「そっ……それは本当なのか? ローズ」
ソファに座る国王が、うなだれるように前かがみになり両手で頭を抱えた。
苦悶の声をこぼす国王の額に、撫でつけていたローズと同じプラチナブロンドの髪の一部がはらりと落ちる。
その隣では、四十代にもかかわらず人形のような可愛らしさを保つ王妃が意識をどこかに飛ばしている。
(そんな反応にもなるわよね。いきなりローズお嬢様と侍女の体が入れ替わったなんて話を聞いたら……)
二人に国王の執務室に集まってもらったのは少し前。事情を説明した数十分で、一気に年齢を重ねたように見える国王と王妃をベロニカは同情するように見つめた。
「本当よ、お父様」
背筋をピンと伸ばして座るローズ(姿はベロニカ)が、凛とした声で答える。
中身がローズだとわかってはいるが、自分の姿で国王に『お父様』と口にしているのを見ると、なんともいたたまれない気持ちになる。
「急にこんなことを言い出して……二人が信じられないのはわかるわ。もし入れ替わった証拠が必要というなら、私だけが知っていることを話すけれど」
そう言って、ローズが国王の秘蔵絵画コレクションだの、王妃の秘密のお茶会のことなどを話し始めると、悲痛に暮れていた国王と王妃が今度は別の意味で慌てていた。
「お前たちの体が入れ替わってしまったというのはよーくわかった」
気を取り直すように咳払いをしたあと、国王は困ったように長いため息をついた。
「しかし、こうなってしまって戻る手立てもないとなると、ブラッド公爵との結婚を進めるわけにはいかないな。ローズはすでに公爵と顔を合わせているから、ベロニカの姿で嫁ぐことはできん」
(きた……!)
待っていた話題に、ベロニカは密に目をきらりと光らせる。
「ええ。だからブラッド公爵には結婚の期限を延ばしてもらえるよう相談を……」
「あの!」
今までほとんど口を開かずにいたベロニカは、ローズの言葉に重ねるように勢いよく片手と声を上げた。
三人の視線を一斉に浴びながら、ベロニカはごくりと小さく喉を鳴らして宣言する。
「ブラッド公爵に相談する必要はありません。このまま私がローズお嬢様として結婚します」
「な、何を言っているの、ベロニカ! そんなのダメよ!」
「お嬢様。私は本気です」
いつもならローズに甘く、ローズがそう言うなら……ということをきいてきたベロニカだが、今回ばかりは引く気はない。
自分がローズを守れるまたとないチャンスなのだ。
こちらの方に身を乗り出しまっすぐ見つめてくるローズをベロニカも見つめ返し、落ち着いた声で言う。
「考えてもみてください。もし結婚の延期を打診して、機嫌を損ねた公爵がこの話自体を撤回したらどうするのですか?」
「そんなこと……」
ローズが言い淀む。
(そう。ローズお嬢様でさえも、『冷徹公爵』がどんな反応をするか予想はできない)
反対されることは想定済み。
だけどこの国の命運がアダムにかかっていることを利用すれば、ローズや国王たちを説得できるとベロニカは考えていた。
「公爵からの支援がなければ、今年一年を無事に過ごせるかわからない状況です。この結婚は王国の存亡に関わることで、立ち消えになるようなことがあってはいけません」
この場にいる誰もが国の状況を嫌というほどわかっている。
それがゆえに口を閉ざし、強く言い返すことができない。
「もしそんなことになったら人一倍責任を感じるのはローズお嬢様ではありませんか。それに……私は最初からこの結婚に反対でした。お嬢様には心から愛する人と出会い、幸せになってほしいんです」
「ベロニカ……」
「私の姿であれば、お嬢様は恋愛も結婚も自由にすることができます」
加えて『冷徹公爵』から酷い目に遭わされる心配もない。
「でもそれじゃベロニカの幸せはどうなるの?」
国の状況とベロニカの想いで板挟みになり、ローズが苦しそうに顔を歪める。
ソファに置かれたローズの片手を両手で持ち上げ、ベロニカは笑顔を浮かべた。
「私の幸せはローズお嬢様の力になれること。ローズお嬢様が幸せになってくれることですよ」
「いや、ダメだ。ベロニカをローズとして行かせるなんて。もし万が一、向こうで何かあったら……」
「そうよ。あなたが心配よ」
国王と王妃がまるで自分の子どもを心配するような眼差しをベロニカに向ける。
二人も孤児だったベロニカを受け入れ、家族のように大事にしてきてくれた。
ベロニカを思う三人の温かい気持ちに、胸がじーんと熱くなる。
くすりと笑みをこぼし、右手でガッツポーズを作ったベロニカはことさら明るく言った。
「私なら大丈夫です! 何年侍女をしてきたとお思いですか? ローズお嬢様として完璧に振る舞ってみせます。決して公爵に入れ替わりがバレるようなことはしません!」
そして駄目押しで、懇願するように瞳を潤ませて国王を見つめる。
これは念のため考えていた最終手段。
ベロニカは知っていた。国王がローズのこの表情に弱いということを。
「これまでお世話になった御恩をお返ししたいのです。お願いします、私を行かせてください……!」
「うぐっ……」
胸を苦しそうに抑えながら数分思い悩んだあと、国王は小さく頷いた。
***
ランデュシエ王国の王城から、アダムの邸宅までは二日かかる。
王城を出発し国境付近の街で一泊したあと、ベロニカは迎えにきた公爵家の馬車で邸宅に向かっていた。
ちなみに王国から誰かを帯同することは許されておらず、単身での輿入れだ。
馬車に乗っているのはベロニカと、公爵邸の侍女長だという三十代後半くらいだろう、一重がキツそうな印象の女性のみ。
チラリと侍女長を盗み見るが、ベロニカの方は一切見ずにツンと澄ました態度で目を閉じている。
(はあ、空気が重い……)
げんなりする気分を紛らわせようと、窓の外の流れる風景に目をやった。
整地された畑が続く光景はランデュシエ王国と似ていて、ふっと王城の人たちとの別れを思い出し寂しさが胸をよぎる。
馬車に乗る最後の最後まで、ベロニカの身を案じてくれた国王と王妃。
感謝と寂しさと悲しさ、三者三様の表情で見送ってくれる使用人たち。
そして、ベロニカの手をぎゅっと強く握って何度も「やっぱりダメよ」と引き止めようとしてくれたローズ。
皆に別れを告げた王女の手を見つめ、そっと握りしめた。
(もう皆には会えない。けどこれでいい……。ローズお嬢様の代わりに私が王国を守って、ローズお嬢様には幸せを掴んでもらうの)
***
それから馬車は半日ほど走り、ようやく公爵邸に到着。
ずらりと並ぶ使用人たちに出迎えられたあと、ベロニカは侍女長に案内され玄関ホールに足を踏み入れた。
(何て豪邸なの……)
周囲を見回して、思わず驚嘆の息をこぼす。
屋敷の外観も宮殿のように大きく豪華な造りだったが、中の装飾も相当お金がかかっている。
目がチカチカしてしまうほどの眩いシャンデリア。高級木材を使用した家具。
ベロニカが屋敷の豪華さに圧倒されていると、一人の男性使用人が申し訳なさそうに近づいてくる。
「ローズ様。アダム様はもうすぐ参られますので、こちらでお待ちいただけますか」
「わかりました」
頷くと、ペコリと頭を下げ使用人は去っていき、その場に一人取り残される。
(仕事でもしているのかしら。でも妻になる女性が単身でやってくるんだから、それくらい調整して出迎えてくれてもいいんじゃ)
到着して早々ぞんざいな対応をされ、こっそりとため息をつく。
ローズを軽んじられているように感じ、文句のひとつでも言ってやりたいという気持ちが湧いた。
(でもローズお嬢様として振る舞うなら……。言ってはダメかしら)
おっとりしているように見えて、ローズは自分の意見もはっきり言えるし行動力もある。
笑顔を浮かべ失礼のないようにだったら、一言くらいアリな気がしてきた。
まだ見ぬ夫にどう文句を言おうかシミュレーションをしていると、広い玄関ホールにカツン……と足音が響いた。
冷たく、そして存在感のある音にベロニカはドキリとする。
近づいてくるその音に引き寄せられるように視線を向けると、スラリとした長い足が目に入った。磨かれた黒の革靴が窓から差し込む光を反射して光沢を放っている。
(あれが……)
ベロニカは、現れた夫――アダム・ブラッド公爵の姿にごくりと唾をのんだ。
漆黒の髪に、筋の通った鼻と薄い唇。深紅の薔薇で染めたような赤の瞳には感情が見当たらず、全身から鋭い冷気が漂っているようなオーラに包まれていた。
(確かに『冷徹』って表現が似合う方ね……。けど、思ったより男前だわ)
アダムについては年齢が二十六歳であることと、寡黙な人だということしかローズから聞いていなかった。
それ以外で知っているのは、例のよろしくない噂だけ。
正直身なりだけは豪華で、他は野蛮で品の無い見た目だろうと想像していたので驚いた。
「来たか……ローズ・ランデュシエ」
あっという間に距離を詰め正面に立ったアダムが、低い声でローズの名前を口にする。
顔を覗き込まれると、その冷ややかな瞳にプラチナブロンドを持つローズの姿が映り込んでいるのが見てとれた。
(ああ……私、本当にローズお嬢様としてこの男と結婚するんだ)
すとんと落ちてきた実感とともに、今この瞬間からベロニカのバレてはいけない秘密を抱えた結婚生活が始まるのだと。
ベロニカは両手に力を込め、ドレスのスカートを慎重かつ優雅に見えるように持ち上げ膝を折った。
「ブラッド公爵、ご無沙汰しております。ランデュシエ王国王女、ローズでございます。この度は我が国への支援を賜り、またわたくしを受け入れてくださり感謝申し上げます」
出発時間ギリギリまでローズと練習した挨拶。
完璧にローズになりきれているだろうと思っていると、頭上からため息が聞こえてきた。
「堅苦しい挨拶はいい。形式上俺たちは今日から夫婦だ。変にかしこまった態度を取らなくていい」
『形式上』と発した声に投げやりな響きを感じ、ベロニカはさっきの苛立ちを思い出してしまう。
「わかりました。『形式上』の妻にお気遣いをいただきありがとうございます」
つい含みのある返答をしてしまったベロニカに、アダムが切れ長の眉をぴくりと上げた。
そして無造作にベロニカの顎を掴むと、グイッと持ち上げた。
見定めるように凝視し、さっきよりも温度が低い声で口にする。
「……以前、王城で会ったときと雰囲気が違うな」
「えっ」
どくんと心臓が跳ねあがる。
(しまった! 私ってば何を言ってしまったの……!)
苛立ちが焦りに塗り替わる。
(ここで気づかれたら追い出されるだけじゃ済まないわ。支援金を返せって言われるかもしれないし、それどころか怒り狂って殺されたり、戦争に発展する可能性だって……)
瞬時に最悪の展開が頭の中を駆け巡り、喉が渇いていく。
(どうにか誤魔化さないと)
「もう少し大人しそうな印象だった気がしたが」
違和感を探し出そうとするように目を細めるアダムに、ベロニカは焦りを必死で隠しながらふわりと微笑んだ。
「初めてお会いしたときは緊張していたのです。男性と話すことに慣れていなくて……。ですが今は、公爵がかしこまらなくてよいと言ってくださったので、気が緩んだのかもしれません」
我ながら言い訳としては及第点ではないだろうか。
(お願い、それ以上は追及してこないで!)
笑顔を保ちつつ、心の中で必死に祈る。
「……なるほど」
アダムはベロニカの顔をしばらく観察していたが、不意にパッと指を離した。
(納得してくれた……?)
どういう反応なんだろうと様子を窺っていると、アダムが一歩距離を詰めてきた。
アダムの纏う空気の鋭さが増し、ベロニカの体が強張る。
「正直俺はあなたがどんな女か興味はない。ただし、これだけは忘れるな」
ベロニカに向かって囁く言葉は冷たいうえに刺々しい。心臓に刃物を突きつけられているような恐ろしさを感じ、ベロニカの頭が真っ白になる。
「俺たちは互いの利益のために結婚した。支援を打ち切られたくなければ、俺に疑われるような行動はするなよ。王女様」
言い終えると、アダムはくるりと踵を翻しベロニカのもとから去っていった。
残されたベロニカの体が、重圧から解放された安堵で小刻みに震え始める。
二の腕を片手で掴み、足を踏ん張らないと膝まで震えて床に座り込みそうだった。
そしてこの入れ替わり婚がどれだけ危険な綱渡りなのかを認識した。
一瞬でも気を抜いたら、きっとすぐに気づかれてしまう。
「……絶対にやり遂げなきゃ」
ベロニカの固い決意の呟きが、広い玄関ホールにぽつりと落ちた。
***
アダムと対面したあとは、時間があっという間に過ぎていった。
侍女長に邸宅の案内を受け、ベロニカ専属となる侍女たちと顔を合わせただけで、もう夜だった。
あれからアダムとは顔を合わせていない。夕食はだだっ広いダイニングで一人で食べた。
「顔を合わせないのは都合がいいけど……迎えといい夕食といい、本当にこれが夫婦なの?」
用意された自室のベッドに横たわり、枕をぼこぼこ叩きながら不満を言い募る。
王城にいたころ、ローズは毎日家族と食事をともにしていた。
温かい食事風景が当たり前だったローズがあんな寂しい食事の時間を過ごした可能性を考えると、苛立ちだけでなく胸が苦しくなる。
――『正直俺はあなたがどんな女か興味はない』
アダムの言葉を思い出す。想像通りのことが起こり、やっぱりローズと入れ替わってよかったと思った。
ローズにあんな言葉を聞かせたくないし、寂しい食事もしてほしくない。
(私は平気。誰にも興味を持たれないのも、一人寂しく過ごすのも耐えられる)
ストリートチルドレンだった経験がここで活かされるのかと、何とも変な巡り合わせに自嘲する。
ただでさえ長時間の馬車移動に屋敷内を歩き回って疲れていたのに、いろいろ考えたら疲労感がさらに増した。
もう寝てしまおうかとごろりと寝返りを打ったとき、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」と返事をすると、侍女たちが小瓶やら着替えやらを抱えて入ってくる。
(何……?)
戸惑うベロニカを囲むと、侍女の一人が前に出て言った。
「奥様、まだお休みになってはなりません」
「え?」
「これから初夜の準備をさせていただきます」
「へ……?」
小さく口を開けたベロニカは、きっと滑稽な顔をしていただろう。
(しょ……初夜……!?)
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