日本が大好きだった父・・・父は間違ったことが大嫌いだった
あの父が生きていれば、桜を偽装結婚に巻き込む息子を見て、きっと眉をひそめただろう、嘘をつく息子に、厳しい目を向けたはずだ
ジンの記憶には、子供の頃、ずるをした時に父が見せた失望の顔が今も鮮明に残っている
胸の底に後ろめたさが淀む・・・
桜を巻き込むのは、ビザ問題を解決するために他に道がなかったからだ、もちろん協力してもらうからには彼女にとっても十分メリットはあるはずだ
婚姻届を出せば彼女を役員として迎え、キャリアを上げ、報酬も保証する、持ちつ持たれつ、互いにとって最善の道だ、ジンはそう自分に言い聞かせた、きっと彼女との結婚生活もビジネスの様に乗り切って見せる
ジンの視線が、テーブルに無造作に広げられたティファニーのカタログに落ちる
―ティファニーのブルーボックスの由来は、コマドリが幸運を運ぶ鳥とされ、その鳥の卵のカラーはめずらしく「ロビンズエッグブルー」と呼ばれています、創業以来、このコマドリのブルーは「真実」や「高潔」さを象徴する色として、ティファニーの気高さや品格を表すシンボルとなりました・・・―
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「真実か・・・」
小さくため息を吐いた、このブルーの色に、そんな意味があったなんて・・・偽装結婚を正当化しようと躍起になる自分とは、あまりにもかけ離れている
「今の僕には程遠いな・・・」
ジンは小さく呟いた
心はどんどん重く、息苦しいものになっていく、従業員の生活、会社の業績、株価の変動・・・膨大な富と責任を背負う自分は、他人にとっては成功者の象徴かもしれない
まるで巨大な回し車の中で走りつづけるハムスターのようなものだ、どんどん会社は大きくなっていくのに、一歩も前に進めていない様な気がする
自分の成功を喜んでくれる家族はもういない・・・なのにどうしてこんなに走り続けているんだろう・・・
今のこの部屋の冷たさは家族を失ったあの夜の寒さとどこか似ていた、その時ティファニーで微笑む桜の笑顔を思い出した、それがどういう訳かジンの凍てついた心に小さな火を灯し始めていた
だが、それが本物なのか、偽装の延長なのか、ジンにはまだわからなかった
窓の外では、大阪の夜景がきらめく、ジンは写真立てを胸に抱き、目を閉じた・・・
父の声が、また聞こえた気がした
―正しいことをしろ、ジン―
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ハァ・・ハァ・・「へぇ~~!それじゃあのバカデカいダイヤを見て一応大株主達は納得したわけね!」
桜の親友、受付嬢の奈々が汗だくでピラティスジムのリフォーマーマシン(ベッド型トレーニングマシン)のキャレッジ(※台車)に両足をひっかけて踏ん張っている
ハァハァ・・・「とりあえず納得したと言う感じだったわ!でも最後の一人がキチンと入籍して配偶者ビザをこの目で確認するまでは色々口出しするでしょうね、会社の統廃合の話はとりあえず保留になっただけよかったわ、んぐぐぐぐっ!」
と言いながら、奈々の隣のマシンで桜も脚を上げて歯を食いしばった、ぷるぷる太腿を震わせながらマシンの引力に抵抗している
ハァハァ!「強欲な!株主達ね!あ~~~!!キツイ!これ!」
夕暮れ時のオフィスビル・・・最上階のピラティスジムは仕事終わりのOL達で賑わい、トレーナーの鋭い声とトレーニングマシンのリズミカルな音が響き合っていた
桜と奈々は、インスタグラムでもキツイ指導で有名な「インストラクター・ヴィヴィアン」のピラティスクラスに挑んでいた、スタジオの壁一面の鏡に映る二人の姿は、まるで都会の戦士のようだ
桜はピンクのトレーナーにグレーのスパッツ、ポニーテールが揺れる元気なスタイルで、奈々は薄緑のスポーツブラと同色のスパッツ姿だ、ショートカットの髪に汗が光り、受付嬢らしい華やかな雰囲気を漂わせていた
二人が苦戦しているスプリングと滑車が組み合わさったこのマシンは、見た目は中世の拷問器具のようだが、体のコアを部分的に鍛える魔法の道具だ
「はい、そこの二人!!お腹にもっと力入れて!背中浮かせない!」
胸と尻をヒアルロン酸で膨らませた真っ赤なハイレグレオタードのトレーナー、ヴィヴィアンの鋭い声が響く、リフォーマーのスプリングを引く動きに合わせて、桜のポニーテールが揺れる
ぐぐぐ~!「うっ、ほんとにキツイ~~~!効く~~~明日筋肉痛になりそう」
顔をしかめながら、脚を伸ばしている桜に奈々が小声で言う
ボソッ・・・「ヴィヴィアン先生って・・・本名「茂子」だって・・・」
それを聞いた桜はもう無理だった、バチンッと器具を離してゲラゲラ桜が腹を抱えて笑い転げる
「こら~~!そこの二人!笑うなんて余裕があるじゃない!よっぽど追い込んで欲しいみたいね!!次、サイドプランク行くで!」
ヴィヴィアンの怒りの声がスタジオに響く
「キャー!うそでしょ!先生怒っちゃったじゃん!」
「もう~!奈々のバカ!」
と二人は悲鳴を上げながら、焦ってマシンにしがみついた
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「で? そのリング、総額おいくらまんえん?」
煙と香ばしい匂いが立ち込める焼き肉屋の一角で、桜と奈々は鉄板を囲んでいた
テーブルの上には、ジュージューと音を立てる牛タンをひっくり返しながら、奈々が桜の薬指に光るリングをチラリと指さした
奈々の目がキラキラと好奇心で輝く、桜はネギに焼けた牛タンを巻き付けて口に放り込み、モグモグしながら答えた
「あの雰囲気で聞けるわけないわよ! でもとにかくおまけがすごかったのよ、香水でしょ? 夫婦箸、ペアのマグカップ、それに・・・ティファニーブルーの婚姻届と飾る額縁までついてきたの!」
「高級店でおまけをつけてもらえるのはVIPの証拠だわよね、あたし達一般人が行ったっておまけなんかつけてもらえないわよ、へぇ~・・・ターザン社長とあなた、これでティファニーではVIP決定ね」
「バイヤーさん達の最後のお見送りも凄かったわ、皇室になった気分だった、あの人達ってVIPルームに来たお客の顔を絶対忘れないらしいわ」
奈々はカルビを網に並べながら、目を丸くして笑いながら心地良く話を聞いてくれる、鉄板の上で肉がジュッと焼ける音が辺りに響く、桜はため息をつきながら言う
「でも、これも偽装のうちの一つよ、半年たったらこの指輪はキチンとお返しするつもり」
「ふぅ~~ん」
桜の頭の中には、あのティファニーでの瞬間がフラッシュバックしていた、ジンが優しい目で指輪をはめてくれた時・・・指輪の裏に刻印された文字・・・彼が選んだメッセージは
―Forever Love, From Jin―
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桜の胸は感動で震えた・・・
たとえこれが偽装の婚約でも・・・バイヤーにただ単に勧められた刻印メッセージでも・・・彼にとっては何でもない事でも・・・今の桜にとっては心震える感動の出来事なのだ
あなたにとってはどうでもいいことでも・・・今、私は世界一幸せな女の子・・・
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桜は指輪をはめた自分の手を握る彼の・・・大きさと温かさは一生忘れないと思った
奈々はビールをグイっと飲み干し、桜の夢見がちな顔に気づいてニヤリと笑う
「ジムに行って汗かいた後に、焼き肉食べて、ビール飲むあたしたちって・・・」
「ヴィヴィアン先生に見られたら、メニュー増やされるわよ!」
二人でゲラゲラと笑い合う
「でも・・・本当にいいの?桜が以前から社長を推してるのは知ってるけど・・・まさか入籍なんて話、ぶっとび!いくら偽装でも後で後悔しない?」
「半年たてば私はお払い箱だけど・・・でもITアプリ技術のキャリアは残るわ、彼と離婚した後も仕事を続けられるし、私はとっても良い案件だと思うわ」
「案件って・・・」
桜の声は少し強がっているように聞こえた、奈々が網を変えてくれと店員を呼び付ける
「でも半年間あの堅物CEOと一緒に住むんでしょ?好きになってもらえる可能性はあるんじゃない?
偽装が本物になったりして!」
「そんな恋愛漫画みたいに上手くいかないわよ!それにこれは私と社長だけの問題じゃないの、今や、WaveVibeの存続の危機なの、あなただって職場がなくなったら困るでしょう?」
「それは・・・そうね」
奈々は肉をレタスに巻きながら、ちょっとしぶしぶ頷く、鉄板の煙がモクモクと立ち上るがすぐに鉄板横の換気扇に吸い込まれて行く、桜が言う
「あの時・・・国外追放だと大株主達に追い詰められた彼・・・とても可哀想だった・・・すっかり肩を落として、見ていられなかったわ・・あんな彼を見るぐらいなら、私で良ければ半年彼と偽装婚をするなんて何でもないと思ったの、そして契約通り半年経てば綺麗さっぱり別れて、私はキャリアの道に生きるの、もちろんその時は・・・寂しいだろうけど・・・私、彼の役に立ちたいの!」
それを聞いた奈々は箸を止めて、桜をじっと見つめる
「まぁ!サク!それって愛じゃない?あなた社長のこと、愛しているの?」
「ただの受け身の恋なんてくだらないわ、私は(低い自己肯定感を恋人に上げてもらいたい欲)も(保護されたい欲)も持ち合わせていないから、何でも買い与えて父親が小さい娘を甘やかすみたいな溺愛恋人は、稼いでいる成人女性をバカにされてるみたいで笑っちゃうの、私はあの人を支えてあげたいし、対等でいたい、あの人の傍で一番の頼れる存在になりたいの、そうね!やっぱり私、彼を愛している!」
ガコンッと二人はジョッキを突き合わせて奈々が言った
「サク!あなたの心意気!応援するわ!そんなあなたを傍で見ていたら、きっとあのターザンも好きになってくれるわよ」
桜は小さく笑って首を振った
「それはわからないわ、彼にも好みがあるでしょうし、見返りを求めるつもりは無いわ、困っている彼を見て咄嗟に思いついた偽装婚だもん、とにかく今は配偶者ビザを取得して、何としても彼をこの国に留まらせないと」
奈々が深刻な顔つきで言う
「難しそうなの?」
「うん・・・昨今の日本ブームもあって、日本人と結婚したがる外国人がとても多いの、配偶者ビザを取れば日本で働いて祖国にお金を送ったり、悪ければ身内をこの国に呼び寄せたり・・・いろいろ出来るでしょ?」
奈々がふむと宙を見た
「そう言えばこの間、お客様が言ってたけど、日本男性が中国人の女性と結婚したのだけど・・・最初はよかったけど半年経ったら別居して、奥さんが中国から親族一同呼び寄せて、その男性にずっと金銭的援助をさせていたって」
「そうなの・・・多くの外国人が配偶者ビザの在留資格を取得するために、実際には愛情や共同生活の意思が無いのに結婚を装うケースが後を絶たないの・・・そこで「法務省出入国在留管理庁」(※以下、入国監理局)はとても厳しい審査をするらしいわ、主にヒアリングらしいんだけどね、疑わしいケースだったら私生活も覗かれて審査されるみたい」
奈々が眉間にシワを寄せる
「むむむ・・・なんか一筋縄ではいかなそうね、がんばって!サク」
「ありがとう!奈々!それを考えたら憂鬱だけど、とにかく万全の準備をして管理局に挑むつもり!」
桜はもはや自分がジンを愛し始めている事を否定できなかった、それならば認めてしまえば心も軽くなる
彼がキチンと就労ビザを取得した目的が達せられた暁には・・・桜は不要になるのだ、それを最初から知っていて、それでも彼のために何かしたいと桜から申し出た・・・これは自分から行動した事・・・たとえどんな結果になったとしても私は後悔しない
男性に対してこんな気持ちになるのは初めてだ
ジョッキを持つ桜の手の薬指には
桜の心を反映するような
眩しいほどのティファニーのダイヤが輝いていた