コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
轟音が街を貫いた。焦げたアスファルトが裂け、電光が地を這い、中心街の光景が一瞬、真昼のように白く照らされる。その中心で雷撃のチーター、アークがゆっくりと腕を振り上げた。纏う稲妻は獣の息遣いのように揺らめき、肩から肘へと滑り落ちては、地面を焦がす火花へ変わる。
その視線の先に立つのは、エルクスとキヨミ。爆風で舞い上がる砂塵の中、二人は背中合わせに構えていた。エルクスは背中に掛けていたスナイパーライフルを引き抜き、キヨミは軽やかに足を運びながら、体の重心を限界まで落とす。雷鳴が轟くたびに街灯が弾け、ガラスが砕けて落ちる。キヨミの瞳に映るアークは、まるで雷そのものだった。輪郭が定まらず、瞬間ごとに形を変える。
「……やばいわね…アイツ。」
キヨミが小さく呟く。エルクスは銃口を正面に据え、唇を噛む。
「やばいのは見りゃわかる。落ち着け。動きを読め。」
次の瞬間、アークの姿が一瞬かき消えた。地鳴りとともに背後から稲妻が襲いかかる。エルクスは反射的に振り向きざま銃を撃ち、弾丸は雷光の中に呑み込まれた。空気が爆ぜ、熱風が頬を切り裂くように通り抜ける。
「なっ……速すぎっ!」
キヨミが咄嗟に飛び退き、床を蹴る。アークは着地と同時に腕を振り下ろした。稲妻が蛇のように地を這い、キヨミの足元で爆発。衝撃波が吹き荒れ、破片が宙を舞う。エルクスは視界を確保するため、煙の中に閃光弾を投げ込んだ。閃光が炸裂。
アークが一瞬目を細める。その刹那、キヨミは滑り込むように懐に入り、蹴り上げた。アークは腕で受け止めるが、着弾の瞬間、静電気の火花が散り、キヨミの身体が弾き飛ばされる。空中で一回転して着地するも、息が乱れた。
「チッ、近距離もやるのかよ……!」
アークは笑う。低く、湿った声だった。
「近距離?違うな。これはただの副産物だ。」
次の瞬間、アークの腕から稲妻が枝分かれし、周囲の街灯や車へと伸びていく。金属が導電し、ビルの外壁が光に包まれた。まるで街全体が罠だったかのように、電流が張り巡らされる。
「雷、流してる……これ全部アイツの領域!」
キヨミが目を見開き叫ぶ。エルクスは唇を結び、素早くトランシーバーを確認した。
「アマリリス、ミア!こっちは雷野郎を押さえる。そっちは絶対に奴を逃すな!」
応答はノイズ混じり。雷が通信を妨害している。
「チッ……電波も遮断してやがるか!」
アークが愉快そうに笑った。
「通信を断たれるのは、狩られる獲物の常だろう?」
その瞬間、エルクスは引き金を連続で引いた。弾丸が電光を裂いて飛ぶが、アークは指先を弾くように電流を弾丸の軌道へ流し、空中で誘爆させた。火花が散り、弾丸が霧散する。
「効かねぇな……!」
エルクスの声が荒れる。アークは一歩踏み出し、片手を掲げた。
「威力が上がった……これが強化か。」
呟く声に陶酔の色が混じる。その指先から青白い閃光が奔り、稲妻が地面を抉った。地表が割れ、舗装が弾け、空気が焼ける。キヨミは身を伏せながら跳び、回し蹴りを繰り出す。アークの頬をかすめるほどの速さだったが、稲妻の反動で軌道を逸らされ、地面に転がる。エルクスはその瞬間を逃さず前に出た。
短剣を抜き、アークの懐へ突き立てようとする。だが電流が逆流した。雷光が刃を伝い、エルクスの腕を焼く。反射的に離した瞬間、アークの足が鳩尾を撃ち抜く。衝撃でエルクスが数メートル後退し、背中からビルの壁に叩きつけられた。
「エルクス!」
キヨミが叫び、アークに飛びかかる。しかし彼は手のひらをかざすだけで、周囲の鉄骨を伝って雷を走らせた。ビルの骨組みが青く光り、キヨミの周囲で爆ぜる。衝撃波が吹き荒れ、髪が逆立つ。エルクスはよろめきながらも立ち上がった。息は荒く、目は鋭く光る。
「……やっぱりただのチーターじゃねぇな。何か…禍々しい気配がする。」
アークはそれを聞いて薄く笑う。
「察しがいい。そう、俺はもう限界の先に触れた。そしてこの名を呼んだ。『アーク』とな。そして今頃屋上で戦っているタコもそうだ。『バレル』とな。全てあの男のおかげだ。」
雷撃のチーター、アークの言った言葉がすぐにはエルクスの耳には入ってこなかった。
あの男。エルクスはある一つの仮説が立つ。
「団体で行動している…?」
ただ、その言葉の端に潜む冷たい響きに一瞬だけ眉を寄せた。キヨミも動揺を隠しきれていない。
「強化された……?じゃあ今のコイツは……!」
エルクスは考える間もなく指示を飛ばす。
「キヨミ、真正面からは無理だ!左側、瓦礫の影から回り込め!」
キヨミは頷き、一気に駆ける。アークの注意がエルクスに向いた瞬間、キヨミが背後に回り、瓦礫を蹴って跳躍。彼女の靴底が閃光を弾き、逆光の中で一閃が走る。アークの頬に薄い傷が刻まれた。
「……へぇ。」
初めて血が滲む。アークは楽しそうに笑った。
「いいねぇ。やっと少し面白くなってきた。」
その瞬間、彼の周囲の空気が一変した。雷鳴の前の静寂。エルクスが直感で叫ぶ。
「下がれ、キヨミ!」
だが間に合わない。アークの掌から無数の稲妻が放たれ、地面を這い、瓦礫を貫き、キヨミの足元を爆ぜさせた。爆風で吹き飛ばされる彼女を、エルクスが滑り込みで受け止める。両者とも煙の中に倒れ込み、息を荒げながら立ち上がる。
「くそっ……!アマリリス、早く片付けて戻ってこい……!」
エルクスは唇を噛み、銃を構え直した。アークは両腕を広げ、雷を纏いながら不敵に笑う。その背後で街の電線が一斉に唸り、灯りが瞬く。
「さあ、見せてみろ。不正者狩りの力とやらを。」
雷鳴が再び落ちる。空が裂け、闇が閃光に染まる。エルクスとキヨミは構え直し、決して退かない姿勢で、その光の奔流を迎え撃った。
口元に血の筋が光ってもその顔は歪まず、むしろ怒りと集中が混ざった鋭さを帯びていた。エルクスが彼女を抱え止めるように受け止めた瞬間、キヨミの眉がきゅっと寄り、唇が細く結ばれる。
キヨミは体を半身でねじり、冷静に状況を把握し直していた。その視線はアークの全身をなぞり、稲妻の走るパターン、放電の頻度、周囲を導体として利用する挙動までを瞬時に分析している。女性としての身体的な小回りと機動力を武器にするキヨミは、ただ感情で突っ込むタイプではない。彼女は相手の癖を見抜き、刃の届く最短距離で勝負を決める。エルクスが苦しげに息を吐き、腰を落として状況を整える。右手でホルスターの位置に触れるが、今は銃を引き抜くよりもキヨミの動きに賭ける方が得策に思えた。アークは嘲るように笑っている。
「お前らがどんなチームか知らんが、ここで終わらせてやる。」
とでも言うように稲妻を指先で弾き、街路の縁石を伝わせて電流の壁を作った。その壁は見た目よりも速く、空間に薄い膜を形成している。キヨミはそれを見て小さく息を吐き、口元でつぶやく。
「今よエルクス。ここを抜けるしかない。」
言葉は短いが意味は鋭い。二人は互いの呼吸を合わせ、瓦礫に隠れた細い路地へ一瞬で滑り込む。アークは一瞬戸惑ったように見えたが、次の瞬間には稲妻を裂いて追いかけてきた。電撃の刃が追走し、瓦礫が閃光に照らされる。キヨミは瓦礫を蹴り、斜めに飛び上がる。小さな身のこなしでアークの視界を逸らし、その脇腹へと拳銃を連射する。
が、弾は電流に反応して逸らされる。だがその弾の一発がアークの肩に浅い跡を残し、稲妻の走りが一瞬乱れる。キヨミはそれを確認して着地と同時に反転、近接戦用に仕舞い込んであった短いナイフを素早く抜いた。刃を握る手に指が白くなり、彼女は冷静に言う。
「私に任せて、エルクスは狙って。」
エルクスは僅かに頷き、即座に狙いを定める。彼の手は震えていない。裏にある執念が、今は狩るための鋭さに変わっている。彼は素早くスコープを取り出し、しかしここは屋外の狭い空間だ。遠距離とは言えないが、視点を少し高く取り、通電している金属の軌道に沿って弾を撃ち込む算段をする。アークはキヨミの動きを受けて反撃し、電流が斜めに走り、地面の小石を炸裂させて破片が飛ぶ。キヨミは破片を避け、ひるまずに滑り込んでアークの背後へ回ろうとするが、そこから稲妻が跳ね、空気が裂ける。
刃先が稲妻の痕に触れ、火花とともに刃が熱を帯びる。キヨミの腕が鋼の熱で一瞬こわばるが、彼女は痛みを飲み込んでそのまま体をねじ込み、アークの背中に短い切りつけを入れる。鋭い痛みが伝わり、アークが軽く身をよじる。だが完全に止められるほどではない。血が滲む描写は避けつつも、その動揺が確かな手応えであることは明らかだ。アークは低く唸り、
「へえ、いい腕だ。」
と吐き捨てるように言う。電気がそれを受け、肉体にしみ込むように走り、いかにも危険な笑いがその顔を広げる。エルクスはこのわずかな隙に賭けた。彼は冷静に呼吸を合わせ、狙いを微調整して弾を放つ。弾丸は稲妻の合間を縫って飛び、アークの胸の浅い部分に当たりはしたが、稲妻が力を吸収し弾の威力を削ぐ。
しかし弾の衝撃がアークの体のバランスを崩し、彼は大きく後退した。キヨミはその衝撃を利用してもう一度跳びかかり、接近戦のままナイフの刃を深く突き立てる仕草で一瞬だけ押し込む。アークは身体を弾ませ、稲妻で反撃しようとするが、キヨミの鋭いひるがえしによりその掌はかわされる。互いに一瞬の間が生まれ、瓦礫の影で二人は息を整える。
エルクスは唇を噛み、息を吐いた。
「まだだ。もっと削る必要がある。あいつの増幅はただの力じゃない、電力を引き出す何かが体内で働いている。体の中心にある。」
キヨミは小さく首を振る。
「わかってる。だが直球は通じない。あいつは領域を作るタイプだ。外縁を崩すか、強制的に領域内での導電路を壊すか……。」
エルクスの目が鋭く光り、次の一手を思い付く。周囲の金属を使えるかもしれない。だがアークはそれを見透かし、笑う。目の前に展開された稲妻が、まるで答えを先取りしているかのように振る舞う。
「お前ら、面白い。だが覚悟しておけ。この俺達を止めるには相応の代価が要るぞ。」
その声に怒りより楽しみが混じるのが余計に腹立たしい。キヨミは口を噤み、唇だけ動かして短く返した。
「代価なら払わせる。私たちは諦めない。」
言い切るその声音が、エルクスの胸にも火を灯す。二人は一瞬だけ視線を交わし、互いの意思を確かめ合った。そこへ後方から低い金属音と共に影が迫る。瓦礫の山がもう一つ音を立て、近接した二人を抱え込むように倒れる。その隙を縫ってアークが高く跳び上がり、俯瞰の位置から全体へ放電を試みる。電光は扇状に広がり、街のビルや車両を媒介としてさらに増幅される恐れがある。エルクスはすかさず片膝をつき、懐から小さな円盤状の装置を取り出した。それはエルクスが自作で用意した、微弱な磁場と電流干渉を起こす簡易装置だ。
彼は息を止め、装置を瓦礫の上に投げ込み、迅速にコードを引き抜いて起動させた。装置は高周波のノイズを撒き散らし、近傍の導電性の経路に乱れを生じさせる。アークの稲妻がそのノイズに触れ、拡散し、パターンが崩れる。稲妻の列が一瞬切断され、電気の流れが不安定になる。
「今だ!」
キヨミが叫び、凄まじい速度で前に出る。刃は冷静そのもので、先ほどよりも深く、確実にアークの体に食い込む。アークは叫び声をあげるが、それは痛みというより驚愕の音だった。電気のコントロールが一瞬崩れ、自らの力が反動として返ってくる感覚に顔が歪む。
エルクスはすかさずスコープを覗き、息を合わせて銃を撃つ。弾はアークの肩に次々と入る。電気は弾の進路を変え、空中でパチパチと火花を飛ばすが、確かなダメージが積み重なっていく。アークはついに地面に膝をつき、その胸の稲妻が乱れて弱まる。
「はぁ……はぁ……。」
街のざわつきがかき消される程に、アークの吐息が聞こえる。アークの顔は理解ができずに困惑している様に見える。
空の色が暗く、静寂が一瞬訪れるほどの効果だった。キヨミはその隙にさらに一閃、刃を振り下ろすが、アークは辛うじて身を捻って受け流し、立ち上がる。彼の表情は変わらず笑っているが、笑いの輪郭が薄れているのは確かだった。息切れが混じり、稲妻の明るさが少しずつ落ちる。エルクスは汗を拭いながらも冷静に言った。
「ここで止める。仕留めるにはもう少しだけ削らないと、確実に後が危ない。」
キヨミは少しだけ息を整え、刃を拭うように構えた。
「わかった。エルクス、合図して。私が一閃で止める。」
彼女の声は静かだが揺るがない。エルクスは目を閉じ、短く息を吸って吐き、拳に力を籠める。「行くぞ」だがその瞬間、遠くで破裂音が聞こえた。瓦礫を越えて伝わる音は、違う方向からの乱入を告げている。エルクスは一瞬眉を寄せ、即座にトランシーバーに耳を寄せる。
「アマリリスどうだ、バレルを拘束できるか…!」
ノイズ混じりの応答の先から、アマリリスの低い声が聞こえた。
「バレル…。奴の名前か。」
エルクスはすぐに答える。
「ああ。俺たちの相手してるチーターから聞き出した。」
「今は情報を優先。拘束は数合わせ次第。」
と返す。切られる直前のトランシーバーからはミアの「はやく…!」と言う声が聞こえた気がしたが、ノイズ混じりではっきりとは聞こえなかった。エルクスの顔に僅かな安堵が走ると同時に、戦況はまだ終わっていないことを痛感した。アークは膝をつき、地面の埃を指でかき上げるようにして立ち上がる。その姿は疲労を見せつつも本能的な獰猛さを保っている。
「ふん、随分としぶといな。いいだろう、もっと楽しませてくれ。」
彼は静かに言うと、胸の奥で何かを弾くように感じ、再び稲妻が高く舞い上がる。しかしその稲妻は先ほどよりも不安定で、キヨミとエルクスが繰り出した連携が少しずつ効果を上げている証拠でもあった。キヨミは静かに息を整え、刃の先をアークに向ける。
「ここで終わらせる。」
その言葉は決意で満ち、彼女は小さく跳ぶように前に出た。エルクスはスコープを覗いたまま合図を送る。互いの動きは互いに融け合うように連動し、二人の意思が一つの刃のようにアークに迫る。稲妻の渦が再び集まり、空気が裂ける。
その瞬間、どこからか突風が吹き、遠くの瓦礫がこなれ、塵が舞い上がる。アークの背後で薄く笑う影がちらりと見えた気がした。
昼下がりの喫茶店は、いつもより賑わっていた。外の陽光が大きな窓を透かし、木製のカウンターや磨き込まれた椅子の表面に斑になって光を落としている。客足が途絶えない時間帯で、近所の商売人や昼休みのサラリーマン、老夫婦に学生。色とりどりの会話と器の音が店内を満たしていた。
コーヒーの香り、焼き立てのパンの匂い、克明に磨かれたグラスが触れ合う鋭い高音。フランはそれらを、まるで楽団の指揮者のようにさばいていた。手際よくポットを傾け、注文を口にした客一人ひとりにさりげない一言を添える。彼女の動作は無駄がなく、だが決して事務的ではない。少しの間合い、柔らかな声のかけ方、皿の置き方の角度が、常連たちに安心感を与えるのだ。
テレビは壁の高い位置に据え付けられていて、かすかにニュースの音声が店の片隅まで届いていた。画面の字幕には、ロビー前の事件が大きく報じられている。そこそこ大きなテーブルに座る年代の客たちは、視線を時折テレビに寄せては眉を寄せる。話題は尽きない。昨日のこと、朝の惨状のこと、街の噂のこと。フランは客の様子を見ながら、注文の合間に軽く相槌を打ち、コーヒーを差し出す。その表情は柔らかで、しかしどこか聡明な光が宿っている。
彼女の喫茶店は、街の情報が自然と収斂する場所でもあった。客が来れば噂が持ち込まれ、噂は別の客の耳へと渡る。フランはそんな流れを、嫌がらずに受け止めていた。
その午後、街の中心方面からいつもとは違う轟音が、遠くからひりつくように伝わってきた。最初は車のクラクションの重なりか、防災アナウンスのような機械のざわめきかと思えた。だが音は短く鋭く、耳に残る。店内の会話のテンポが一瞬だけ乱れ、誰かが「なんだ今の。」と口をつぐむ。テレビ画面の映像が揺れ、画面内のテロップが一瞬だけ乱れる。窓の外を見る客の視線が一斉に同じ方向へ向いた。空気が変わる瞬間というのは、いつも唐突に来る。音が、匂いが、空の明るさの質が一瞬変わる。客の間で不安が育ち始めるのが、フランにはわかった。
「外、なんかあったのかしら。」
隣の席の女性がささやく。その声に重なって、入口のドアが小さく震え、外側から人の足早な気配が聞こえた。店の奥にいるフランは、手元のカップをさっと拭き、何事もないように微笑みを作る。プロとして、場を乱さないのが彼女の流儀だ。だがその微笑みの端で、瞳の奥にわずかな警戒の影が走った。
長年、街の噂や人の顔を見てきた経験がそうさせる。小さな違和感は、たいてい何か大きなことの前触れだ。店の外では短い悲鳴が一つ、二つ。窓越しに見える通りの向こう、ロビーの方角に、黒い影が稲妻のように走ったという報告が、回覧板の掲示文のように客の間で伝播する。誰かがスマートフォンを取り出し、画面をこすりながら映像を確認する音がした。テレビの音声が一瞬だけ上がり、アナウンサーの声が『市内中心部、複数の暴動か――』と断片的に漏れた。だがその直後、店内の明かりが微かに震え、蛍光灯の白い陰影がちらつき始める。
最初は「瞬間的なブレーカーの変動か」と誰かが言った。だが、瞬間の次に訪れたのは、より奇妙で不穏な静けさだった。蛍光灯のちらつきが長くなり、次第に光が減衰していく。カウンターの上に積んだ紙ナプキンや皿が、光のグラデーションで生々しさを増すはずだったのが、そこはかとなく色味を失っていく。テレビの画面が暗くなり、アナウンサーの口元だけが薄く光って浮かぶ。店内の空気が、一枚の黒い布で覆われたように重くなった。
そして、完全な停電。音が消えたわけではない。だが照明が消えると、人々の視線は一斉に互いの顔を探す。声は小さくなり、カップのぶつかる音が近くで大きく響く。外から差し込む自然光がまだあったため、完全な闇にはならなかったが、店内の温度感は変わる。色と音のバランスが崩れ、日常の輪郭が曖昧になると、人は本能的に不安を募らせる。
子連れの若い母親が子供を抱き寄せ、少し前に座っていたサラリーマンが立ち上がって窓の方へ向かう。窓の外、遠くに黒い雲が出たわけではない。だが街の向こうで閃光が弾き、まるで夏の夕立の前触れのように電光が空を裂くように見えた。
フランは、あくまで冷静を装いつつも一瞬で事態を把握していた。停電の原因は単純な停電ではない。電気の回路が外部から干渉されたように見える。機材の弱点を突くような、精密な何かの痕跡。喫茶店の小さな厨房に回ってブレーカーを確かめる余裕は彼女にはない。客たちの不安を増幅させないためにも、まずは落ち着かせる必要がある。
フランは手早くカウンターの引き出しから小さな懐中電灯を取り出し、明かりを灯す。油断のない光が、カップの縁をほんのり照らす。暖色の光だ。イカタコの顔は暖色の光で見えると安心する。フランはそれを知っている。
「大丈夫よ。少し停電みたいね。外で何か起きてるみたいだけど、ここは安全にしておきますから、ゆっくりしていって。」
彼女の声はいつもの通り落ち着いているが、そこに寄せられた言葉は確かな指示になっていた。客は戸惑いながらも椅子に戻る。重苦しい沈黙が少し和らぐ。フランは店員に合図を送り、入り口を軽く閉めさせると、カウンター脇の小さな箱からろうそくを取り出した。火を灯す仕草は慎重で、長年の習慣が滲む。ろうそくの炎は紙コップに映り、短い影を踊らせる。瞬時に店内の色合いが変わり、人々は無意識に安心の吐息を漏らす。人の心理は小さな光に救われるものだ。
そのとき窓の外、通りの方から人の叫び声と、金属同士が擦れるような鋭い音が混ざって聞こえた。店の外に視線を走らせていた客たちが再び身を乗り出す。窓の向こう、広場の方角に黒い点が動いている。最初は人混みのせいかと思えたが、その群れの動き方が異様だった。整然と散開するのではなく、いくつもの焦点から同時に同じ動きをしている。そこに立つ何者かが、わざとらしく動線を作っているかのようだ。客の一人が「何だあれ……」と声を漏らす。
誰もがその正体を確かめようとスマホを向けたが、電波も途切れているらしく画面は断続的に止まる。窓ガラスに映る外の動きは、フランの店内の揺らぎと重なり、まるで別の世界を映す鏡のように不安を増幅させた。
フランは、窓の外より先にカウンター内の事務スペースに戻り、奥の棚から小さなラジオを取り出してチューニングを試みる。電源が落ちているのか、受信は途切れ途切れだ。だが断片的に『ロビー前で……多数の犠牲……』という断片が入り、フランの顔が一瞬強まる。街の大きな出来事は、表情に反応を生む。店の常連客の中には昔から物事の筋道を読む人もいて、彼らから出る落ち着いた
「これは単なる事故じゃない。」
そうした言葉が、店内に低く広がる。
外ではさらに事態が激化していた。遠目に見えていた「動きの焦点」は、やがて視認できる形をとりはじめる。光の閃きとともに、空気が一瞬裂けた。稲妻のような閃光だが、雲はない。空に走るその閃光は自然現象のそれとは違い、鋭く、制御された印象を与えた。理解するのに瞬間を要した人々は口を半開きにして外を見つめる。建物の屋上で何かが跳ね、立ち尽くす物体の輪郭が明瞭になる。人の形に見えるその「何か」は、稲妻の光を纏い、立っている。誰かが叫んだ。
「あれは…!」
言葉はそこで切れる。店内の客たちは互いに顔を見合わせ、表情が変わる。フランの指先が小さく震えたが、その震えはプロフェッショナルな所作で抑えられる。彼女は客に向けて低く「ここにいて」と促すだけだった。停電の原因は次第に明白になっていった。外の光の奔流は、配電線を叩くように広がっていき、街路灯が順に落ちていく。自動車のヘッドライトが一瞬だけちらつき、その後多くが停まる。窓の外に現れた人物の一人が手を上げると、吐く息のように周囲の電流が曲がるのが見えた。フランはその光景を見て、言葉少なに呟く。
「稲妻を操るチーターね……。」
彼女の視線が固まる。客の中には通報を試みる人もいるが、携帯は圏外か電波が途切れているようだ。外の混乱がやがて音となって店内へ届き、パニックの気配が強まる。子どもがしくしくと泣き出し、年配の男性が黙って帽子を握る。
そんな中でも、フランは火のついたろうそくをていねいに並べ、客に温かい飲み物を差し出し続ける。彼女の手は止まらない。喫茶店の灯りは、いまや物理的な火のみ。だがその火は人々の心理を繋ぎとめ、場の秩序を保つ端緒になる。
窓外の動きがさらに近づく。人々のざわめきが低くうねる。看板が揺れ、車のクラクションが短く鳴る。店の扉の外に立っていた配達人が、店内に滑り込み、大声で息を整えながら言う。
「屋上だ、あいつら、屋上にいる。稲妻みたいな奴と、何か銃をばらまいてる奴がいる!」
彼の言葉に店内の誰もが息を呑む。フランは無言で頷き、さらにろうそくの配置を整える。その動きは、ただの女将の仕事を超えて、場を守るための配置であることが感じ取れる。火は客の顔を柔らかく照らし、目に見えない秩序を生む。
屋上で見える稲妻の人物の姿は、都市のスカイラインと相まって、異様な影絵を空に投げかける。稲妻を操る者の輪郭がはっきりし、隣には、床や看板、路面から何本もの鉄砲の筒が突き出しているように見えた。銃口が地面や壁から突出して弾を吐く。通行人が悲鳴をあげ、走り去る。フランはその光景を見て、ただ一言だけ低く呟いた。
「……一刻も早く、ここを安全にしないと。」
彼女の言葉は自分への宣言でもある。店内での対応は瞬時に合理化される。フランは常連の中で落ち着いている客を探し、その手を引いて奥のテーブルへと促す。老人には温かい毛布をかけ、母子にはそっとおもちゃを渡し、何より子どもの目の高さに明かりを置く。誰かがラジオの周波数を必死で探している。
誰かがスマホの小さい画面で外の映像を繋ごうとしている。だが情報は断片的で、混乱の輪郭を掴むには至らない。フランはそれでも客の顔を一人ひとり見渡し、安心のための言葉を選びながら繰り返す。
「ここで温かいものを、ゆっくり飲んで。外の騒ぎはここでは入れさせないから。」
そのとき、店のバックドアの隙間から、かすかな振動が伝わる。外の床が微かに震えるような感覚だ。店内のガラスがかすかに鳴り、ロビーの方から振動に合わせて遠い音が上がる。フランは動きを止め、耳を澄ます。外の空気が店の中に流れ込むと、冷たい電気の匂いが鼻腔を刺した。
自然界の雷とは違う、金属が擦れるような、選択的な電気の匂いだ。それは作為的なもの誰かが、ある種の装置か能力で配電網を操作している証拠だと、瞬時に察せられる。
客の不安はピークに達しつつあった。会話の断片が増え、恐怖と興奮が混ざった声が自然と大きくなる。だがその中でもフランは冷静に、しかし確実に場を保っていた。停電の影響で店内の雰囲気は夜のものに近づき、ろうそくの柔らかな炎がゆらりと揺れるたびに、誰かがまた小さな笑いを取り戻す瞬間があった。そうした一瞬を彼女は大切に守った。
外はまだ騒がしく、街の上のほうで稲妻がまた走る。屋上の影は人の形をして、そして徐々に動きを見せる。通路を駆ける足音、鉄の軋み、何かが空を引き裂くような低い音。フランはその音に合わせて、店の奥の棚から更に幾つかのろうそくを取り出し、窓際のテーブルにも灯を灯した。小さな光の輪が店内を満たし、そこに居る人たちの顔を守った。
停電の翌刻、街のニュースは再び動き出すだろう。だが今はこの喫茶店が、ただ一時の避難所である。フランは店の片隅で、一人の客が震えているのを見つけると、何気ない話題で気持ちを逸らす。店の中にいる人々は、外の恐怖を共有しているが、フランの存在によって一つの屋根の下にまとめられる。
昼の賑やかさは消え、そこに残るのは薄い陽光とろうそくの温かさ、そして人々の思い出を語る低い声だけだった。外で何が起きても、この小さな灯りは誰かの手の中で消えることなく、続いていく。