「一体、何故ですか!?」ハーミュラーが瞳の内に炎を燃やしてユカリの髪飾りを睨みつけ、問う。「誰があなたを信仰しているというのですか!?」
信仰ではなかったのだ。装身具の魔導書を得るにあたって、ユカリは信仰されてなどいなかった。それは半神ハーミュラーも同じだ。シシュミス教団の信徒が信仰しているのはシシュミス神であって、巫女ではない。ならば何故、ユカリもハーミュラーも装身具の魔導書を手に入れられたのか。装身具の魔導書はユカリやハーミュラーに何を見出し、求めていたのか。
「信仰されてるわけじゃなくて、私はむしろ安心したよ」ユカリの誰にも聞こえないはずの小さな声が拡がり、クヴラフワの隅々まで行き渡る。「誰かや何かに縋るより前に、みんな、ただ、怯えてたんだ」
その答えは恐怖だ。装身具の魔導書も合掌茸も恐怖に根付いていたのだ。クヴラフワの皆が怯えていて、恐怖の対象にこそ更なる力を与える悪辣な魔導書だ。
既にハーミュラーの歌は、音楽は鳴り響いている。朝に祈る『黎明告げる祈り』、昼を寿ぐ『陽の音色、舞い降りて』、夜へ願う『星降る夜の讃歌』、そのどれとも違う楽の音が蜘蛛の糸をたどってクヴラフワ全土に響いている。四十年もの間、クヴラフワの大地を汚した九つの呪いと呪いに苦しめられた人々を一体化させて卑しめる、祝福を騙る魔術の歌だ。
それは救いではない。その先に喜びはないと信じるベルニージュ、レモニカ、ソラマリア、グリュエーの楽の音が対抗しているが、まだ力が足りない。単純な足し算で、ユカリ一人が加わったところで足りるはずもなかった。しかしユカリが変身をしたと同時に、何故かその力の差が大きく縮まるのを感じた。
これで終わらせる。止まっていた時を進め、新たに始める歌だ。ユカリは音に身を浸す。
【闇濃い海底を流れる大いなる蠢きのようにソラマリアの深い四弦琴の音に揺さぶられ、巻き込まれ、絡め取られて、調子づく。
雷雲轟くが如きレモニカの太鼓は、しかし生命の拍動に似て、剥き出しで繊細ながら確かな律を刻んで後押しする。
グリュエーの鍵盤は移り行く季節の狭間のご機嫌次第で気まぐれな音色、時に嵐、時に颪、時に凩、しかし逸れることなく包み込み、音の流れを取り巻いている。
導くように先を行くベルニージュの六弦琴は情熱に爪弾かれ、優雅に奏でられ、神秘で彩られ、最後の欠片を受け止めんと待ち構えている。
ユカリの声が、感情が混ざり合い、解呪に留まらない歌唱が、解放の歌がクヴラフワに響く。
待ち構えるのはハーミュラーの楽の音。水のように透き通る声は、しかし苦難を訴えるように重々しく、聞く者の芯に突き刺さる。たった一台の竪琴は、しかし絹のように繊細な音色を幾重にも重ね、ハーミュラーの力ある詠唱を支え、苦しみに喘いできた者たちを包み込むように、怒りを秘めた者たちに許しを与えるように、悲しみに打ちひしがれる者たちに寄り添うように鳴り渡る。
クヴラフワに生きる皆が二つの楽の音を聞いている。
ハーミュラーの歌い上げる呪縛の歌は無数の腕でか弱き者ども抱擁するようにクヴラフワ全土を包み込む。それは天上の神々と地上の人間を仲立ちする巫女の慈しみの如き力だ。
五人の奏でる解放の歌は偽りの空に拳を突き上げるようにクヴラフワ全土に響き渡った。それは星々に座する神々にも伍する魔女の怒りの如き力だ。
呪縛の歌が呪わしい生を生きる人々をその温かな手で包み込むと、解放の歌はその手を引き裂いてしまい、人々を再び冷たい大地に追い返す。
しかしユカリの歌はその拳で冷たい大地を温め、真っ暗な洞に光を差し、穢れた湖を浄め、血を啜る刃を叩き折り、翼無き者に思慮を与え、飢えた獣を遠ざけ、身一つの者の手を取り、亡者を弔い、生者を庇い、囚われた者たちを解放する。
だがハーミュラーの歌が一度その柔らかな微笑みをクヴラフワに向けると、全ては元通りに呪われた。
まだ足りない。まだ足りないのだ。半神として目覚めたハーミュラーには及んでいない。
ふとユカリは、空に張り付いて地上を眺め下ろすシシュミス神を見遣る。
さっきはハーミュラーとクヴラフワの人々にはったりを言ったユカリだが、本当のところはシシュミス神が自身をクヴラフワの地に呼び寄せた理由など分かっていない。本当にハーミュラーを止めるのが使命ならば、今こうしてハーミュラーの方を手伝うはずもないのだから。
何に利用しようとしたのか分からないが、今ならばこちらの方から利用できるかもしれない。
「母さん! 義母さんは見つかった!?」とユカリは虚空に叫ぶ。
「もちろん! ばっちりだよ!」とエイカの声だけが深奥から聞こえる。「だけどハーミュラーを何とかしないと戻れそうにないってさ!」
「一瞬でいいです。深奥に沈んだ空を皆に見せられないですか?」
今まさにクヴラフワは深奥へと接近するための最適な混沌状態に陥っている。義母なら可能なはずだ。
しばらくして返事が聞こえる。
「時間をくれってさ!」
解放の歌が、呪縛の歌がお互いの姿を見止めると、かつて勝者を称えることのなかったクヴラフワが希う。終わらせてくれ、決着をつけてくれ、と。
半神に奏でられる呪縛の歌がクヴラフワの隅々まで根付いた恐怖に支えられ、優美に壮大に激しく爪弾かれる竪琴の拳を弓弦の如く引き絞り、放つ。ハーミュラーと克服者たちの合唱によって尽きることなく放たれ続ける。
再び呪いは勢いを強め、クヴラフワの地に満ちる。
嵐の如き呪縛の歌を浴び、解放の歌が膝をつく。掻き消されまいと堪えるが、呪縛の歌の力は尽きることなく溢れ出している。ただただ必死に歌い、奏で続ける。肉体は疲れ、喉も詩興も枯れ、それでも魂を剥き出しにして解放の歌をうたう。
「さあ、貴女方にも祝福を授けましょう!」ハーミュラーの声がハーミュラーの歌を背にして届く。
「呪いも祝福もいらない!」
ユカリの叫びに呼応するように、呪われた空に浮かぶ八つの緑の太陽を八つの緑の眼とした蜘蛛が現れた。その光景をクヴラフワの全ての人間が目にする。眠っていようとも、背を向けていようとも、盲いていようとも神が御姿を顕したならばお目にかかったという事実となる。
「嗚呼、貴き我が神よ」ハーミュラーの言葉が震えて響く。「お力をお貸しくださるのですね」
ただでさえ圧倒している呪縛の歌が解放の歌を掻き消さんとその力を強める。
しかしユカリは機を逃さず歌に乗せてクヴラフワに宣言する。
「聞け! シシュミス! 私こそが全ての魔導書を渉猟する者! たとえ神が所有しようとも必ず奪い取る! 魔法少女ユカリだ!」
シシュミス神は何の反応も示さずに再び八つの眼を残して深奥に潜った。
ユカリの不遜で、不敬で、冒涜的な言葉がクヴラフワ全土に生み出した怖れは、その中心地に集う。
ユカリの不敵な【微笑み】に呼応して、いつもの魔法少女の姿に変身する。だが、髪飾りは姿を消すことなく煌めいていた。
装身具の魔導書はさらなる変身をユカリに与える。髪飾りの撫子色の金剛石から銀の光が溢れ、光は輝かしい絹糸となって、魔法少女の体を覆う。
傷つくことのない魔法少女の薄桃の衣を解きほぐし、水に溶けるように混ざり合うようにして新たな衣装を織りあげる。雪片よりも細やかな銀の綾織に装われた、救いの力を内に秘めた錦繍が紡がれる。神々しい楽の音のように波打つ縁飾に縁取られた裾が歌声の如くはためく。膨らかな菫色の飾紐に飾られた、華奢ながら迫力のある踵が足元を彩る。漆黒の外套は抱擁するように軽く締め付け、星を象る黄金の襟止めに形を調えられる。そして杖も新たな姿へと変わる。柄が長く伸び、足元で広がって自立する。
解放の力を身に着けた魔法少女だ。
解放の歌が呪縛の歌の見舞う拳に抗う。無尽の拳を全て受け止めながら膝を立て、熾烈な衝撃を跳ね返すように背を伸ばす。
解放の魔女は主題を迎える。レモニカの太鼓が荒々しく鼓動し、血を巡らせ、力を漲らせる。グリュエーの鍵盤が大きく息を吸い、ソラマリアの四弦琴が大地を踏みしめる。ベルニージュの六弦琴が固めた拳を振りかざし、ユカリの歌唱が全ての力を込め、捩じりあげた全身を弾けるように解き放ち、今、解放の歌が呪縛の歌を打ち抜く。】
打ち破られたハーミュラーの歌声が断末魔の如き叫びへと変わる。
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