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空が濁っていた。灰と埃と焦げた鉄の匂いが渦を巻き、街全体がうめくように軋んでいる。建物の壁面には裂け目が走り、ガラス片が細かな光を散らしながら風に舞っていた。遠くの方で警報が鳴り続け、誰かの叫び声とサイレンが入り混じる。
イカタコの気配は急速に薄れていた。生きている街が、今や呼吸を止めようとしているように。エルクスは瓦礫を踏みしめながら進む。靴底が焼けた鉄を踏むたびに、微かな熱が皮膚を刺す。彼の背後にはアマリリスとミアの足音。だが誰も言葉を発さなかった。
言葉を発すれば、それが空気を震わせ、目に見えない何かを刺激してしまう気がしたのだ。風が止んだ。音が消えた。街の中心、ロビーの前に出た瞬間、エルクスの全身の毛穴が総立ちになる。空気が違う。重い。
目に見えぬ圧力が肌を押しつぶしてくるようだ。視線を前に向ける。そこに影があった。焦げ跡の中、ひとりだけ立っている。だがその姿が、まるで空間から浮いているように見えた。
周囲の空気が歪み、陽炎のような光の揺らめきが体を包み、皮膚の表面で小さな電流が走っているのがわかる。白い稲妻が細く、空気の裂け目を走る。音が遅れて響いた。
「……あれ…か。」
アマリリスの声がかすれる。ミアが息を詰め、口元を押さえる。
「まるで……雷が歩いてるみたい。」
エルクスは一歩踏み出し、目を細める。服装は普通の市民に見える。だが、あの存在を覆う何かがどう考えてもイカのそれではない。瞬間、目の前の空間が爆ぜた。雷鳴ではない。空気そのものが弾ける音。まるで周囲の分子が砕かれていくような衝撃。
エルクスは反射的に腕で顔を覆うが、その隙間から閃光が視界を白く焼いた。皮膚の奥にまで光が染み込む感覚。熱が一瞬で消え、次には冷たさが襲う。アマリリスが叫ぶ。
「エルクス!避けろ!!」
地面が割れた。斜めに走った亀裂から青白い光が漏れ、瓦礫が弾ける。吹き上がる塵の中、敵は微動だにしない。まるでこの破壊が自然の呼吸であるかのように。エルクスは息を呑み、思考を走らせる。
この現象。雷、電磁、もしくは未知のエネルギーか。いや、どれでもない。ただ一つ確かなのは、意図的だということ。あれは無意識の暴走ではない。完全に制御されている。生物には到底不可能なレベルで。アマリリスが銃を抜き、瞳を細める。
「撃っていいか。」
エルクスは短く答える。
「撃て。反応を見よう。」
乾いた銃声が鳴る。弾丸が一直線に空気を裂いた。だが、触れる寸前で止まった。音もなく、宙で止まり、次の瞬間には激しい金属音を立て、壁にぶつかった。しかし、チーターが弾丸を弾く一連の流れは見えなかった。アマリリスが低く唸る。
「バリアかよ……。」
ミアが震える声で囁く。
「すごい目の光り方……。」
確かに。煙の向こう、その瞳は淡く青白く輝いていた。イカのそれではない、まるで雷光を内に宿したような光。彼が一歩、歩く。そのたびに電流が周囲を走り、空気が震える。電灯が破裂し、信号機が火を吹く。街全体がその一歩ごとに反応しているかのようだ。
エルクスは冷や汗を感じながら思考を研ぎ澄ます。この力、制御されている。破壊ではなく狙いを持って放たれている。意思がある。だが、その目的は?なぜ街を?なぜ今?
もう一度轟音が鳴り、目の前の地面がえぐれた。エルクスは即座に回避、横転しながら叫ぶ。
「ミア!下がれ!!」
ミアは振り向くが、その瞬間、背後の電柱が倒れ込む。火花が飛び散り、彼女の頬をかすめた。アマリリスが叫んで彼女を引きずり出す。地面が震え、空気が焼ける。何かが崩れる音、割れる音、焦げる音。すべてが同時に響き、世界が壊れかけているようだった。
その中心に、あの人物が静かに立つ。息を乱すこともなく、焦る様子もなく、ただ見ている。冷たく、無機質な観察者のように。エルクスは額の汗を拭い、拳を握る。これが敵なら、危険すぎる。元々チーターであるが、それにしてもその範疇を超えてる。何か別の存在、もしくは……実験体。嫌な仮説が頭をよぎる。そこへ、乾いた音が空気を裂いた。金属が弾け、壁が砕ける。遠くから狙撃音。エルクスの耳が反応し、即座に身を伏せる。
「今の音……誰だ!?」
ミアが叫ぶ。エルクスは瞬時に周囲の反響を計算する。音の遅れ、反射角度、風向き。
「高所だ。あのビルの屋上から。」
その方向に目を向けた瞬間、また一発。地面が爆ぜ、火花が散る。狙いは正確だ。明らかに意図して撃っている。だが、照準はエルクスの足元を撃っている。援護射撃。仲間だ。エルクスの背筋が凍る。
「……奴ら、1匹じゃない。」
アマリリスが振り向きざまに叫ぶ。
「援護ってことか!?」
「あぁ。あれは同じ側の奴だ。」
敵が二方向に分かれている。ひとりはこの中心で暴れ、もうひとりは遠距離から支援。エルクスは即座に判断を下す。
「アマリリス、ミア!右側のビルへ回ってスナイパーを潰せ!キヨミはここに残ってくれ!」
アマリリスは短く頷く。
「了解!」
ミアも震えながらも答える。
「行ってくる!」
キヨミは冷静さを取り戻し答える。
「分かった。」
その瞬間、エルクスの視線の先で閃光が走る。敵がこちらを向いた。稲妻のような光が背後を照らし、彼の輪郭が一瞬だけ鮮明に浮かぶ。ゲソが揺れ、頬をかすめる風が焦げるように熱い。電流の唸り。地面のひびから光が漏れ、雷が走る。
エルクスは歯を食いしばり、地を蹴る。アークの攻撃が地面を薙ぎ、建物を貫く。ガラスが砕け、金属がねじれ、視界が一瞬で真っ白に塗り潰される。熱と音と光が混ざり、世界が歪んだように感じた。だがエルクスは止まらない。
脳が警鐘を鳴らしても、足が勝手に動く。止めなければ。これ以上この街が壊される前に。背後ではアマリリスとミアが別方向へ走り出している。足音が遠ざかるたびに、彼の胸が締めつけられる。仲間を信じるしかない。目の前の脅威に集中する。視界の端で、敵の眼が光る。
雷の中で、あの眼だけが静かに輝いている。恐怖でも怒りでもない。まるで世界を観察するような、冷たい知性。エルクスは息を詰めた。
「……何者だ。」
その声は空気に飲み込まれ、返答はない。ただ雷鳴が応える。再び轟音。地面が砕け、光が爆ぜる。エルクスは腕で衝撃を受け止めながらも、その隙を突いて前へ踏み出す。拳に力を込め、ただ一点、敵の胸元を狙う。火花が散り、風が鳴り、世界が光に包まれる。灰色の空の下、稲妻が走り、戦いが始まった。
アマリリスとミアは瓦礫を飛び越えながら、煙の立ちこめる路地を全力で駆け抜けていた。エルクスの叫びが耳の奥に残っている。あの瞬間、空気の中に確かに感じた。狙撃。高所。しかも連携していた。つまり、あの雷撃のチーターだけじゃない。もう一匹が、確実にそこにいる。
アマリリスは口の中の乾きを無理やり飲み下し、銃を胸に抱えたまま息を整える間もなく走り続けた。路面は崩れ、建物の影では市民たちが怯えて身を寄せ合っている。焦げた壁、割れたガラス、転がる看板。昼の街はまるで戦場だ。ミアが小走りでついてきながら、息を切らしつつ端末を確認した。
「発砲音……ここからおよそ二百メートル先、高層ビルの屋上あたり……!」
アマリリスは頷く。
「分かった、最短で行く。通り抜けられそうなビルを見つけろ。」
ミアが周囲を見渡す。
「あそこ、通路が繋がってる!」
指さした先、半壊した商業ビル。入り口の自動ドアは爆風で吹き飛び、ガラス片が光を反射している。二人は躊躇なく飛び込み、階段を駆け上がる。内部は停電しており、非常灯が赤く点滅するだけの暗闇。足音と呼吸音だけが響き、埃の匂いが濃くなる。アマリリスの脳裏を、一瞬だけ過去の光景がよぎった。
あの時の黒いコート。無表情。人混みの中、視線がすれ違っただけのあの一瞬。あの妙な静けさ。普通のタコのふりをしていたが、何かが違った。言葉にできない違和感。呼吸のテンポ、歩き方、目の奥の何か。あのとき、肌がざわついた。今、その感覚がまったく同じように背筋を走る。
階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、アマリリスは無意識に安全装置を外していた。銃口が前方に向く。ミアがそれに気づき、不安そうに視線を送る。
「どうしたの……?」
アマリリスは短く答えた。
「いや……この感じ、覚えがある。」
ミアが眉をひそめる。
「覚え……?まさか、知ってる相手……?」
返事はない。ただ一歩、また一歩。息が白く見えるほど空気が熱く、乾いていた。上階に近づくほどに空気が濃密になり、何かの圧を感じる。ミアが思わず喉を押さえた。
「……空気が……重い……。」
アマリリスもそれを感じていた。まるで見えない手が全身を押し潰してくるような圧迫感。静電気のようなチリチリとした痛みが肌に走る。階段の踊り場を曲がった瞬間、耳元で「パチッ」と小さな火花が弾けた。アマリリスが反射的に立ち止まる。床の鉄骨に焦げ跡。銃弾が掠めた跡だ。発射音は聞こえなかった。
つまり、サイレンサー付きの狙撃銃。もしくは……。
ビルの内部から外へ向けて撃っているのではなく、上から下へ、角度をつけて撃っている。アマリリスは即座に推測を立てた。
「まだ……もっと上だな。」
ミアが小さく頷く。二人は互いに目配せし、同時に駆け出す。暗闇の中で非常灯が赤く点滅するたび、互いの影が壁を走る。息が荒い。鼓動が速い。足元の破片を踏む音すら響き渡る。何階まで上がったかわからない。とにかく上へ。階段の終わりが見え、屋上へ続く鉄扉が現れた。取っ手に触れると、冷たい金属が微かに震えていた。ミアが囁く。
「いる……向こう側に。」
アマリリスは頷き、呼吸を整える。
「準備は?」
ミアがナイフを握り直す。
「いつでも。」
アマリリスは扉の隙間に指を差し込み、ほんの数センチだけ開けた。隙間から、風の音。いや、違う。音がない。この高さで、こんな静寂はおかしい。屋上には常に風があるはずだ。その瞬間、屋上から乾いた足音が響いた。ゆっくりとした、規則的な歩調。タッ、タッ、タッ。まるで自分の存在を誇示するような音。アマリリスは息を止める。扉の向こうから低い声。
そして次の瞬間、目の前で火花。扉の縁に弾丸が弾け、金属音が鳴り響く。反射的にアマリリスは身を引き、ミアが悲鳴を飲み込んだ。扉が静かに開く。
太陽光が差し込み、屋上の全景が露わになる。瓦礫の上、煙の中に立つ黒いコートの男。
アマリリスが低く呟く。
「……やっぱり、か。」
ミアが焦りながら言う。
「誰…?」
アマリリスは銃を構えたまま、目を細める。
「……お久しぶりですね。不正者狩りさん。……とは言っても前あったのは数時間前ですが。」
その声を聞いた瞬間、背筋に電流が走った。あの声、間違いない。アマリリスの脳裏に、あの短い邂逅が蘇る。すれ違っただけの、あの静寂。あの時の違和感が確信に変わる。
「やっぱり……お前、あの時の。一度だけ会った。あの無表情のタコ。普通を装ってたけど目が俺達とは違った。」
ミアが息を飲む。アマリリスは銃を構えたまま、言葉を絞り出す。
「弾丸のチーター、とでも呼ぶべきか。」
弾丸のチーター、バレルの無機質な瞳がまっすぐにこちらを射抜いていた。周囲の足場には無数の小さな銃口。まるで空間そのものが武器のようだった。バレルは無言のまま、一歩前に出た。アマリリスの引き金にかかる指が震える。
ミアは背後で息を呑み、構えを取る。ようやく風が動いた。その瞬間、屋上の床から金属音が連続して響く。銃口が無数に現れ、こちらを狙った。アマリリスの全身が緊張で硬直する。しかし、彼の目は恐怖ではなく怒りの色をしていた。
「あの時は見逃した。けど今回こそは逃さない。」
バレルの口元が、ほんのわずかに動く。表情というよりも、筋肉の微かな反応。
「それは……困りますね…。予定がありますので…。街を崩壊させるという…ね…。」
屋上の風は容赦なく照りつける日差しを運びながらもどこか冷たく感じられた。アマリリスはミアの呼吸を確かめ視線を鋭くしその場で周囲を見渡した。瓦礫や古い看板や室外機の金属面が光を反射する。
ミアは、それらすべてがバレルの「部品」になり得ることを瞬時に理解した。ミアは腰にあるナイフを握りしめているが表情は歪まずむしろ歯を食いしばっていてその小さな体が緊張で硬くなっているのがわかる。バレルは立ち尽くしている。逃げる素振りはなくむしろ静謐な余裕が滲んでいた。彼の眼差しは冷たく澄んでおり敬語を崩さぬその口調は不気味さを伴って周囲の空気を沈めている。アマリリスはミアに向けて話す。
「ここで確実に殺す。お前に割く時間は、そう長くない。」
その声の奥には必要ならば容赦しないという固い決意が隠れている。バレルはまだ動く様子はない。
「話は終わりましたか?」
その質問に答える事はなく、代わりにアマリリスは先程の扉を投げる。この扉は屋上と屋内を隔てていた物だが、あまりにも脆く頼りない物であったが故にアマリリスでも取り外す事が出来た。ミアも近くに散乱する看板やらを投げる。バレルの視線はそれを楽しげに見下ろしていた。バレルは投げられた物に銃口を生成し発砲するが、回転が掛かっていた為吐き出された銃弾はバレルにも、アマリリスにもミアにも当たらずにあらぬ方向に飛んでいった。
それでもバレルは舌打ち一つせずその場に留まる。すると床にかすかな振動が走り瓦礫の一部が微かに動いて接地点が増えたように見えた。バレルはわずかに口角を上げ
「物の扱いは丁寧に。」
と呟くとそれにあわせてこちら側の対策が一つ二つ崩れていく。アマリリスはその瞬間にホルスターに手をかけ拳銃を取り出す。ホルスターの中にあった冷たい鋼は彼の掌で確かに握られ銃身が日差しを反射した。彼は銃を抜いたが決して振りかぶらずトリガーに指を置くだけに留めた。銃声は街に余計な動揺を広げるため避けたい。しかし必要ならば一撃で制圧する覚悟を持っている。
バレルは穏やかな口調を崩さず
「銃を持たれましたか。良い選択です。」
と言いながらもその身体はまったく揺らがない。その言葉は皮肉にも聞こえたが彼は動じない。屋上の縁に触れた指先から次々に小さな銃口が形成され瓦礫や看板や空調機の角に沿って点在していく。だがアマリリスがあらかじめ潰しておいた接触点のいくつかは無効にされていたため弾道はいくつか逸れ看板は砕けるが誰にも命中しない。
ミアは叫ぶようにナイフを振るって一歩突っ込みバレルの視界を一時的に分断しようとする。バレルは礼儀正しく眉を上げながら接触点を新しく作り直したがアマリリスは冷静に距離を取りつつ一瞬でターゲットを絞り弾幕の来る角度を読み取る。銃を握る手は確かでトリガーを引く瞬間の重さを彼はよく知っている。
アマリリスはわざと一瞬だけナイフの後ろに立ちふさがりバレルの注意をこちらに向けさせる。その隙にミアが横から回り込み瓦礫を蹴り上げる。バレルが後ろに避ける事を確認した後、その看板に向かって発砲。アマリリスの銃弾は看板を反射しバレルに後ろから攻撃を仕掛けた。だが、バレルに当たることはなかった。
バレルは風のように冷静な声で
「良い連携ですね。」
と言い屋上の壁沿いに新たな接地を見つける。
戦局は瞬時に変化し続ける。アマリリスは銃口を見定めるよりも相手の体の揺れや指の微細な動き風の流れ瓦礫の振動など視覚以外の情報を総動員していた。ミアは小柄だが身のこなしが早く接近戦で有利に振る舞い彼女の持つナイフでバレルのバランスを崩そうと何度も突っ込む。しかしバレルは一切慌てず機転で床の別の場所を短く叩いたり指先で金具に触れて新たな銃口を形成し続ける。バレルはアマリリスとミアを相手にしているのにも関わらず、少しでも顔を出して民衆の脳天を貫く。彼は決して無駄に撃つことはしない。狙いは正確で確実に1匹1匹を殺しているように見えた。
アマリリスは先ほどよりも強い殺気を感じた。そう直感した瞬間バレルは丁寧に
「申し訳ございませんがここでの争いを長引かせる訳にはいきません。」
と告げた。彼の言葉はまるで約束めいていて引き金に指を置く動作こそ見せなかったがその体勢からはいつでも発砲可能な緊張が漂っている。
アマリリスはわずかに息を吐き口元を引き締めた。
「そうだな。それだけはお前の意見に共感できる。」
アマリリスの言葉は鋭く相手に突き刺さるがバレルは微笑みを崩さず
「あなた方の情熱は尊敬に値します。しかし、私が可能なのは上の許可した限りの妥協だけです。」
と答えた。そこへ遠くからの無線の声が途切れ途切れに聞こえエルクスが
「アマリリスどうだ、バレルを拘束できるか。」
と問いかける。アマリリスは拳銃をわずかに引き寄せながら
「バレル…。奴の名前か。」
そう問いかける。エルクスはすぐに答える。
「ああ。俺たちの相手してるチーターから聞き出した。」
「今は情報を優先。拘束は数合わせ次第」
と返す。ミアは短く「はやく…!」と詰め寄るがアマリリスは首を振る。彼はミアの衝動を抑えつつ敵を確実に追い詰める方法を選んだのだ。
バレルはその隙を見て静かに一歩踏み出した。床を撫でるように指を滑らせると新たな銃口が形成される。アマリリスはトリガーに指をかけ鋭く引く準備をしたが撃たない。彼はまずミアに合図しミアは素早くナイフ一度接近しバレルの動線を狭める。その一瞬でアマリリスは低く飛び込みバレルの腕を掴んだ。直接の接触だ。冷たい金属の感触が彼の掌に伝わりバレルは驚くそぶりを見せずむしろ丁寧に微笑む。
「やはり。街にウジャウジャといる有象無象とは訳が違うわけだ。これが不正者狩りと呼ばれる所以ですか。」
と彼は静かに言った。その言葉には観察者の興味が混じっている。アマリリスは答える代わりに腕を強く絞り相手の動きを封じた。だがバレルは微かに身をひねり接触点を別の瓦礫に移してみせる。接触点は切り替え可能だがその動作は時間を必要とする。アマリリスはそのタイムラグを利用し相手の衣服の端を掴んで足を払おうとしたがバレルは先に身を捻って彼の手をかわす。接触が外れた瞬間床の一箇所から鋭い音がして小さな破片が飛び散る。
それは外界に影響を与えたが人には当たらなかった。アマリリスはすぐさま拳銃を上げ一点を狙う。彼は発砲するつもりで引き金に圧を掛けたが寸前で止めた。バレルの身のこなしからは動かない殺意が感じられたが命中させれば瓦礫の一つが別の接地点となり更に事態が悪化する恐れがあった。
ミアは低い位置でナイフを振るいバレルの足もとを直撃させるがバレルは軽やかに体をそらしパン!と手を打つ。バレルの掌が瓦礫に軽く触れると音が変わりそこから小さな銃口が現れる。だがその弾はアマリリスが立てたバリケードに阻まれ外れる。屋上の一部が破片を散らしながらも人に命中することはなかった。反撃の代わりにバレルは丁寧に
「残念ですがこれでは私も任務を全うできませんね。」
と言うとその瞬間床に一度手をつき体勢を低くした。アマリリスはその動きに合わせて強く踏み込み腕を伸ばしバレルの肩をつかむ。二人の距離は一気に縮まり体温と息遣いが交錯した。
長い時間が凝縮されたように感じられた。双方の呼吸が乱れ鋼の匂いと日差しの熱が混じる。アマリリスは物理的優位を得ようと何度も接近し手で相手の動きを封じようとしたがバレルはそれを巧みにかわせる。彼の敬語と礼儀正しさは実戦における冷静さと一体となっており無駄撃ちや無益な殺戮を避ける節度を感じさせる。屋上の端に寄せられたバレルの姿は決して弱くはないが同時に乱暴でもない。アマリリスは一瞬ためらいを見せるがその瞳は揺らがない。
彼は無線を押して低く言った
「拘束を急げ。バレルはここに留まっているようだが指令が来れば動く。情報がいるようだ。」
エルクスの声が短く返る
「了解。キヨミも向かわせる。力を抜くな。」
無線は確実に味方を連結し屋上の時間は新たな緊張を含んで進んでいった。やがてミアが息を切らしながらもアマリリスの隣に戻り二人は短く目を合わせた。その視線は言葉を超えて理解を共有していた。
アマリリスは深く息を吸い窓の向こうの喧騒を見下ろした。人々の生活は再び動き出している。屋上の空気はまだ熱く現実は苛烈だ。彼は拳銃をホルスターに戻さずしっかりと胸前で保持しながらバレルに向き直る。
「命令だろうが自分の意思だろうが関係ない。命を奪った者、悪は死を持って償わせるだけだ。」
とアマリリスは静かに言った。バレルはわずかに俯きその後丁寧に笑みを見せた。言葉は合意にも決裂にもなりうる余地を残しながら屋上の影は長く伸びていく。戦いは終わらないしかし一時の均衡は作られつつあった。アマリリスとミアは互いの存在を確かめ合いながら次の一手を待ちエルクスの支援が整うまで屋上に立ち続ける。
バレルは逃げる意思を見せずそこに留まりつつもいつでも動ける姿勢を崩さない。その場には殺戮の煙は立ち上らないが危機の予感は確かに存在していた。誰もがその先に何があるかを知り得ないまま時間は無情に過ぎていく。