―― 巡り合わせってのは因果なもんだね。
失くなったかと思えば、突然ふと現れたりもする。
もしそれを運命と呼ぶのなら、俺はどうにかそいつを掴まなきゃならない
叩きつけたはずの女子の姿が目の前から忽然と消え、貴族の男が目を丸くした。
何が起こったかわからず困惑する一行の半円状の対極側、イチルはカツンと足音を鳴らした。
「逃げて、逃げて、また逃げて、それでも逃げて突き放す。それが俺の人生だ。死物狂いで駆け抜けて、全て置き去りにする。それしか俺を満たすものはなかったし、俺の全てだと思っていた。あっちでも、異世界《こっち》でも、俺はいつも誰よりも先を走っていたかった。……しかし、本当にそうかな。あそこがなくなってから、初めて考えたよ。本当はただ、先頭を走っている気になっていただけなんじゃないかって」
唐突に現れた獣人の男に目を奪われ、全員の視線が一点に集まった。 あんまりジロジロ見てくれるなと恥ずかしそうにしたイチルは、女子をそっと地面に寝かせ、準備運動がてら首を鳴らした。
「そうしているうちに、あっさりと終わっちまった。なんだろうね、うまく言えねぇけど、何かが間違っていたんだと思う。やっぱし逃げっぱなしの人生ってのは、必ずどこかでボロが出ちまうもんさ」
イチルの独り言を呆然と聞いていた全員が、我に返り、アイツは誰だと叫んだ。
しかしイチルは岩肌に腰掛けたまま、気怠そうに話しかけた。
「逃げってのはさ、……結局負け側の論理なんだよ。言い換えりゃ、立ち向かうことなく、ただ煙に巻いて誤魔化すってことだ。俺はずっと、何かから逃げてきただけだったんだなと、ある時ふと気付かされたよ。多分人ってものはさ、その先にある何かを掴む為、必死に走っているんじゃないかとね。そう考えりゃあ、……情けねぇよなぁ。俺はまだただの一度も、その何かを掴んだことがない」
ペタスが再び剣に炎を灯し、イチルへ向けて放った。 しかし既にイチルと女子はおらず、貴族らの背後に何事もなかったかのように腰掛けていた。
「そして俺はまた考えた。俺って奴は、どこまでいっても逃げるしか脳のない人間だ。そいつはきっと、永遠に変えられない俺の性分ってやつだ。だったらどうすればいい? 俺がここを抜け出すには、何をどうすりゃいい。答えてくれる奴はどこにもいないよ。だけどそんな時さ……、変な娘が現れた。そりゃあ最初は面白半分だったよ。ゾンビで、健気で、まるで見世物小屋の珍獣だ。しかしよく見てみると、そいつの真ん中には、俺が持っていない絶対的なモノがあった」
イチルは青白く光るオーラを身にまとわせながらニィと笑った。
「なにをいつまでもわけのわからないことを。誰だ貴様?!」
「誰かって? なら教えてやるよ。俺は絶対の逃亡者、言い換えりゃ、ただの腰抜けの負け犬さ。……でもだからこそ、俺の|相棒は、絶対に|逃げない奴じゃなきゃダメだ。逃げて、逃げて、逃げ続けた俺を掻き消せるほど、絶対的な《心》を持った奴でなけりゃ、俺のマイナス分は埋められねぇ」
音速より速く貴族の男の目の前に移動したイチルは、隣にいた部下の手元から書面を拝借し、パラパラとページを捲ってみせた。いつの間にと身構えた男たちは、目の色を変えて叫んだ。
「なんだ貴様は?!」
「あいつとの約束、まさか忘れちゃいないな?」
「や、約束だと?!」
「このダンジョン最後のギミックは俺自身。誰か一人でも、俺の髪の毛一本にでも触れることができたなら、お前らの勝ち。もし触れられなければ――」
「な、何を馬鹿な……」
「あいつの勝ち。残念だけど、こいつを渡すことはできない。約束だぜ?」
再び指を鳴らし、イチルは穴の上へと移動した。 誰一人反応できない様を見下ろし嘲笑したイチルは、「早く捕まえてみなよ」と挑発した。
「ぺ、ペタス氏、もう一度アイツを攻撃するんです!」
「いや……、攻撃ったって、あんなのどうやって」
「どんな方法でも構いません。殺してもいい、やってしまいなさい!」
簡単に言ってくれるなと剣を振り上げたペタスは、火属性の魔法を連続でイチルへ撃ち込んだ。しかしどれもが虚しく空を切り、まるで見当違いの場所で破裂した。
「何をしているペタス氏。どれだけの金を払っているのか忘れたんですか!」
「ちょっと待ってくれ、なんだよアイツ、意味わかんねぇって」
蚊が止まりそうなほど遅すぎる攻撃に、イチルは竪穴の縁に座ってあくびをした。 ダンジョンで長らく命のやり取りをしてきた段違いのモンスターたちに比べれば、一冒険者の攻撃など取るに足らないものだった。
「ちなみに魔法撃ったアンタ、冒険者ランクは?」
「だ、黙れ、わざわざ敵に教える奴があるか!」
「参考に知りたかったけど、確かに一理ある。聞いた俺が悪かったよ」
縁から飛び降りたイチルは、腰の道具入れから小さな魔道具を取り出し指先に装着した。 本来は逃亡用の道具だったが、素人冒険者を脅かす程度ならこれで十分とニヤけた。
「その昔、手のひらから蜘蛛の糸を出して街を飛び回るヒーローがいてさ。俺もいつかやってみたいと思っていたんだけど、ま~さか我が一族が同じような物を持っていたなんて驚きだよね」
指先大の魔道具から細い蜘蛛の糸のようなワイヤーを発射させ、男たちの間を通し、先の壁に当てて付着させた。そして手元のボタンを押せば、回収されるワイヤーの勢いに身を任せたイチルは、超スピードで男たちの合間をすり抜けた。
身動き一つできず、目にも留まらぬ速さで抜けていったイチルの姿に唖然とした男たちは、その爆発的な風圧と迫力に慄き、尻もちをついた。
あんな動きをする奴にどう触れると考える以前に、もしあの物体が直撃したらと想像せずにはいられず、慌てふためくしかない。
「次は黒服君のノドに当てる。そして次は君。で、最後は太っちょの急所ね♪」
貴族の男が「何をバカな」と息巻いたが、圧倒的実力差を肌で感じ取ったペタスは、敗北を悟り後退する。試しにイチルが指先を動かしただけで、主である貴族を残したまま、穴の壁をよじ登り逃亡を謀った。
「用心棒が主人を置いてっちゃいけないな。お前にとってコイツは……神様だろ!」
一足で接近したイチルは、貴族の首根っこを掴むと、逃亡するペタスへ向けて投げつけた。
「ムニョル様!」と慌てる部下たちをよそに、ペタスに直撃したムニョルは首をグネっと捻ったまま、ペタス諸共壁にめり込んだ。
「あ、ちょっとやりすぎたな。まさか、あれくらいで死んでないよな?」
気絶してひっくり返った二人を残し、部下たちは尻尾を巻いて逃げていった。 コイツらも忘れるなと二人を馬車へ放り投げたイチルは、逃げ帰っていく一行にひらひらと手を振った。
「本来、正義は相手方にあるかもしれないが、どちらにしろ女性には優しく接するのが義務ってものだ。Pretty girlを足蹴にした罪は重いよ。……まぁ、散々放置した俺も俺だけど」
イチルは何の気なしにポケットに手を入れた。 指先に偶然触れた吸いかけのタバコに火を点け、ふぅと息を吐いた――
――ん、ううん、こ、ここは
木材を積み上げた枠に毛布が敷かれただけのベッドの上で、アンデッド女子が目を覚ました。 イチルは客人用として使っているカップに安いクミル茶を入れ、枕元に置いた。
「君のウチだ。まぁ、……今や壊れて吹きさらしの荒野と変わらんが」
慌てて身を起こした女子は、身体の痛みですぐに両肩を抱えてうずくまった。 しかし痛みよりも黙っていられなかった女子は、すぐイチルに組み付いた。
「アイツら、お金を取りにきた貴族は?!」
「たまたま通りがかった俺に免じて帰った。次はもうないと言っていたぞ(嘘)」
「う、嘘。アイツらがそんなこと言うわけない!!?」
「本当も嘘も、こうして誰もいないんだ。どっちでもいいだろ」
「よくありません。でないと、アイツらにココを取られちゃう!」
「だから大丈夫と言ったろ。ところでキミ、腹は減ってないか?」
女子がそんなことどうでもいいと拒否したが、この数日ほどんど何も口にしていない彼女の腹の虫は黙ってくれなかった。丸一週間、不眠不休で作業し続けた女子の身体は、空腹を思い出したかのように力なく突っ伏し脱力した。
「まずは飯だ、食わないことには何も始まらん。そいつを飲んで体を温めたら、さっさと行くぞ」
クミル茶を飲ませ、半ば強引にゼピアへ繰り出したイチルは、閉店間際の肉屋に飛び込み、適当に料理を注文した。不審者を見るように半身で構えている女子は、異変を感じたらすぐに叫んでやると警戒心を隠しもしなかった。
運ばれてきた料理がテーブルに並び、イチルは大きなブロック肉にナイフを刺し、口に運び、美味いと言った。物欲しげな表情で肉の行方を目で追っていた女子は、ダメよダメよと首を振り、また素っ気なく視線をそらした。
「食え。食わないなら全部食っちまうぞ」
「知らない人にご馳走になっちゃダメって言われてるもん。きっと悪い人だからって」
「言い得て妙だな。赤の他人がガキさらって飯食わそうとしてるんだからな。とにかく今はそんなことどうでもいい。冷めるぞ、食え」
ゴクンと喉を鳴らすものの、頑として食べようとしない女子の様子に不審さを覚えた店の主人が、遠目にイチルと女子を交互に眺めていた。 仕方なく主人を呼びつけたイチルは、僅かな金を握らせてから、店を閉めて二人にしてくれと頼んだ。
「厄介事は勘弁してくださいよ。ただでさえ街の治安が悪いってのに」
「食ったらすぐ出る。悪いようにはしないから」
主人がしぶしぶバックヤードに姿を消したのを見届け、イチルは再び肉にナイフを刺した。 警戒心を解かない女子は、未だテーブルの下で手を組んだまま動こうとしなかった。
「親父さん、いつから戻らないんだ?」
「……」
「質問くらい答えろよ。取って食いやしないんだから」
「……知りません」
「んなはずあるか。だったらなぜキミはあそこに居座ってる。確かに奴らのやり口は汚かった。しかし裏を返せば、正当な権利でもある。キミの父親は奴らから金を借り、そいつを返さぬまま行方を暗ました。もしあそこに居座り続けたいのなら、父親に代わって金を返し、それなりの態度を示すのが義務ってものだ。無理ならすぐにでも出ていけ。それがルールであり、秩序ってものだ」
シュンと肩を落とした女子もわかっているようだった。 しかし子供の世界のルールを大人の常識に落とし込むのは難しい。
駄目だとわかっていて抵抗するということは、もはやそれ以外にすがるものがないという現実を、暗に示しているのだから――
「返済期限は?」
「……来月末、です」
「やっと答えてくれたな。にしても妙だな、なぜキミはわざわざ、あれほどの大立ち回りをしなきゃならなかったんだ。期限は来月なんだろ?」
「返すアテがないなら、今日までに払え。さもなくばランドを更地にするぞって。だけど、もしあいつらを打ち負かすことができたら、もう一年だけ待ってやるって。それで……」
心底不幸そうに沈む女子のアゴ先にナイフで触れたイチルは、「いちいち下を向くな。飯が不味くなる」と睨んだ。ムッとして、ナイフをイチルから奪った女子は、カチャンと音を立ててテーブルに置いた。
「どちらにしろ来月がリミットだ。返すアテは?」
「……ありません」
「なら奴らの言うことも一理ある。そんな輩を相手する意味はない。ただでさえ、ダンジョンが無くなって大変なときだ。誰しも、なりふり構ってる余裕はないのさ」
「だけど……、お父さんが戻ってきたら!」
「戻ってきたら? 返すアテがあるとでも言いたいのか。大方、ADで使うモンスターの捕獲にでも行ったまま戻らないんだろ。よくある話だ(※マティス曰く)」
黙ってしまった女子の口元に肉を刺したナイフを突きつけ、だったらと付け加える。イチルはいよいよ核心に迫った。
「キミ、……いや、|お前は、父親の代わりに金を返す気があるのか。どんなことをしても、……命を投げ売ってでも、だ」
口ごもった女子に対し、イチルは態度を豹変させ、「ケッ」とツバを吐きかけた。 そして突きつけていたナイフを取り下げ、自分の口へと運んだ。
「即答する度胸もないか腰抜けめ。ブタども相手に死ぬ気で立ち向かった気概、どうやら俺の見間違いだったようだ。……ガッカリだよ」
心底失望したようにナイフを投げ捨て、イチルはくるりと振り返り「じゃあな」と手を振った。それこそ、もうお前に用はないと言わんばかりに。
しかしイチルは知っていた。 その少女が、大人しく引き下がるような|タマではないことを――
ガシャンと椅子を倒し、女子がイチルを呼び止めた。 背を向けたまま悟られぬように笑みを噛み殺したイチルは、腹の底まで馬鹿にしたような態度を振りまきながら、「お前にゃ無理だね」と言い捨てた。
「そんなこと、やってみなきゃわからないよ。私だって、私にだって、きっと……」
「ムーリムリムリ。下ばっか向いてボソボソ喋るような奴には絶対ムリだね。そもそもだ、今の今までどれだけ時間があった? お前はその間、なーにも行動に移さなかった。無能オブ無能だ」
「むぐぅ、勝手なことばかり。犬男のくせに!」
「犬男で悪かったな。それに、クソガキゾンビにだけは言われたかないね!」
自分がアンデッドヒューマンであることを忘れていたのか、もともと紫がかった肌の色が真っ赤に紅潮した。ずっと長い髪と黒のフードで顔と身体を隠していたものの、怒りを露わにしたことで、初めて顔を正面から覗かせていた。
「犬だろうがアンデッドだろうが、んなことはどうでもいい。やるか、やらないか、二つに一つだ。もう一度聞く。お前は、父親の代わりに金を返す気があるのか?」
「あるよ、……あるに決まってるでしょ!」
イチルはテーブルに手をついて前のめりになった女子の頬を指先で摘み、もう片方の手で鼻の穴に指を突っ込んだ。フゴフゴと慌てる顔があまりにもブサイクで、思わず吹き出したイチルは、笑いながらポンと女子の鼻面を押し、床に転がった姿を見下ろし言った。
「なら返せ。テメェの腕一本で、死物狂いで返してみせろ。でなけりゃあ……、テメェはお終いだ。わかるな?」
モンスターに向ける語気の荒さで迫れば、相手も自然と息を飲む。
しかしイチルは知っていた。 イチルの目の前にいる少女は、立ち塞がる困難から絶対に逃げはしないと――
「やるもん。犬男に言われなくたって、絶対に私が返してやるんだから!」
口車に乗った女子が前のめりになったところで、イチルは静かに腰掛け、何事もなかったように料理に口をつけた。そして厨房の隙間から恐る恐る覗いていた主人を指で呼びつけ、「酒を樽で」と注文した。
「今の言葉、絶対に忘れるなよ。お前には死ぬ気で働いてもらう。悪いが俺はそこらの貴族みたいに甘くはない。覚悟しておけ、地獄をみせてやるよ甘ちゃん」
運ばれてきた酒をグラスに注ぎ、一人でチンと鳴らして飲み干した。 それなのに、女子は未だ事態が飲み込めず、しばし頭の中で噛み砕いてから、当然の怒りを口にした。
「どうして私がアナタのために?! ランドはお父さんのものだし、アナタ関係ないでしょ。これ以上、勝手なこと言わないで!」
女子は自分の状況よく理解しているようだった。 しかしそうでなくては話が進まない。
イチルは持参した資料を嫌らしく床に落とし、傲慢な態度で足を組んでから、天を仰ぎ言い捨てた。
「今しがた、ブタどもと話を付けてきた。テメェの借金、占めて11億と3240万ルクス。俺が全額|立て替えた。俺が、俺様が今日からランドのオーナーだ。親父も、テメェも、返すまでは|俺の奴隷。わかったらさっさと飯を食いやがれ。言っておくが、その飯の分もテメェの給料から引いておく。よーく味わって食うことだな」
ええっと白目になった女子は、散らばった資料に目を通してから、地獄からまた地獄だと泣きべそをかいてから、仕方なく肉を頬張った。嫌らしく笑いながら、イチルは最後に残していた質問をした。
「で、まだテメェの名を聞いてなかったな。俺に雇われたゴミダンジョンのアンデッド娘、貴様の名はなんだ?」
フォークを口にしたまま鋭い眼光でイチルを睨んだ女子は、口の中に肉を余したまま、「ぐげが(フレア)」と返事をした。フレアねと頷いたイチルは、土地所有者の欄に彼女の名前を記入し、隣に自分の名前をサインした。
「くくく、これからどんな生活が始まるのか。今まで以上の楽しみが待っていればいいんだが」
最後の一滴まで酒を空けてから、今日は禁酒だったと思い出すも、時既に遅しだった。めでたい夜に飲まない酒などなんの意味があるだろうかとイチルは吹き出した。
「悪い店主、酒をもう一樽!」
こうしてイチルとフレアの新たな生活が幕を開けた。 その先にどれだけの苦難が待ち受けているとも知らずに――
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