コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ふらふらとした足取りでソラマリアが戻ってきた。そして二人並ぶリューデシアとソラマリアの姿のレモニカをじっと見つめる。
「ヴェガネラ様と私……」そう呟くと倒れ込むような勢いで二人の向かいの椅子に座り、机に縋りつくようにして何とか状態を支える。そうして静かに啜り泣き始めた。
ソラマリア同様、酒に潰れた者たちが増え、宴は徐々に鳴りを潜め始めていた。それでもどこかで新たな番の誕生を祝福する楽の音が流れ、神々にその加護を願う詩が捧げられている。
「こんなソラマリア、初めて見ましたわ」レモニカは目を丸くしてソラマリアの銀色の頭頂部を見つめて呟いた。
「私も……」と言いかけてリューデシアは過去に何かを見出す。「ああ、でも小さい頃は時々泣いていた気がする。まあ、攫われてきた子は大体よく泣くものだったけど」
レモニカは幼くて弱々しいソラマリアを想像してみようとしたが上手くいかなかった。以前に聞いた、若くしてその強さを見込まれて首席焚書官になったという話が邪魔をする。
「それに、わたくしたちってお母さま似ですのね」
「私もうろ覚えだから。父上の顔も覚えてないし」
ソラマリアはまるで机の下に隠れ潜む何者かに語り掛けるように何事かを囁いているが、レモニカには何も聞き取れない。ただ端々にヴェガネラという言葉が聞こえる。
「それほどまでに素晴らしいお方だったのでしょうか」とレモニカは独り言のように言った。
「誰が?」酒杯を少し傾けてリューデシアは言う。「……ああ、母上ね。まあ、何せ神だし? 奉られるだけのことはあるんじゃない? 神話をそのまま鵜呑みにするなら、姉妹揃って苛烈な二柱は天と地を焼き尽くす力を振るっただとか、巨人の屍で祭壇を築いただとか」
姉リューデシアの語る神話の一端はレモニカもよく知っていたが、とても身近な人物の出来事には感じられない。
「いつか聞いてみたいものですわ。ソラマリアの思いの丈を」
「今聞いてみればいいんじゃない?」でもどうやって、とレモニカが尋ねる前にリューデシアが使い魔の一人を手招きで呼び寄せる。
「なんか御用ですかね?」吟じる者は不機嫌を隠さずに問うた。
「札を。ソラマリアに貼るから」とリューデシアは当たり前のことのように言う。
「私は今ユカリ派に所属しているのでね。その【命令】には従えませんよ。もちろん剥がそうとするなら抵抗します」と吟じる者はぶっきらぼうに返した。
「じゃあレモニカの言うことなら聞くはずよね」とリューデシア。
「しかし、ソラマリアの許可なく過去を掘り返すようなことは……」
「違うよ、レモニカ。聞くのは我らが母上のこと。どういう人柄だったのかをね」
「……それなら、まあ。全く記憶にないお母さまのことは少しでも知りたいですが」
渋々という体だったがレモニカ自身興味は尽きなかった。リューデシアの狙いは分かっている。母のことを聞く形で、ソラマリアが母のことをどう思っているのか、どれくらい思っているのかを読み取ろうというのだ。レモニカもまた母ヴェガネラのことよりもそちらの方が気になっていた。
レモニカはそうとは知らないふりをして、吟じる者をソラマリアの首筋に貼り付ける。
「少しは人の心を盗み聞きさせられる使い魔の気持ちも慮って欲しいものですね」と使い魔はほんのり染まったソラマリアの頬を歪めて愚痴る。
「ごめんなさい。吟じる者。わたくしたちのお母さま、ヴェガネラ妃のことだけでいいから教えて」
ソラマリアは溜息をつきつつも仄かな笑みを浮かべ、遠く輝かしい過去を懐かしむように僅かに仰ぐ。
神話よりなお古き御代、誉れ高き女神あり
気高き者の守護者となりて地の底の民呼び覚ます
大樹の根さえ届かぬ地より、竜をも恐れぬ者来たる
天地の火焔片身に浴びて女神を彼方へ拐す
根の一族は大いに嘆き、女神を追って放浪す
二手三手に四手と別れ、全ての大地によく根付く
新たな王妃、荒野に座して強き者ども嘉し給う
強き者ども大いに奮い、働き、祝い、剣と死す
長き時経り、枝葉は茂り、真黒き影を地に落とす
王妃自ら刃を持ちて、ただ一閃に剪り落とす
民草集いて、先の世憂い、気炎を吐くも霧煙る
高き座より降りたる王妃、ただ一声に切り払う
罵声怒声を掻き消したるは轟き渡る慈悲の声
若き悪鬼の虚ろを見るや懐深く抱き給う
若き剣鬼の後ろに控え、なお隠せぬ影の威光
王無き者ら慰め給い、新たな道を指し示す
呪いに遭いて、末子を愛し、狂気に遭いて、庵に消ゆ
闇にあって、静寂にこもり、飢えと渇きに囁きたり
吟じる者がソラマリアの内から絞り出した言葉はとても本人のそれとは思えない。脚色したかあるいは絞り出し、不純物を取り除いた結晶のような印象をレモニカは抱いた。そしてやはりこのような方法で聞き出すべきではなかった、と後悔する。
「唄えとは命じてないけど? ささやかな抵抗?」とリューデシアが問う。
ソラマリアは冷めた目で黙ってリューデシアを見つめ返す。
「もう良いではありませんか、お姉さま。やはり聞くべきではありませんでした」とレモニカは後悔を吐露する。
「聞いた後に言ってもね」と吟じる者が零し、レモニカもまた頬を染めた。
「神格化、と言うと語弊があるか。神だし」リューデシアは何も気にせず呟く。「でも少しは現実感が増したよ」
リューデシアの言葉はレモニカの考えていたことを代弁していた。ぼやけていた母の像が少しばかり明瞭になった。確かに大袈裟な語り口ではあったが、何よりソラマリアの思いの強さがより明確に感じられた。それもまた吟じる者の技量のせいで誇張された可能性はあるが。
「それにしても、中身はとても似ていませんわ」とレモニカは残念そうに、またどこか安心したように言った。
「そりゃあね。何もかも違うよ。生まれも育ちも。同じなのは血だけ。でも間違いなく私の母だって思える」
レモニカはとてもそうは思えなかった。母の姿が少し明らかになった分、遠ざかったような気がした。
だが一つだけ気づいたことがあった。レモニカの家庭教師として、ソラマリアが規範としていた人物は母ヴェガネラだったようだ。明確に名指ししたことはなかったが、常にヴェガネラを念頭にしていたのだとレモニカは理解した。おそらくソラマリア自身もそのようにあろうとしているのだろう、と気づかされた。
「ありがとう、そして迷惑をかけてばかりでごめんなさい、ソラマリア」レモニカはそう声をかける。「意見はぶつかってばかりですが、きっと意見をぶつけあうことに意味があるのでしょうね。母の代わりに、その在り方を示してくれているのだと分かりました。姉でも騎士でも何でも構いませんが、これからもわたくしの旅を支えてくれますか?」
レモニカを真っ直ぐに見つめ返しているのは吟じる者らしく、レモニカの言葉がソラマリアに聞こえているのかは分からなかった。
気づけば辺りは静まり返っていた。篝火の火花は弾け、多くの戦士たちがいびきを立てているが、先ほどまでの騒ぎに比べれば深き地の底の静寂に等しい。
「これって食べていいの? お腹すいちゃった」とユカリが言った。
突然現れ、レモニカの隣に座ったことでレモニカはユカリの母エイカの姿に変わる。
「ユカリさま。もうお加減はよろしいのですか?」
「うん。落ち着いて来た。どうせなら宴が盛り上がってる内に来れたら良かったんだけど。それよりレモニカ、一つ気がかりがあるんだけど」
「何ですか? 何でもおっしゃってください。病み上がりのユカリさまは無理をしてはいけませんからね」
「いや、アギノアさんはどこにいるのかなって」
その後、アギノアの姿を見た者はいなかった。