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下が上になったモルド城の床下でハーミュラーは呪いの歌と竪琴の音色と糸を紡ぎ続けている。人の体は糸の塊の椅子に座り、蜘蛛の体は足を折り曲げて寛いでいた。魔法少女ユカリはモルド城に付かず離れず周囲を旋回している。
「あなた一人で来たのですか?」と言葉を発してしているのに、不思議なことにハーミュラーの歌声は一切中断されずに響き続けている。
口が他にもあるのだろうか。少なくともユカリの目には見つけられないでいる。
「ハーミュラーさんも、一人っきりだからって止まれなかったでしょ?」
「私の頭上には常にシシュミス神が坐します」
「それなら私にだって手を取り合えるみんながいますよ」
ユカリを鼓舞するように、ハーミュラーの歌を跳ね除けるように地上から四人の楽の音が響いている。
「健気な抵抗ですね。身をもってご存じでしょう? ほぼ九等分のクヴラフワの一領地しか解呪できない、か弱い響きだということを」
ユカリは心の内で憮然とする。ハーミュラーもまた同じ魔導書の力を使っているはずなのに、呪いを解く歌ではなく、呪いをかける歌なのはなぜか。この魔導書があくまで力を貸しているだけに過ぎないということだ。であれば、ハーミュラーがクヴラフワ全土を呪える、その力の差は何か。これが半神と人間の差だろうか。否をユカリは確信する。
「ハーミュラーさんこそ、この糸がないとクヴラフワ全土に呪いを届けられないんでしょう?」
「そうだとして、貴女に何ができますか?」
試しに糸の束の一つに杖を押し付けて【破壊】する。糸の束はモルド城から地平線の向こうまで宙に消えたが、ハーミュラーは変わることのない温もりある笑みで歌い、楽と糸を紡ぎ続けるだけだった。すぐに糸が遠隔地を結びつける。嫌がらせくらいにはなったのか、それすら分からない。
ならば、とユカリは杖から激しく空気を噴出する。飢えた猛禽の如く、宙を駆け、糸束に飛び掛かっては切断する。一切の歯応えなく軽々とハーミュラーの紡ぐ糸を引き裂いていく。
「無駄ですよ」とハーミュラーは至極冷静に忠告する。「いくらわたしたちの繋がりを断ち切ろうとも、糸も歌も限り無く放たれ続けます」
その言葉通り、ハーミュラーの周囲を囲む蜘蛛の巣から新たな糸が四方八方へと放たれる。しかしそれは裏を返せば、全ての繋がりを断ち切られた状態を看過できないという自白のようなものだ。
ユカリはますます速度をあげて兆しを運ぶ流星の如く飛翔し、ハーミュラーの周囲を大きく巡りながら空気を千切る唸り声のような音を纏って、呪いを伝える糸を断ち切り続ける。こうすれば、きっと無駄な足掻きをしているとハーミュラーは捉えてくれるはずだ。
空を旋回しながらハーミュラーをつぶさに観察し続け、僅かな変化、油断からかユカリを八つの目で追わなくなったことに気づくと、直ちに杖の軌道を変え、蜘蛛の体の背後から急接近する。
しかしハーミュラーは蜘蛛の脚で器用にユカリを掴んで押し留めた。両腕を掴まれ、びくともしない。
「先ほども言いましたよね。私には触れられませんよ」
「そうみたいですね」
ユカリはその異形に【息を吹きかけた】。その意識は半人半神の体の中に入った。
八つの瞳に人間の四肢、蜘蛛の八肢の隅々までユカリの魂が行き渡る。混乱はない。不思議でもない。今までも、鳥に【憑依】すればすぐさま飛ぶことができ、空を飛ぶ者たちに特有の空気の感じ方や風を読み取る勘所まで把握できたのだ。だからハーミュラーの体に憑りついたユカリは糸の紡ぎ方も理解し、止め方も分かる。意識を失ったユカリ自身の体をそっと寝かせ、ただちに糸繰を止めようとする。
だがそうはならなかった。ハーミュラーの体は歌い続け、竪琴を奏で続け、糸を紡ぎ続けた。それでいて、その邪魔をしない範囲でユカリは自由に体を動かせる。八つの瞳で周囲を見渡し、人間の足で、蜘蛛の脚で地団太を踏む。
「恐ろしい人ですね」とハーミュラーが声を震わせて言った。「私の体を乗っ取るだなんて。でも、決して私の使命を押し留めることはできない。たとえ、私の魂を羽交い絞めにしても、シシュミス神に賜った崇高なる使命は我が体を突き動かし続けるようです。さて、他に手は用意されていますか?」
「ええ、もちろんです!」
ならば、せめてこの体を最大限に利用する。ユカリはハーミュラーの体で四方八方に糸を放った。モルド城と同様に、モルド城と向かい合うように新たな巨大な蜘蛛の巣を築く。そして最後に地上へと無数の糸を放つ。
「一体、何を――」
教団に貸し与えられ、およそ三か月のあいだ世話になった屋敷とその周囲を絡め取り、楽の音を奏で続ける仲間たちごと引き上げる。そうして屋敷とモルド城を蜘蛛の糸で接続する。
「これで私たちの楽の音もクヴラフワ全土に響き渡るってわけです」
ハーミュラーの爪弾く呪いの楽とユカリの仲間たちの奏でる解呪の調べが混ざり合い、競い合うようにクヴラフワ全土で鳴り響く。
次の瞬間、ユカリはユカリの体に戻っていた。横たわった体が蜘蛛の糸に縛られ、その衝撃で魂が引き戻されたのだった。しかしその糸はハーミュラーから放たれたものではなく、はるか天の高みから降りて来ていた。杖は手に取るがしっかり関節を抑えられ、糸を切ることは出来ない。
屋敷の方では皆がユカリを案じて叫んでいるが、楽の音を止ませてはいけないこともよく分かっている。
「おお、いとも貴きシシュミスよ。お手を煩わせてしまい、申し訳もございません」ハーミュラーはますます声高らかに歌い上げる。「さあ、不遜なる者たちよ。そこで見て、聞いていなさい。尊き使命の前に邪なる野望の打ち砕かれることを」
ハーミュラーの蜘蛛の肢の一つが大きく持ち上がり、その鋭い足先でユカリを貫かんと踏みつける。
しかし、途端にユカリの視界から全てが消え、そして現れた。
深奥の景色、深奥のビアーミナ市がユカリの眼前に広がっている。エイカが克服者の力を使って深奥へと引っ張り込み、救い出してくれたのだった。
ビアーミナの街とハーミュラーの魂の輝きは異物と混ざり合ったような輝きを放ち、その輝きは各地から糸に沿って送り込まれている。一方でユカリや空に浮かぶ屋敷で解呪の調べを奏でる仲間たち、その放つ楽の音は調和を生みつつ、糸をたどって送り出されていく。
ユカリを助け出してくれたエイカは得意げな顔でユカリの言葉を待っている。
「ありがとう。助かったよ」
エイカはほっと溜息をつく。
「お節介にならなくて良かったよ」
「まだ安心できないよ!」と叫んでユカリはエイカを抱え、杖に乗ってモルド城の魂から離れる。
空から次々に蜘蛛の神の糸が降り注ぐ。
「どうしてこっちを狙うの!?」とエイカが叫ぶ。
どうしてだろう。邪魔をするなら邪魔をしている演奏を止めた方が良さそうなものだが。神さえも手出しできないのだとすれば、ユカリは二つの経験を思い浮かべる。
月の眷属たる熱病が夜の女神の血を引く者に手出しできなかったこと。
海神の眷属たるフォーリオンの海が火の女神パデラの神殿に手出しをできなかったこと。
つまり解呪の楽器か衣か、あるいは装身具の魔導書そのものが原因かは分からないが、変身すれば神とて神に関わる者にはおいそれと手出しできないに違いない。問題は、装身具の魔導書は五つ手に入れて一つ破壊されてしまったということだ。今ユカリの手にはない。
ユカリは一つの結論に達する。ハーミュラーの糸を利用したように、その信仰までも利用すればいい。ユカリはハーミュラーの糸に触れ、ハーミュラーに語り掛ける。その言葉は糸を伝ってクヴラフワ各地で響くはずだ。
ユカリは堂々と言葉を弄する。「どうして私がこの地に呼ばれたのか、今分かりました!」
「呼ばれた? 何の話ですか?」
「前に言ったじゃないですか。天に輝く八つの瞳、シシュミス神の糸によって私は釣り上げられ、この呪われたクヴラフワの地へと降り立ったのだ、と。その理由です。私はきっと貴女を止める、その使命を授かったんです!」
「何という冒瀆を! 我が信徒を惑わそうという魂胆ですね!?」
やはり狙い通りだ、とユカリは確信する。ユカリとハーミュラーの言葉は糸をたどって音楽と共にクヴラフワ全土へ響いているのだ。
「違います!」ユカリはここからは見えない、呪いに苦しむ人々に訴えかける。「克服の祝福は呪いです! 呪いとの融合です! ハーミュラーさんこそクヴラフワの人々を騙そうとしています!」
「誰もあなたの虚言に騙されはしませんよ。長き苦しみを消し去った祝福の力を疑う者などいません」
たとえ呪いだとしても苦しみの少ない方を選ぶのは人の性なのだろう、とユカリも思っている。だが、目先の苦しみでしかない。
「私が魔導書の力で、全ての呪いを消し去ってみせます! クヴラフワを救って見せます!」
「尻尾を出しましたね! 愚かな魔女よ! 忌まわしく邪な力! クヴラフワどころかグリシアン大陸を苦しめてきた魔導書の力で救いを語ろうとは!」
ユカリが押し黙ると勝機を見出したハーミュラーの言葉が次々に溢れ出す。逆に、呼応するように、クヴラフワ全土からユカリの元へ怖れが逆流しているようだった。
ユカリはそのまま楽の音で対抗し続ける皆の関係性の具現化たる蝶を見出し、深奥から抜け出す。
ユカリの黒い髪に撫子色の流星を模した新たな髪飾りが加わっていた。そして変身する。ユカリは決意を込めた眼差しをハーミュラーに送り、杖をしっかりと握りしめる。