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第十四話 半歩の向こうに、桃色の名前が待っている
雨上がりの冬木は、少しだけ世界が洗われたように見えた。
朝の光が濡れた屋根を撫で、庭木の葉に残った雫が小さく光る。
遠坂邸の窓から見える空は、昨日よりずっと澄んでいた。
けれど、遠坂衛二の胸の中は、晴れているとは言い難かった。
重いわけではない。
むしろ、温かい。
ただ、その温かさに名前をつける直前の緊張が、胸の奥で静かに息をしている。
好き。
それはもう言った。
何度も言った。
アストルフォも言ってくれた。
互いに、ただのマスターとサーヴァントではないと分かっている。
ただの契約ではない。
ただの戦友でもない。
それでも、まだ名前はついていない。
恋人。
その二文字が、近くにある。
近すぎて、まだ触れられない。
衛二は洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
自分の顔が、思っていたより落ち着かない表情をしていた。
「……分かりやすいな」
自分で呟く。
最近、周りから顔に出ていると言われ続けている。
柳洞にも、凛にも、アストルフォにも。
このままだと、朝食の席に行った瞬間、全員に見抜かれるだろう。
そう思った瞬間、背後から声がした。
「エイジ?」
衛二は振り返る。
洗面所の入口に、アストルフォが立っていた。
桃色の髪は少し跳ねている。
朝らしく、まだ少し眠そうな目をしている。
サーヴァントに睡眠が必要かどうかはともかく、アストルフォは時々、本当に寝起きみたいな顔をする。
それが妙に可愛い。
「おはよう」
衛二が言うと、アストルフォは少しだけ照れたように笑った。
「おはよう、エイジ」
そこで会話が止まる。
昨日までは、朝の挨拶の後にすぐ手を握ったり、今日の調子を聞いたり、甘やかし予約がどうこうと言い出したりしていた。
でも今日は、二人とも少しだけ動けなかった。
昨日、返事の庭で交わした約束。
名前をつける日から逃げない。
急がないけれど、逃げない。
ちゃんと自分の言葉で言う。
その約束が、今朝になって急に重みを持ち始めている。
アストルフォが自分の手を見た。
衛二も、それに気づく。
「手」
アストルフォが小さく言う。
「握っていい?」
衛二は少しだけ息を吐いた。
「ああ」
アストルフォが手を伸ばす。
衛二も手を伸ばす。
二人の指が触れ、ゆっくり重なる。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力。
昨日から、二人で覚え始めた力加減だった。
「今日の手は?」
アストルフォが聞く。
#異能力バトル
聖杯
523
聖杯
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7
「温かい」
「よかった」
「アストルフォは?」
「ちょっと緊張してる」
「手で分かるのか?」
「ボクは分かる」
アストルフォは少し笑った。
「エイジも緊張してる」
「分かるのか」
「分かるよ。エイジの手、いつもより少しだけ固い」
「……そうか」
「怖い?」
アストルフォの声は優しい。
衛二は頷いた。
「少し」
「ボクも」
「名前のこと?」
「うん」
二人は洗面所の入口で、手を握ったまま立っていた。
朝の光が廊下に差し込んでいる。
こんな場所で話すことではない気もした。
でも、今言わないと、また飲み込んでしまいそうだった。
アストルフォが衛二を見上げる。
「エイジ」
「何?」
「今日も、逃げない?」
「ああ」
「でも、無理に言わない?」
「ああ」
「ちゃんと、エイジのタイミングで?」
「アストルフォと一緒に選ぶタイミングで」
アストルフォの頬が少し赤くなる。
「……うん」
彼は嬉しそうに目を細めた。
「それ、好き」
「どれ?」
「一緒に選ぶってところ」
衛二の胸が温かくなる。
「じゃあ、今日もそれで」
「うん」
その時、廊下の奥から凛の声が飛んできた。
「二人とも、朝食できてるわよ」
衛二とアストルフォは同時に肩を跳ねさせた。
凛の声は、なぜかすべてを見抜いているようだった。
「……行くか」
「うん」
二人は手を離しかけて、少し迷った。
アストルフォが聞く。
「朝食まで、握ってていい?」
衛二は答えた。
「いいよ」
そして二人は、手を繋いだままリビングへ向かった。
◇
朝食の席で、凛は案の定すべてを見抜いた顔をしていた。
士郎は穏やかに味噌汁をよそっている。
ユイは微笑ましそうに二人を見ている。
ミライは静かに茶を飲んでいるが、視線は明らかに二人の手元へ向いていた。
アストルフォがそっと手を離そうとする。
だが衛二は、それより先に軽く握り返した。
アストルフォが驚いた顔で見上げる。
衛二は小さく言った。
「朝食中は離した方がいいかもしれないけど、逃げるみたいに離すのは違う気がした」
アストルフォの顔が赤くなる。
「エイジ……」
凛が箸を置いた。
「はいはい。朝から甘い確認ありがとう」
「母さん」
「何?」
「言い方」
「事実でしょう」
凛は涼しい顔で味噌汁を飲む。
士郎が苦笑する。
「凛、あまり茶化すな」
「茶化してないわ。見守ってるのよ」
「それは見守りの顔か?」
「遠坂式よ」
衛二はため息をついた。
アストルフォは少しだけ笑っている。
凛の言い方はいつも通り鋭いが、そこに嫌なものはない。
むしろ、二人が逃げずに向き合うよう、わざと軽く叩いているようでもあった。
朝食が進む中、ユイが今日の予定を説明した。
「放課後、返事の庭へ行きます」
食卓の空気が変わる。
ユイは続けた。
「昨日生まれた“名前になる前の約束”の蕾が、夜のうちに反応を示したわ。沈黙冠の問いも次へ進んでいる」
ミライが静かに言う。
「互いに好きだと知りながら、それでも踏み出せない二人には、何を返す」
衛二の箸が止まった。
アストルフォの手も止まる。
あまりにも直接的だった。
凛が二人を見る。
「完全に狙われてるわね」
「母さん、言い方」
「事実よ」
凛は真剣な顔になる。
「沈黙冠は、返事の庭の願いを通じてあなたたち自身にも問いを投げている。今までもそうだったけれど、今回は特に二人の関係に深く触れてくるはず」
アストルフォが小さく息を呑む。
衛二は手を伸ばし、食卓の下でアストルフォの指先に触れた。
アストルフォも触れ返してくる。
ユイが言った。
「この問いは、名前をつけることそのものよりも、その直前で足が止まる痛みに関わるわ」
「直前で止まる痛み……」
衛二が呟く。
ミライが頷いた。
「言えば変わる。言わなければ今のままでいられる。失うかもしれないなら、今のままの方がいい。そう思って、踏み出せない願い」
士郎が静かに言う。
「ただ、踏み出さないことで守れるものもある。急がないことが必要な時もある」
凛も頷く。
「でも、ずっと踏み出さないままだと、言えなかった言葉になる」
その言葉に、衛二は柳洞の言葉を思い出した。
寺には、言えなかった言葉を抱えて来る人が多い。
ありがとうも、ごめんも、好きも、行かないでくれも。
言えなかった言葉は、残る。
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォも衛二を見ていた。
二人の間には、まだ名前のない言葉がある。
それを未答の願いにはしたくなかった。
◇
学校へ向かう道中、アストルフォは霊体化して衛二の隣を歩いていた。
冬木の街はいつも通りだった。
通学路を歩く生徒たち。
自転車のベル。
遠くの踏切の音。
コンビニの前で話す学生の声。
その日常の中で、アストルフォの声だけが衛二に届く。
『エイジ』
「何?」
『今日、もし返事の庭で変なものを見せられても、ボクの声聞いてね』
「もちろん」
『ボクも、エイジの声聞く』
「ああ」
『あと、怖くなったら言う』
「言う」
『名前の話から逃げたくなったら?』
「逃げたくなったって言う」
『うん』
アストルフォは少し満足そうだった。
衛二は小さく笑う。
「なんだか、確認事項が増えたな」
『大事だからね!』
「契約書みたいだ」
『じゃあ、エイジとボクの約束書?』
「いいな、それ」
『ほんと?』
「ああ」
『じゃあいつか書こう!』
「書くのか?」
『うん。約束、いっぱいあるもん』
衛二は少し考えた。
確かに、二人の間には約束が増えていた。
怖い時は怖いと言う。
手を強く握りすぎたら伝える。
命令ではなく名前を呼ぶ。
選んでもらう。
名前から逃げない。
それらは、恋人という名前の前に積み重なった小さな橋のようだった。
いつかその橋を渡る。
たぶん、もうすぐ。
衛二は胸の奥で、その予感を受け止めた。
◇
昼休み。
屋上は風が強かった。
アストルフォは実体化し、認識阻害をかけた状態で衛二の隣に座っていた。
弁当を食べ終えた後、二人はしばらく黙って空を見ていた。
雲の切れ間から光が差している。
昨日の雨で空気が洗われたからか、遠くのビルの輪郭までよく見えた。
「エイジ」
アストルフォがぽつりと言った。
「もし、ボクたちが名前をつけたら、何か変わるかな」
衛二は少し考えた。
「変わると思う」
「やっぱり?」
「ああ。でも、全部が変わるわけじゃない」
「どういうこと?」
「アストルフォが隣にいてくれること。手を握ること。怖い時に呼ぶこと。好きだと思うこと。それは、名前がついても変わらないと思う」
「うん」
「でも、名前がついたら、その気持ちを隠さなくていい場面が増えるのかもしれない」
アストルフォは顔を赤くする。
「隠してる?」
「今も結構隠せてないけど」
「エイジもね」
「そうだな」
二人は少し笑った。
アストルフォは膝の上で手を重ねる。
「ボクね、恋人って名前、嬉しいと思う」
衛二の胸が鳴った。
「うん」
「でも、ちょっと怖い」
「うん」
「恋人になったら、エイジにもっと近づきたくなると思う。もっと甘えたくなるし、もっと甘やかしたくなるし、もっと特別って言ってほしくなる」
「……うん」
「そういうボクを、エイジが重いって思ったらどうしようって」
衛二はすぐに答えようとして、止まった。
大丈夫だと言うのは簡単だ。
でも、それだけでは足りない気がした。
アストルフォは、重くなりたくないと言っているのではない。
重くなった自分を、ちゃんと受け止めてもらえるか不安なのだ。
衛二はゆっくり言った。
「重いかどうかは、たぶん一緒に持ってみないと分からない」
アストルフォが顔を上げる。
「一緒に?」
「ああ。アストルフォの好きが重く感じる日があるかもしれない。俺の怖さがアストルフォに重くなる日もあると思う」
「うん」
「でも、その時に話せばいい。半分持つって、前に言っただろ」
アストルフォの目が揺れる。
「大変は半分」
「そう」
「好きは?」
アストルフォが聞いた。
衛二は少しだけ照れながら答える。
「増える」
アストルフォは真っ赤になった。
「エイジ、それ好き」
「知ってる」
「もっと言ってほしい」
「好きは増える」
「うん」
「アストルフォへの好きも、増えてる」
アストルフォは両手で顔を覆った。
「ずるい……」
「今日は先に言った」
「うれしい」
衛二は笑う。
風が二人の間を通り抜ける。
アストルフォが少しだけ顔を上げた。
「エイジ」
「うん」
「もし、ボクたちが恋人になっても、力加減を一緒に探す?」
「探す」
「欲張りになっても?」
「話す」
「怖くなっても?」
「言う」
「逃げたくなったら?」
「逃げたくなったって言う」
アストルフォはふわりと笑った。
「じゃあ、少し怖くなくなった」
「俺も」
衛二はアストルフォの手を取った。
「今日、返事の庭で何を見せられても、この話を忘れないようにしよう」
「うん」
「恋人って名前は、全部を完璧にする魔法じゃない」
「うん」
「でも、二人で力加減を探すための名前にはできる」
アストルフォの瞳が、光を受けて揺れた。
「エイジ、それ……すごくいい」
「そうか?」
「うん。ボク、その名前なら怖くないかも」
衛二の胸が熱くなる。
恋人。
それは、縛る名前ではない。
完璧になる名前でもない。
二人で力加減を探すための名前。
そう思えた瞬間、その二文字が少しだけ優しく見えた。
◇
放課後の柳洞寺には、昨日よりも強い風が吹いていた。
境内の木々がざわめき、鐘楼の影が石畳の上で揺れている。
柳洞悠馬は、宗真と共に鐘楼の前に立っていた。
「今日は、何が起きそうなんだ」
柳洞が衛二に尋ねる。
「名前の問い」
「名前?」
「……説明が難しい」
「だろうな」
柳洞は少しだけ笑った。
「だが、何となく分かる気もする。寺には、名前をつけられなかった関係を抱えて来る人もいる」
「また重い話だな」
「寺だからな」
そればかりである。
凛が石扉の封印を確認する。
「今日は内部反応が強い。衛二、アストルフォ、二人は絶対に手を離さないこと」
「はい」
「ただし、強く握りすぎない」
「分かってる」
「アストルフォ」
「はい!」
「あなたも衛二が怖くなった時、無理に笑って誤魔化さないこと」
アストルフォは一瞬、目を丸くした。
それから真剣に頷いた。
「うん。ちゃんと言う」
ユイが封印鍵を掲げる。
「行きましょう」
石扉が開く。
一行は階段を下り、返事の庭へ向かった。
◇
返事の庭は、明らかに変わっていた。
白い花畑は変わらず美しい。
だが黒い丘の周囲に、淡い光の芽が増えている。
沈黙の蕾。
時計の芽。
桃色の停止芽。
手の芽。
信頼の芽。
名前になる前の約束の蕾。
それらは、以前よりも強く光っていた。
まるで、互いに支え合うように。
しかし、黒い丘の上の沈黙冠もまた、以前より濃くなっていた。
黒い冠の輪郭が、はっきりしている。
そこから伸びる影が、庭の中央に新しい形を作っていた。
二人の影。
向かい合う影。
互いに手を伸ばしている。
互いに好きだと知っている。
けれど、足元には深い溝がある。
ほんの半歩の距離。
しかし、その半歩が越えられない。
影たちは何度も口を開く。
好き。
でも言えない。
言ったら変わる。
変わったら壊れる。
今のままでいたい。
でも今のままでは苦しい。
その矛盾が、庭全体に響いている。
沈黙冠の問いが降る。
――互いに好きだと知りながら、それでも踏み出せない二人には、何を返す。
衛二の胸が重くなる。
アストルフォの手が震える。
衛二は握る力を調整した。
「アストルフォ」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
「でも、逃げない」
「ああ」
凛が宝石を構えた。
「これは二人にかなり近い問いよ。精神干渉に注意して」
ユイが周囲を確認する。
「無理に答えを出そうとしないで。沈黙冠は焦らせてくる」
ミライが呟く。
「でも、逃げると蕾は閉じる」
難しい。
急いではいけない。
でも逃げてもいけない。
その境界に立つことを求められている。
影の二人が、衛二とアストルフォの方を向いた。
その瞬間、景色が変わった。
◇
衛二は、未来の遠坂邸にいた。
見慣れた廊下。
見慣れた階段。
見慣れたリビング。
けれど、どこか寂しい。
誰かの気配が足りない。
衛二は廊下を歩く。
リビングに入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
古い紙。
そこには、衛二の字で短い言葉が書かれている。
――いつか言う。
その下に、また別の日付。
――もう少し落ち着いたら言う。
さらに下。
――戦いが終わったら言う。
さらに下。
――明日、言う。
その「明日」は、何度も何度も繰り返されていた。
衛二の胸が冷たくなる。
リビングの隅に、アストルフォのリボンが落ちていた。
桃色のリボン。
でも、本人はいない。
「アストルフォ!」
呼ぶ。
返事はない。
家の中を探す。
庭へ出る。
地下室へ向かう。
どこにもいない。
すると、背後で声がした。
「言えなかったんだね」
振り返ると、影が立っていた。
それは衛二自身の形をしていた。
「怖かったから、いつかって言った。大事だから、まだ言わないって言った。失いたくないから、名前をつけなかった」
影の衛二は静かに笑う。
「でも、名前をつけないまま失うこともある」
衛二は息を呑む。
影は続ける。
「言わなければ、拒まれない。言わなければ、壊れない。そう思っていた。でも言わなかった言葉は、相手に届かない」
「黙れ」
「好きだと言った。隣にいると言った。でも、最後の名前だけ言わなかった」
「黙れ!」
衛二は剣を作ろうとした。
しかし出ない。
ここは幻だ。
そして今日、剣で斬るべき場所ではない。
影は衛二に近づく。
「踏み出せなかった二人に、何を返す?」
その問いに、衛二は答えられなかった。
その時、遠くから声が聞こえた。
「エイジ!」
アストルフォの声。
衛二は顔を上げる。
「アストルフォ!」
しかし声は遠い。
まるで、深い霧の向こうから聞こえるように。
衛二は走り出した。
◇
アストルフォは、白い花畑に一人で立っていた。
目の前には、衛二の影がいる。
影の衛二は微笑んでいる。
優しい顔だった。
でも、その優しさが怖い。
「いつか言う」
影の衛二が言う。
「ちゃんと言う。逃げない。だから待っていて」
アストルフォは小さく首を振る。
「エイジは、そんな顔で言わない」
「でも、君は待てると言った」
「言ったよ」
「なら、ずっと待てる?」
アストルフォの胸が痛む。
待てる。
そう言った。
でも、待つことは怖くないわけではない。
エイジが逃げないなら待てる。
でも、もしエイジが本当は怖くて言えなくなったら。
もし、いつかがずっと来なかったら。
自分は笑って待てるのか。
影の衛二が手を差し出す。
「今のままでいいじゃないか。好きと言い合える。手も握れる。抱きしめられる。名前なんてなくても」
それは甘い誘惑だった。
今のままでも幸せだ。
名前をつけなければ、怖いものを増やさずに済む。
でも。
アストルフォは胸に手を当てた。
「違う」
影の衛二が首を傾げる。
「何が?」
「ボクは、今のままが嫌なんじゃない。今も大事。でも、エイジと一緒に一歩進みたい」
アストルフォは目を閉じる。
衛二の手の温度を思い出す。
強すぎず、弱すぎず。
ちょうどいい力。
「名前がほしいのは、縛りたいからじゃない」
アストルフォは目を開けた。
「エイジと一緒に、これからを選ぶため」
影の衛二が揺れる。
その時、遠くで本物の衛二の声が聞こえた。
「アストルフォ!」
アストルフォの顔が明るくなる。
「エイジ!」
彼は声の方へ走り出した。
◇
返事の庭の中央。
衛二とアストルフォは、同時に幻から戻った。
二人とも息が荒い。
手は離れていなかった。
それだけで、衛二は少し安心した。
「アストルフォ」
「エイジ」
「見たか?」
「うん。言えない未来」
「俺も」
二人は互いを見る。
沈黙冠の問いが、さらに深く響く。
――踏み出せないなら、今のままでよい。
影の二人が囁く。
――壊れない。
――拒まれない。
――失わない。
――変わらない。
衛二は深く息を吸った。
「違う」
その声は、最初は小さかった。
だが、はっきりしていた。
「今のままを大事にすることと、進むことから逃げることは違う」
アストルフォが隣で頷く。
「名前をつけないことが優しさになる時もある。でも、怖くて言わないのを優しさにしちゃだめ」
衛二はアストルフォを見る。
「俺は、アストルフォと進みたい」
アストルフォの瞳が揺れる。
「ボクも、エイジと進みたい」
沈黙冠の影がざわめく。
衛二は続けた。
「でも、今ここで沈黙冠に言わされるのは違う」
「うん」
「俺たちの名前は、俺たちで選ぶ」
「うん」
「だから今返すのは、答えじゃない」
アストルフォが微笑む。
「半歩」
衛二は頷いた。
「半歩だ」
凛が目を細める。
「半歩?」
ユイが息を呑む。
「踏み出せない願いに、無理に一歩を求めず……」
ミライが続ける。
「でも、完全に止まらないための半歩」
衛二とアストルフォは、向かい合った。
二人の間には、ほんの少しの距離がある。
いつもなら抱きしめる距離。
手を伸ばせばすぐ触れられる距離。
だが今は、あえてその距離を見つめる。
衛二は一歩ではなく、半歩だけ前へ出た。
アストルフォも半歩だけ前へ出た。
二人の距離が近づく。
でも、完全には重ならない。
手が触れる。
互いに選べる余白を残した距離。
衛二は言った。
「明日、ちゃんと言う」
アストルフォの瞳が大きく揺れる。
衛二は続ける。
「沈黙冠に迫られてじゃなくて、戦いの勢いでもなくて、二人で選んだ場所で、自分の言葉で」
アストルフォの目に涙が浮かぶ。
「明日?」
「ああ」
「約束?」
「約束」
アストルフォは笑った。
泣きそうで、でも幸せそうな笑顔だった。
「ボク、待つ」
「怖い?」
「怖い。でも嬉しい」
「俺も怖い」
「でも逃げない?」
「逃げない」
アストルフォは半歩の距離から、衛二の手を取った。
「じゃあ、明日。ボクもちゃんと聞く。ちゃんと答える」
桃色と蒼の光が、二人の間に灯った。
その光は黒い蕾へ届く。
昨日生まれた名前になる前の約束の蕾が、大きく震えた。
完全には咲かない。
だが、花弁がさらに開いた。
蕾の中には、小さな光がある。
まだ名前はない。
けれど、明日へ向かう形を得た光。
沈黙冠の問いが揺らぐ。
――答えを先延ばしにするのか。
衛二は首を横に振った。
「逃げるためじゃない」
アストルフォも言う。
「ちゃんと選ぶため」
二人の声が重なる。
「明日、答える」
返事の庭の花々が、一斉に揺れた。
白い花。
黒い丘の根元の芽。
未完成の蕾。
すべてが、その半歩を受け取った。
ユイが静かに涙を拭う。
「半歩の返事……」
ミライが呟く。
「踏み出せない願いに、明日へ向かう半歩を返した」
凛は宝石を下ろし、小さく息を吐いた。
「本当に、面倒な答えばかり見つけるわね」
士郎が微笑む。
「でも、衛二らしい」
アストルフォが少しだけ胸を張る。
「ボクらしいでもあるよ!」
衛二は笑う。
「ああ。俺たちらしい」
アストルフォの顔が真っ赤になった。
「エイジ、それ、すごくいい」
「そうか?」
「うん。“俺たち”って、好き」
衛二も少し照れた。
だが、否定しなかった。
◇
返事の庭を出る頃、夕日は柳洞寺の境内を金色に染めていた。
雨上がりの空は澄んでいて、遠くに淡い月が浮かんでいる。
柳洞悠馬は鐘楼の前で待っていた。
衛二たちが戻ると、彼はすぐに気づいたようだった。
「何か、決めた顔をしているな」
衛二は少し驚く。
「分かるのか?」
「顔に出てる」
「またか」
「まただ」
柳洞は少しだけ笑った。
アストルフォも隣で笑っている。
「柳洞、エイジは明日すごく大事なことを言うんだよ!」
「アストルフォ!」
衛二が慌てる。
柳洞は一瞬目を丸くし、それから察したように頷いた。
「そうか」
「何を察したんだ」
「色々だ」
「便利に使うな」
柳洞は穏やかに言う。
「なら、明日までに逃げるなよ」
衛二は息を呑んだ。
柳洞の言葉は軽いようで、まっすぐだった。
「逃げない」
「ならいい」
宗真が微笑む。
「言葉は、ふさわしい時に口にするものです。けれど、ふさわしい時を待ちすぎると、時は過ぎてしまう」
衛二は深く頷いた。
「はい」
アストルフォはその隣で、衛二の手をそっと握った。
◇
遠坂邸へ帰った夜。
夕食後、凛の検査は短かった。
「異常なし」
凛はそう言った。
「ただし、精神的な負荷はある。今日は早く休みなさい」
「分かった」
「それと」
凛は衛二とアストルフォを交互に見た。
「明日、何を言うつもりかは聞かないわ」
二人が同時に固まる。
凛は続ける。
「でも、言うなら誤魔化さずに言いなさい。相手に伝わる言葉で」
衛二は静かに頷いた。
「うん」
アストルフォも、真剣な顔で頷いた。
「うん」
士郎が温かい茶を置く。
「明日の朝は、少しゆっくりでいい。学校は休むか?」
衛二は少し迷った。
だが首を横に振る。
「行く。普通の日の中で考えたい」
士郎は微笑んだ。
「分かった」
ユイが言う。
「返事の庭は明日、大きく動くかもしれない。けれど、明日の言葉は沈黙冠のためではなく、二人のためにして」
「はい」
ミライも静かに言った。
「逃げない約束は、庭にも届いている。でも、最後に選ぶのはあなたたち」
衛二は頷いた。
アストルフォも同じように頷いた。
◇
夜。
衛二の自室。
窓の外には、細い月が浮かんでいた。
明日。
その言葉が、部屋の中に静かに置かれている。
アストルフォはベッドの端に座り、いつもより少し落ち着かない様子だった。
衛二も同じだった。
何を話せばいいか分からない。
けれど、黙っているのも違う。
衛二はゆっくり口を開いた。
「アストルフォ」
「なあに?」
「明日、言う」
アストルフォの肩が少し跳ねる。
「うん」
「ちゃんと、俺の言葉で」
「うん」
「でも、今夜はまだ言わない」
「うん」
「逃げてるんじゃなくて」
「分かってる」
アストルフォは優しく笑った。
「明日、ちゃんと聞くために、今日は待つ」
衛二の胸が温かくなる。
「ありがとう」
「エイジ」
「何?」
「今日、手を握って寝てもいい?」
その質問に、衛二は少しだけ笑った。
「いいよ」
「強くなったら言う」
「俺も、強く握りすぎたら緩める」
「うん」
二人はベッドの端で並んで座り、手を繋いだ。
横になるわけではない。
ただ、少しの時間、明日の前に手の温度を確かめる。
アストルフォが小さく言う。
「エイジ、怖い?」
「怖い」
「ボクも」
「でも嬉しい?」
「うん」
「俺も」
二人は笑った。
怖くて、嬉しい。
その感情は、矛盾しているようで、とても自然だった。
アストルフォが衛二の額にそっと唇を触れさせる。
「契約、再確認」
いつもの言葉。
けれど今夜は、少しだけ違って響いた。
「ボクはエイジの隣にいる。明日、エイジの言葉をちゃんと聞く。怖くても逃げない。嬉しくても、ちゃんと泣かずに聞く……たぶん」
衛二は少し笑う。
「泣いてもいいよ」
「じゃあ、泣いても聞く」
「ああ」
衛二はアストルフォの手を握る。
「俺も、明日ちゃんと言う。沈黙冠のためじゃなくて、アストルフォのために。俺自身のために」
「うん」
「怖くても、逃げない」
「うん」
「もし言葉が詰まったら、少し待ってくれるか?」
「もちろん」
「ありがとう」
アストルフォは幸せそうに目を細めた。
「エイジ」
「何?」
「明日、ボクもちゃんと答える」
衛二の胸が鳴る。
「うん」
「ボクの言葉で」
「待ってる」
その「待ってる」は、重くなかった。
優しくて、温かくて、未来へ向いていた。
しばらくして、アストルフォは部屋を出ていった。
凛との約束通り、夜更かしはしない。
扉が閉まる直前、アストルフォは振り返った。
「おやすみ、エイジ」
「おやすみ、アストルフォ」
「明日ね」
「ああ。明日」
扉が閉まる。
部屋に静寂が戻る。
衛二は窓の外の月を見上げた。
明日。
その言葉は、もう先延ばしの言葉ではない。
逃げるための明日ではなく、進むための明日。
半歩の向こうにある、名前を呼ぶための日。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
名前になる前の約束の蕾は、さらに大きく開きかけていた。
花弁の隙間から漏れる桃色と蒼の光が、黒い丘を淡く照らす。
その隣に、新しい小さな花芽が生まれている。
半歩の芽。
踏み出せない願いに返された、明日へ向かう半歩。
沈黙冠はそれを見下ろしていた。
問いは震えている。
返事ではない。
まだ告白でもない。
だが、逃げでもない。
明日答えるという約束が、庭に根を張った。
黒い冠の輪郭が歪む。
次の問いは、もう決まっていた。
――ならば、名を与えられた想いは、何を変える。
返事の庭が静かに揺れる。
白い花々が、明日を待つ。
桃色と蒼の光が、夜の底でそっと寄り添っていた。
コメント
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ああ〜〜第十四話、読み終わったよ…!!😭💕💕💕 もうね、朝から二人の距離感が尊すぎて心臓もたんかった!!「恋人」って名前の重みと、でもそれだけじゃない二人の「力加減」の話がすごく響いた…。怖くて嬉しいって矛盾してるのに、すごく自然なんだよね。アストルフォの「エイジと一緒に進みたい」がもう…名言すぎてノートに書き写したくなったよ📝💖 明日、ちゃんと言うって決めた衛二の覚悟と、ちゃんと聞くって待つアストルフォの優しさが、半歩の距離でぎゅっと詰まってた回だった…!明日が待ち遠しいようで、まだこの余韻に浸っていたい気持ちもあって複雑〜〜!!🥺✨