番外編『ルウの記憶』
夜のアークには、ひときわ静かな時間がある。
居住区が灯りを落とし、人々が眠りにつくころ、ドームの外に星が滲むように広がっていく——
その時間を、ルウは好んでいた。
彼は今日も、アークの外縁にある小さな庭園の一角にいた。
そこはノアが最初に空を見上げた場所。
そして、彼自身が“自由”を感じた場所でもある。
ルウはそこに座り、静かに目を閉じた。
——そして、夢を見る。
そこはまだ“空”を知らなかった世界。
灰色の空と、冷たい檻。
彼はただ、観察され、測定される存在だった。
けれど、ある日——
「こんにちは。きみの名前、つけていい?」
その声が、すべてを変えた。
少女は、小さな掌で彼に触れた。
その手は震えていたけれど、優しかった。
まるで彼が“生きている”と信じているような温かさだった。
「じゃあ……“ルウ”って呼ぶね。私が決めた、はじめての名前なんだ」
そのとき、初めて彼は“言葉”というものが、こんなにも心に響くものだと知った。
——だから彼は、この声に応えようと決めた。
「……ノア」
ルウは目を開ける。
庭園に続く道から、ひとりの少女が近づいてきていた。
「いた……やっぱり、ここにいたんだね」
ノアだった。
「報告書、今日の分終わったんだって。お疲れさま」
ルウはしっぽで軽く草を揺らす。
「なんとなく……来たくなったの。今日は、あの日のことを思い出してて……私が、あなたに“ルウ”って名前をつけた日」
(あれは……不思議な日だった)
「うん。私も、どうしてあんなに自然に“名前”が出たのか、今でも不思議なんだ」
ノアはルウの隣に腰を下ろす。
「でもね、あの時の私、きっと“この子をひとりにしちゃいけない”って思ってたんだ。
そしてたぶん、私自身が——誰かと繋がりたかったんだと思う」
ルウは、黙って空を見上げる。
その視線の先に、星が流れる。
(ノア。お前の声が、俺を目覚めさせた)
「……え?」
(目を閉じて眠っていたとき、何度も夢を見た。
でもどれも冷たくて、音のない夢だった)
ノアが小さく息を呑む。
(でも、お前が“名前”をくれたとき、初めて夢の中に“音”が生まれた。
それが……共鳴だったんだ)
ノアの目に、涙が浮かぶ。
「……私も、あなたの声がなかったら、たぶん……今の私はいなかった」
しばしの沈黙。
そしてルウが、ひとことだけ呟いた。
(ありがとう)
ノアは笑った。
「ううん、私の方こそ……ありがとう。
“ルウ”になってくれて」
夜が明ける。
庭園の端に朝日が差し込み、ふたりを優しく包む。
世界はまだ、答えをくれない。
けれど、それでも前に進めるのは——
あの日交わした、“名前”という絆があるから。
番外編・完
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