テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1,925
562
それからの日々は、思っていたより何も変わらなかった。
変わったのは、ほんの少しだけ距離が近くなったこと。
そして――呼び方が増えたことくらいだった。
「おはよ、仁人」
「おはようございます……勇斗」
「ございますいらないって」
「まだ慣れないんです」
「俺もまだ慣れてない」
そう言いながらも、勇斗は自然に仁人の隣に立つ。
花屋《muguet》の朝は、相変わらず花の香りで始まる。
けれど今は、その香りの中にもうひとつ混ざっていた。
少しだけ、甘い空気。
「今日さ」
勇斗がカウンターに肘をつく。
「仕事終わったらどっか行く?」
「どこにですか」
「どこでも」
「雑すぎません?」
「いいじゃん、彼氏だし」
「またそれ」
仁人はため息をつきながら笑う。
そのやりとりが、もう日常になっていた。
夕方。
閉店後の花屋は静かになる。
店長は「デートでしょ?」と笑って帰っていった。
鍵を閉める音が響く。
カラン、と静かなベル。
外は少しだけオレンジ色の空。
「じゃ、行くか」
勇斗が言う。
「どこにですか」
「決めてない」
「ほんと適当」
「でもさ」
勇斗は少しだけ空を見上げる。
「こうやって一緒に歩けるの、いいなって思う」
仁人は少しだけ目を細めた。
「……前も思いましたけど、そういうの急に言いますね」
「思ったから」
「……ずるい」
「またそれ?」
二人で笑いながら歩き出す。
商店街の夕方は、少しずつ夜に溶けていく。
その途中で、勇斗がふと立ち止まった。
「仁人」
「はい?」
「最初さ」
「最初?」
「花屋で会った時」
「あぁ」
「俺、お姉さんだと思ってた」
仁人は吹き出した。
「今さらすぎません?」
「いやほんとごめんって」
「もういいです」
「でもさ」
勇斗は少しだけ真面目な顔になる。
「どっちでも好きになってたと思う」
仁人は歩くのをやめた。
夕焼けが二人の影を長く伸ばす。
「……それ、ずるいですよ」
「また?」
「はい」
仁人は小さく笑って、続ける。
「そういうの、安心するじゃないですか」
勇斗は少しだけ目を丸くする。
「安心?」
「まさこでも、仁人でもいいって言われるの」
仁人は少しだけ視線を落とした。
「ちゃんと見てくれてる気がして」
勇斗は何も言わなかった。
代わりに、そっと手を伸ばす。
「じゃあさ」
指先が触れる。
「これからも見るよ」
ぎゅっと、手が繋がる。
「ちゃんと」
その言葉は、軽くない。
でも重くもない。
ただそこにあるだけの、約束みたいな声だった。
夜。
小さな公園のベンチ。
二人は並んで座っていた。
遠くで子どもの声がする。
風が花の香りを少しだけ運んでくる。
「ねぇ」
勇斗が言う。
「はい」
「俺さ」
「はい」
「まだたまに思うんだよね」
「何をですか」
「最初に花屋で会った時のこと」
仁人は少しだけ笑う。
「またですか」
「だってさ」
勇斗は少しだけ照れたように言う。
「まさこさんって、やっぱ綺麗だったからさ」
仁人は少しだけ黙る。
それから、小さく笑った。
「それ、今の俺に言います?」
「言うよ」
「恥ずかしいです」
「でもさ」
勇斗は少しだけ距離を詰める。
「今の仁人も、普通に好き」
仁人の心臓が、静かに跳ねる。
「……欲張りですね」
「うん」
即答だった。
仁人は空を見上げる。
星が少しだけ見え始めていた。
「勇斗さん」
「ん?」
「俺、多分ずっと」
少し間。
「名前、呼ばれるの苦手だったんです」
勇斗が黙る。
仁人は続ける。
「でも今は、ちゃんと呼ばれるの好きです」
勇斗は少しだけ笑った。
「じゃあさ」
「はい」
「これからも呼ぶわ」
「……はい」
少しだけ間を置いて。
仁人は小さく付け足す。
「勇斗」
「ん?」
「好きです」
一瞬。
風が止まったみたいに静かになって。
勇斗がゆっくり振り向く。
「……今の」
「はい」
「ずるい」
「またそれ」
「いやほんとに」
勇斗は笑う。
少し困って、でも嬉しそうに。
「俺の方が好きだわ」
「張り合わないでください」
「いや負けたくない」
「勝負じゃないです」
「でもさ」
勇斗はそっと手を握り直す。
「これからも、花見に行こうな」
仁人は少しだけ目を細める。
「はい」
「ずっと」
「……はい」
夜の公園で。
花の名前を持ったふたりの時間は、静かに続いていく。
名前が変わっても。
姿が変わっても。
咲き方が違っても。
花はちゃんと、そこに咲いていた。
𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹
コメント
1件
うわあ、第15話……完全に尊さで胸がいっぱいです……🥀🤍 「まさこでも、仁人でもいい」って言われて「ちゃんと見てくれてる気がして」って仁人が言うところ、すごく刺さりました。名前を呼ばれるのが苦手だったっていう過去と、今好きって言えるようになったこと。勇斗はずるいとか言いながらも真っ直ぐで、公園の夜の空気感が優しすぎて泣きそうになりました。この2人の「日常」がずっと続いてほしい……次の話も楽しみにしてます🌙