕方なさそうに額に手を当てるベロニカを、ローズが手招きして呼ぶ。
隣に並ぶと、ローズが何を見ていたのかベロニカはすぐに理解した。
ランデュシエ王国の王城が建っているのは山の中腹。特にこの見張り塔は、その役割の通り王城の中でも一番高い塔で見晴らしが素晴らしく良い。
眼下には城下町。その奥には田園が広がり、さらにその奥には連なる山々。自然豊かな美しいランデュシエ王国の風景。
「いつ見ても感動してしまいますね」
ベロニカがしみじみと呟くと、ローズが視界の端で深く頷いた。
「私、たくさんの緑に囲まれたこの国が大好き。ここで暮らす民も。……でも今日でこの風景も見納めね。しっかり目に焼きつけておかないと」
「……」
(本当はわかってた。なぜローズお嬢様がここに来たのか)
ローズは明日、隣国である帝国の大貴族――アダム・ブラッド公爵に嫁ぐことが決まっていた。
ランデュシエ王国は大陸の中でも国土の狭い国だが、その代わりに温暖な気候と肥沃な土壌に恵まれていた。
その環境を活かすべく農業技術が目覚ましい勢いで発展し、生産される質の良い作物を求めた他国との貿易も盛んに行われ、小国ながらも豊かだった。
だが昨年、原因不明の干ばつに見舞われた。特に小麦やとうもろこしなど主食になる作物は大打撃を受け、各国への出荷ができないだけでなく、国内でも食料難になりかねない状況に陥ってしまったのだ。
おまけに食料を輸入にも頼ったことと、作物を収穫できない農家に支援金を捻出したために、財政も不安定。
そんな存亡が危ぶまれる状態の王国に支援を申し出てくれたのが、ブラッド公爵家当主のアダムだった。
王国の農業技術の伝授とローズとの結婚を条件にして。
つまり、王国とブラッド公爵家、お互いの利益のための政略結婚。
(大事なローズお嬢様が、こんな形で結婚をすることになるなんて……)
心の中でため息をつく。
幼い頃、ストリートチルドレンだったベロニカを拾ってくれたローズ。
恩人でもあり、何にも代えがたい大切な存在でもあるローズの幸せを願ってきたベロニカにとってこの現実は受け容れ難く、悔しさとやるせなさでジリッと胸が焦げる。
雄大な光景を前に静かに佇むローズの横顔を見ていると、ローズと出会ったあの日の記憶がベロニカの脳裏に蘇ってくる。
***
両親を事故で亡くしたベロニカは、暮らしていた街の宿屋や飲み屋の手伝いをし、少ない駄賃と食べ物のおこぼれをもらうことで食いつなぐ日々を送っていた。
ベロニカが八歳を少しすぎた、ある日。
手伝いをした宿屋の店主から小さなパンひとつと銅貨一枚しかもらえず、孤児だからと大人に舐められ、雑に扱われる惨めさと悔しさで最悪の気分で帰り道を歩いていた時だった。
突然雨が降り出し、雨宿りをするために道を挟んだ向かいの家の軒下に慌てて駆け込もうとして、ちょうどやってきた馬車にベロニカは跳ねられそうになった。
運よく馬車が方向を変えてくれたおかげで助かったものの、ベロニカはすぐに自分がしでかした事の大きさに気づいた。
(……貴族様だ)
大きくて立派な馬車を見て、ベロニカは血の気が引いた。
手伝いをする店で大人がよく話していたことを思い出す。
貴族というものは平民をゴミのように扱い、少しでも粗相をしたり気に入らないことがあれば平気で殺す、という話。
雨の中、足止めをしてしまった自分は殺されるのかもしれないという恐怖に襲われる。
馬車の扉が開く音に、ベロニカは慌てて尻もちをついていたのを座り直し、濡れた地面に手をついて頭を深く下げた。
「ごめんなさい! おゆるしください!!」
精一杯謝れば、もしかしたら見逃してくれるかもしれない。
一縷の望みをかけぬかるんだ地面に額を擦りつけていると、ぱちゃ……とベロニカのそばに誰かがやってくる足音がして体が震えた。
「お願いします……殺さないで……」
「いったい誰があなたを殺すの?」
ちぎれちぎれで声を絞り出すベロニカの頭上に降ってきたのは、恐ろしいものではなく幼い軽やかな声。
(え……?)
「大丈夫? 怪我はしていない? ほら、早く頭を上げて。汚れちゃう」
言われた通りに恐る恐る顔を上げると、ベロニカと同じくらいの年の少女が傘を差し、優しい笑顔を浮かべて立っていた。
それが、ローズだった。
ローズは座り込んでいたベロニカの手を引いて馬車まで連れていくと、同乗していた使用人の手を借りて汚れた顔や服を綺麗にしてくれた。
それだけではなくベロニカに親も帰る家もないと知ると、王国の城までベロニカを連れていき、王城で侍女見習いとして働いて暮らしていくのはどう?とまで言ってくれたのだ。
ベロニカはその提案を受け王城で暮らすようになり、一生懸命学び、働き、今こうしてローズの侍女をしている。
家族もなく一人ぼっちだったベロニカに、ローズが居場所を与えてくれた。
******
「そろそろ行きましょうか」
ローズのその声で、ハッとしてベロニカは過去から現実に意識を引き戻した。
組んだ両手を空に向かって伸ばしたあと、ローズはくるりと背を向け見張り塔から城内の廊下に繋がる螺旋階段へと向かう。
ベロニカは急いで、ローズの後ろ姿を追いかけた。
ローズは貴族や平民などの身分や肩書きで人を区別しない。誰にでも平等で優しかった。
孤児だったベロニカに対しても同じで、二人で勉強をし、時には抜け出して怒られ、王城の庭園を駆け回り――まるで姉妹のように過ごしてきた。
ベロニカが成長し、正式にローズの侍女になってからもその関係は変わらなかった。
ローズには仕事と住む場所を与えてもらっただけじゃない。
亡くした家族の温かさ、居場所、幸せをたくさんもらい救われた。
だから自分がもらった以上に、幸せになってほしいとずっと思ってきた。
(干ばつさえなければ……)
ローズにお似合いの素敵な男性との出会いがあったのではないかと、考えずにいられない。
(実際、ローズお嬢様にはたくさんの縁談の話があったんだもの)
国内の貴族だけではなく、他国からも求婚の手紙が来ていたのを知っている。
(可愛いピンクの目とさらさらの髪に清楚な雰囲気。おまけに可憐な笑顔……惹かれない男がいるわけないのよ!)
心の中で思いきりローズの素晴らしさを叫ぶが、ベロニカの表情はすぐに険しくなる。
(なのに国の情勢が不安定になった途端、縁談が全て撤回されるなんて)
王族や貴族の結婚に利益が求められることは仕方がないことだと理解はしている。
けれどローズが結婚するに値しないと見限られたのは、はらわたが煮えくり返って最早爆発しそうなくらい悔しかった。
そんな中で、支援だけでなくローズとの結婚を申し出たのがアダムだったのだ。
(でも……よりにもよってどうしてあんな男が)
ベロニカがこの政略結婚を受け入れられないもう一つの理由。
アダムは帝国の大貴族としても有名だが、それ以外にも『冷徹公爵』という通り名でも有名だった。
とある貴族から領地を奪って焼き払ったとか、とある貴族を一族ごと処刑したとか、耳にするのは恐ろしい噂ばかり。
(そんな人、ローズお嬢様に対して何をするかわからないじゃない。もしも酷い目に遭うようなことがあったら……)
知らない土地でローズが一人苦しむのを想像すると、不安でたまらなくなる。
ローズだってアダムの噂を知らないはずがない。
でも結婚が決まってから、ローズは一度も不安や弱音を口にしていない。
幼い頃からそばにいたベロニカだからわかる。
国のため、国民のために、あらゆることを受け入れる覚悟をしているのだ。
(だから余計に私はローズお嬢様のことが心配でしょうがない。その強い心の下にどんな気持ちを抱えているのか見せてくださらないから)
「あ、見て。山麓が光って綺麗よ、ベロニカ」
ベロニカの心配と不安をよそに、ローズは螺旋階段の途中で足を止め、窓の向こうに見える風景に目を輝かせた。
王国を去る時が刻一刻と近づいてる中、いつもと変わらない笑顔を見せるローズの姿に、胸の痛みが大きくなっていく。
(私は無理やり笑ってローズお嬢様を見送るしかできないの?)
自分は助けてもらったのに、ローズを助けることができない無力な自分が歯がゆい。
(できることなら私が代わってあげたい。ローズお嬢様の幸せのためなら、私はどうなってもいい)
そんな想いを強く抱きながらローズのそばに向かうと、不意にバサバサッ!と大きな羽ばたきの音がした。
(何……、鳥?)
ローズと顔を見合わせ、もう一度外を確認した瞬間、二人の前に見たこともない大きさの不気味なほど真っ黒なカラスが現れた。
黒々とした目をぎょろりと動かしてベロニカたちを睨み、『カアァー!』と凶暴な声で鳴く。
驚きと恐怖でびくりとベロニカの肩が跳ねるのと同じように、ローズも驚いたのだろう。
「きゃ……!」
小さな悲鳴を上げたローズの華奢な体が、ぐらりと傾いた。
階段を踏み外したのか、背中から階下に向かって落ちていくローズの姿が、視界を横切っていく。
「ローズお嬢様……!」
「ベロニカ……っ」
ローズの腕を掴もうと、ベロニカは無我夢中で手を伸ばした。
***
「……ニカ、……ベロニカ!」
自分の名前を必死に呼ぶ声がして、ベロニカはゆっくりと瞼を持ち上げた。
(あれ……? 何が起きたんだっけ……?)
確か階段から落ちそうになったローズの腕をどうにか掴めたのは覚えている。
その後のことは、あまり覚えていない。
でも肩や腕などあちこち痛むということは、生きてはいるのだろう。
(はっ……! ローズお嬢様は!?)
一番大事な人の安否を確認するために、ベロニカは勢いよく上体を起こした。
そして視界に入り込んできた人物の姿に硬直する。
「え……?」
「よかった、目が覚めて」
首の付け根でひとつに纏めた少し癖のある茶色みの強い赤毛の髪に、ヘーゼル色の瞳をした女性が目の前でほっと胸を撫で下ろす。
その女性が身につけているのは侍女用のお仕着せで、どう考えても自分――ベロニカだった。
「わっ、私……!?」
「ベロニカ」
「これはどういうこと!? ローズお嬢様はどこ!? 」
頭を抱えて混乱していると、ガシッと自分の姿をした女性に肩を掴まれた。
彼女はなだめるように数度ベロニカの肩を撫でてから、まっすぐ見据えて真面目な声で言う。
「落ち着いて聞いて、ベロニカ。……ローズは私よ」
「……は?」
ありえない発言に、間抜けにもパカッと口が開き閉まらなくなる。
(私がローズお嬢様……?)
少しも意味が理解できずぽかんと目の前の自分をただ見つめ返していると、ローズだというベロニカは、肩を掴んでいた手で今度はベロニカの手を掴み、髪を掬うように促した。
「自分の姿をよく確認してみて」
言われたまま髪をひと房掴んで見てみると、髪の色が自分のものではない。
陽の光に当てると透ける白金色の髪。……これは。
ハッとして視線を下に向けるとぎょっとする。
体を包む見覚えのある美しいドレス。袖から伸びるのは本来の自分よりも白くて細い腕。
「まさか……私がローズお嬢様に?」
信じられないとばかりに揺れる呟きに、自分の姿をしたローズが深く頷く。
「そうよ。私とベロニカ、体が入れ替わってしまったみたい」
「えええ!?」
(ほ、本当に……!? いや、今さっきローズお嬢様と代わってあげたいと思ったばかりだけれど……!)
「私も未だに信じられないの。でも……」
言いながらローズが自ら頬を抓り「いたっ」と顔をしかめる。
「どうやら夢ではなく現実みたい」
「も、元には戻れないのでしょうか?」
「わからないわ……」
二人でいろいろ考えた末、落ちた時にお互いの頭がぶつかったせいかもしれないということになり再現を試みたが、元に戻ることはなかった。
怪我を覚悟で階段から落ちてみたけれど、それもダメ。
「はあ……困ったわね」
ため息をつきながらローズがほつれて顔にかかった髪を耳にかける。
普段あまりやらない仕草をしている自分の姿を客観的に見ると、不思議でたまらなかった。
「とにかく明日はブラッド公爵のもとに出発する日だけれど、このまま結婚なんてできないわ。お父様と話して、どうするか相談しましょう」
ローズが冷静な声で口にした『結婚』という言葉に、ベロニカは目を丸くした。
(今、ローズお嬢様の体にいるのは私……)
儚げな手のひらを見つめる。
(このまま私がローズお嬢様として結婚すれば……ローズお嬢様は辛い思いをしなくて済むんじゃ……?)
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